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番外:下鴨と関係ない人「木鳴祖母」
弘文の祖母視点。
※番外編は時系列順に並んでいない可能性があります。
「いらっしゃいませ、おばあさまっ」
四人を産んだとは思えない見た目は下鴨の特性なのかと思わず玄関先で全身を眺めてしまう。
抱き上げている次女の深弘と洋風のかわいいエプロンドレスを着ている。
長身の康介くんが着れるこういった服があるのかしらと感心していると「海外製です」と教えてくれた。
「おひさしぶり。お邪魔しますね」
「おばあさまも着ませんか? 大きめかもしれませんが、それはそれでかわいいです」
持ってきた荷物を台所やリビングに置くと康介くんが抱えた深弘が「ばぁあ」とちいさく言いながらエプロンを差し出してくる。ハイカラなものは似合わないと断るわたしはこの家にはいない。
「おばあさまかわいいです」
ニコニコ無邪気に笑う康介くんと「あーあー」と言いながら拍手する深弘。
ほめられて悪い気がするわけもなく「そうかしら」と返すと「もちろん」とうなずいてくれた。
常識的ないろいろなものを脇に置いて康介くんを評価するなら「良い子」だ。
少なくともこの家の中で彼に嫌悪感を持ったことも不快にされられたこともない。
社会にはしがらみや役割や義務がある。
専業主婦であるのなら家の中のことをして夫を完璧に支えるのは義務だ。
下鴨康介という人の仕事は主婦業ではないので専業主婦という言い方はまた違うのかもしれない。
この、下鴨という家にまつわる不可思議な逸話が事実だというのなら、康介くんはすでに大きな仕事をやり終えている。
次期当主になる人間を産むこと。長男である鈴之介が産まれた段階で康介くんは大役を立派に果たした。下鴨という家にとってこれ以上に重要なことはないという。
血を繋げ、次期当主を育てるのはどの家にとっても重要なことだが、下鴨家にとっては重みが違う。
しきたりを破ろうとすると災いが降りかかるという。
それだけなら家の血筋を重んじる名家によくある伝承かもしれない。
わたしは少女時代に父に連れられて行ったパーティーで当時の下鴨のご当主とその生みの親になる方を見た。自分の息子と並んで兄弟のように見えるのは若くして子供を産んだからかと下世話なことを父に聞いた。
父はそれもあるだろうと肯定しながら、若く美しく見えるのは大切にされているからだろうと微笑んだ。
男の体で子を産むというのは身体への負担は普通よりも大きい。女だって命を落とすことがあるのだから、男がするのは大変だろう。それでも、時代が時代であるのなら男か女かわからない半端者として両性具有であるというだけで虐げられるかもしれない。
下鴨家は両性具有の産んだ子供が次期当主ということになっているが、このからくりは残酷で切実なものだろう。
自分の生みの親が不当な扱いを受けないように子は優秀であろうとする。優秀ならばこそ次期当主となり、いずれは当主におさまる。
当主は優秀でなければならないが、人は何の理由もなく努力を続けられる生き物ではない。当主を当主たらしめるための努力の陰にあるのは親だ。自分の生みの親である両性具有である人を誹謗中傷から守るために努力を重ね高みを目指す。優秀な後継ぎとして力をつけた人間を産んだものを虐げることはない。産んだ子供の優秀さにより両性具有の地位が保障される。
次第に、両性具有の産んだ子が次期当主と言われるようになるが、それは親を守ろうとし続けた子の努力の成果だ。下鴨の発展の背景にあるのは親子愛だと思えば、あの家の当主の優秀さの理由がわかる。金や欲に溺れたり、人から騙されることはない。長年続く家の名前に甘えることもない。
自分の不始末の責任が自分ではなく親に行くことを知っているからこそ当主は冷静に判断する。そう生きていくしかない。
長男の鈴之介を見るたびに康介くんを人質にされた感覚で生きているのかと不安になる。少女時代に見聞きした噂話など今の世には関係ないのだと知りたい。けれど、笑っている康介くんを見るたびにパーティで見た当主の隣の美しい人を思い出す。愛されて大切にされているからこそ若々しく美しい。当主の優秀さもまた愛の形のひとつだ。
下鴨の家のやり方に横から口出す権利をわたしは持ってはいない。
孫は婿に入ったのだから何も言えない。
それは何もできないというわけではない。
身体が元気なうちに出来ることはいくらでもある。
「今日は黒豆を作ります」
料理の本をテーブルに広げて見せる。
深弘といっしょに本の文字を追う康介くん。
彼は意外に勤勉だし、真面目だ。わからないことがあれば質問してくるし、手元をおろそかにしない。食材の温度管理も完璧なので揚げ物だって失敗しないで出来る。
それなのに孫の口から何もできないと聞いて首をかしげてしまう。
わたしが教えている時だけしっかりできて、一人では失敗してしまうのかと思ったら違った。
揚げ物は孫に怒られたというのだ。
部屋を脂臭くさせた、ガスコンロの周りを汚したとか、使い終わって油の処理をせずに放置した、などではない。
火傷しそうなことはするなと言われたらしい。
孫は過保護だ。それが愛情かもしれないが、自分でやらせないでおいて嫁が料理しないとはなんとういう発言だろう。意地悪な姑を思い出す。孫の酷い印象操作を知ってしまった。嘆かわしい。
油跳ねのしない卓上フライヤーで自分たちで揚げながら食べたのは楽しかったと語る康介くんに水を差すようなことは言えなかった。家族仲が良いのは間違いない。日常的な噛み合わなさがあるのはいけない。
「黒豆は昨日からお水に浸しております」
「では、煮ていきながら間に包丁の使い方講座です」
「はい、先生! おねがいします」
聞いているこちらが気分の良くなる元気な返事。
この一生懸命な姿の理由が孫にほめてもらいたいという気持ちしかないのだと触れ合ってすぐに分かった。
油断するとすぐに鍋が焦げてしまうあんこ作りを汗だくで頑張った康介くんに「買えばいいだろ」と言い放つような孫にもめげず「いいから、食べて」と無理矢理のように勧めて「普通にうまい。頑張ったな」と言葉を引き出していた。労力に見合っていないと思うのはわたしだけではなく子供たちも同じだったようで「もっと言い方があるでしょ」と長女の弘子は怒っていた。
わたしも女の子を産んだなら、こうして姑に立ち向かってくれたのかしらと思うぐらいに曾孫は良い子に育っていた。孫譲りで血気盛んな気がするので康介くんを見習っておだやかさも手に入れてほしい。
「あら、あらあら。すごく上手じゃない、あなた」
「こっそり練習しました。失敗したのはみじん切りにして離乳食にしたり弘文がハンバーグの具に混ぜ込んだり」
「なかなかのものですよ。何より早いし、面白い形を作りますね」
細工包丁を教えると他の切り方をしなくなって心配していた。どうやらきちんと習得したらしい。
孫は普通に切らないのかと文句を言いだすだろうけれど子供たちは絶対に喜ぶだろう。
康介くんは食事の準備でもなんでも積極的にしない。
誰かが肩代わりできるようなことを自分でする意思を見せないのは、そういった育ち方をしているからだろう。批難する気にはなれない。孫が自分の手が回りきらないと思ったら宅配サービスや下鴨家からの親切を受けている。それで回っていくのなら康介くんが無理をする必要はない。
自分がするのは自分だけにしかできないこと。富裕層ではそう珍しい考え方でもない。
さまざまな形に姿を変えた野菜たちは食卓を華やかに彩るだろう。
康介くんにしか作れない特別な一皿のできあがり。
これを朴念仁である孫が喜ぶかはまた別の話。
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