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どうか、いつまでも…
『……ごめん』
駅のホームで、電話越しに聞こえた彼の声は、前を過ぎ去る電車の音でかき消された。
「ああうん、全然平気っ」
『でもこないだも俺…』
「本当にっ…平気だから…」
必死に取り繕ってみたけれど、きっと電話の向こう側にいる彼は気付いてる。
「こっちこそ、忙しいのにごめん」
耳に当てた携帯電話がやけに冷たく感じた。今日もまた、「ごめん」を最後に通話が終わる。
「はぁ…」
息を吐けば、星一つ無い都会の夜空が白く染まる。
「…何が平気だよ」
約束していた来週の予定をキャンセルされてしまった。徹夜明けの体には相当…いやかなりショックな出来事だ。三週間ぶりに恋人の声を聞いたと言うのに。
携帯のカレンダーを開けば、今年があと二週間しかない事に気付く。
「もう…二年経つんだ」
彼がイギリスへ移転すると言って僕の元を去ったのも、ちょうど二年前のこの凍てつくような冷たい季節。
突然の事に戸惑いながらも、自分の気持ちを押し殺し彼を見送った。
だけど今は、どうしてあの時 彼を引き止めなかったのかと後悔ばかり。
海外で一流のスタイリストを目指す彼と、平凡なサラリーマンを続ける僕。世界が違うとはまさにこの事だ。
***
「へぇ、んじゃ来週空いてんの?」
ざわつく会社の食堂で机に肘をつきながら定食を食べる同僚の言葉に思わず息を詰まらせた。
「空いて…はない」
「なんだよそれ、だって断られたんだろ?」
唯一、僕が男と付き合っている事を知っているこの同僚は心底無神経だと思うんだ。
「僕もちょうどその日仕事だったし」
「その日って休業じゃなかったけ?」
「……取引先との打ち合わせ入れたの」
「ふーん。お前ってそんな仕事熱心だった?」
こうやって、今触れられたくない話題を掘り下げようとしてくる。
僕が男と付き合っている事を知った時も、勝手に人の携帯を覗いて僕と彼が写った写真をこれまた勝手に見られたからだ。
普通、人の携帯を覗くか? あり得ない。
「どうせやる事無いし…」
「そんな悲しい事言うなよー」
大体、この同僚は入社当時からやけに僕に絡んでくる。
鬱陶しい程に。
「いつから付き合ってんの?」
そして同僚の質問攻めは始まると後が長い。
「…高三」
「どっちから?」
「……向こう」
「へぇー」
淡白に終わらせたいのに、この反応は恐らくまだ話題を掘り下げようとしてくるだろう。
「抵抗は無かったのか?」
「何の」
「男と付き合う事に対して」
早いとこ食事を済ませて退散しようと茶碗を持ったが、同僚の言葉にピクリと体が停止した。
「……無くはないけど」
「けど?」
問われた事を頭の中で反芻してみる。
告白をしてきたのは彼。特に仲が良かった訳でもなく、たまに席が隣同士になった時数回話した程度の関係。
「……好きって言われたの…初めてだったから」
いつもクラスの中心に居て、明るくて頼りになるまさにヒーローの様な存在だった彼と、教室の片隅でひっそりとモブとして日々を送っていた僕。
「初めて告白されたから付き合ったの?」
「………」
「相手は男なのに?」
初めはそりゃ驚いた。 僕とは正反対の彼が、僕を好きだと言ってきたんだ。
だけど、僕はその時…
「ねぇ、ほんとに好きなの? それって」
「っ…な、何でそんな事」
「だってさ、全然そんな風に見えない」
同僚の僕を射る眼差しがとても痛く
「いくら向こうが仕事忙しいからってさ、流石に二年間一度も会いに来ないって寂しくないの?」
「別に…」
「ほら、そういうとこ」
けれど、言われた事に対して何も言い返せなかったのは事実で、そして一番否定したい事でもあったけど、乱されてはいけないと毅然とした態度を必死で保った。
「…ちゃんと今は好きだし」
「……今は、ね」
好きじゃなかったとしても、好きになりたいから始めてみてもいいじゃないか。
「なら何も言わないけどさ」
どうせ終わりはすぐにやってくる。そう思いながらも、何もなかったから始まって、もう五年も経ってしまった。
初めは確かに好きじゃなかった。僕なんかを彼が好きだなんて、きっと罰ゲームか何かで言わされてるだけだと思い込んでいた。
だけど、付き合って最初の一年で僕は完全に彼に恋をした。
とてもとても大切にされ、次の一年で初めてキスをした。
次の年は初めて彼と体を重ね、沢山デートをして、相談も何もされないまま、その次の年に彼は突然 僕の元を去った。
そして今年………
「なぁ、本当にいいの?」
「何が」
「ほら、来週」
また、彼の居ない一年が過ぎようとしている。
***
「本日はありがとうございました」
先方に頭を下げ、駅前のカフェを出て電車に乗り込む。あれから思いの外仕事が忙しくなり、結局今日も休日出勤となってしまったけれど、夕方から入れた打ち合わせがあったから外に出るにはちょうど良かった。
今日はこのまま直帰して、明日は仕事が休みだから久しぶりに昼まで寝よう。
頭は重く、すぐに帰って寝たいのに…考えるのは今日という日の事。
「………馬鹿」
街の色が変わる特別な日。彼と過ごすはずだった時間は止まらない電車の様にあっという間に過ぎ去って行く。
電車から降りると携帯が振動する。
画面に表示される名前に、肩を落としながら僕は電話に出た。
『ねぇ、今から会わない?』
ハツラツとした声が鼓膜に響く。
『仕事終わったんだろ?』
「うん。でも今日はもう疲れたから…」
『えー、これからじゃんかー』
疲れた体に同僚の相手ははっきり言ってキツい。 こんな時まで僕に電話を掛けてくるとか。もしかして相当暇なのかな。
こんな日は、僕じゃなくて気になってる女性にでも声を掛ければいいのに。
『……寂しくないの?』
そして、やっぱり同僚は無神経だ。
「………だから」
それか、余程のお節介焼き。 または嫌がらせ。
「寂しくないわけ、ない…じゃん」
家に着き、中に入ると玄関先で足が崩れ落ちた。
「なんで、こんな時に電話してくるの…っ…」
冷え切った体がガタガタと震えた。
『なんでって……分かんない?』
同僚の声が、どうしてこんなに優しく聞こえるのか僕には分からなかった。
気付いちゃいけないと、そう思った。
『ねぇ、ちゃんと本当の事言いなよ』
だけど、それ以上は言わない同僚に、初めて僕は本音を吐き出してしまったのだ。
「……さみ…しい…っ…」
『うん』
「…彼に…会いたい…」
『……うん』
同僚の気持ちに気付いた上で、僕が口にするのは彼の事ばかり。
「ごめ…っ…ごめん、なさ…」
『なんで謝るの?』
ずっと我慢してきた。僕とは正反対の彼に少しでも嫌われない様に、聞き分けの良い人になろうとして。
周りにも、出来るだけ気付かれない様に振舞って来た。
『彼から連絡来てねえの?』
「っ…ゔ…ぅ…」
彼の夢を応援してあげたくて、自分は二の次で良いと必死に自分に言い聞かせて、負担を掛けたくなくて平気なフリをした。
『泣くなよ。 大丈夫だから』
無神経なのは僕の方だ。 僕より悲しそうな声で大丈夫だと同僚に言わせてしまっている。
『……あいつ、幸せ者じゃん』
ぼそりと同僚が呟いた言葉。 自分の嗚咽に紛れてよく聞き取れなかった。
『あのさ、最後に俺からのプレゼント貰ってくれない?』
「え……」
『本当はさ、こんな気持ちで渡すはずじゃなかったんだけど』
同僚がそう告げた瞬間、家のインターホンが鳴った。
『あいつ、ああ見えて凄く心配性でさ』
寒さが増す、十二月の夜。
『親友に恋人の監視させる程だぜ?』
電話越しの同僚の声が震えた。
『でも、ちゃんと間に合って良かった』
鳴り続けるインターホンの音に引き寄せられ、そっと扉を開けると、電話の向こう側で同僚が優しく笑う。
『お前が一番喜ぶものにしといたから』
浅い息が聞こえた。 心臓がドッと脈を打った。
「…ただいま」
「っ……………」
苦しい程に、胸が痛くて、これまでずっと溜め込んでいた涙が溢れる。
ボロボロと、まるで外に降り注ぐ雪の様に。
「ごめん……急に……」
「…っなんで…」
「びっくりさせたくて……その…仕事も頑張って終わらせて来たんだ…っはぁ、あと…あいつがチケット取ってくれて…」
ここまで走って来たのか、息を浅くさせながら、頬も、耳も、指先も、寒さで真っ赤になった彼。
そして、彼が言った“あいつ”。
「寂しい思いさせて…ごめん」
「っ…」
「って…俺…謝ってばっかだよな…」
ここに居るはずのない彼が目の前に立っている。
『メリークリスマス』
耳に当てた携帯電話が、その言葉を受け取ると手から滑り落ちた。
『どうか、いつまでも幸せに』
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