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運命じゃない人 1
――人が、恋に落ちる瞬間を見た。
なんて、昔見たキャッチコピーが頭を過ぎる。目の前で他の男に心を奪われたのは、数秒前まで俺に愛を囁いていた男だ。
隣に立つαの男は、街で偶然出会ったΩと、二人だけの世界を作るかのように惹かれ合っていた。
むせかえるほど濃密な空気が、辺り一帯を包み込む。フェロモンに反応しないはずのβの俺ですら、肌が粟立つほどに、抗えない“運命”の存在を感じた。
“運命の番”なるものは、知識としては知っていた。けれどβである自分には関係のない話だと、あまり深く考えていなかった。そんな、まやかしのような現実が、残酷に俺を打ちのめす。
この二人が恋に落ち、番として人生を共にするのは必然なのだと、まざまざと見せつけられてしまった。大好きだった男が、一瞬で俺の恋人でもなんでもなくなってしまったのだ。
あれ以来、βにしか恋をしないと決めていたはずなのに。
「マジかよ……」
あまりのことに絶句して、杉浦 秋人 は震える手で差し出された紙切れを受け取る。今までリビングのソファで寝ていたらしい男は、綺麗な顔に似合わない愉快な寝ぐせをつけて、へらりと笑った。
「えへ、マジみたい。Ωに反応したこともないし、生まれたときはβだって言われてたからおれもずっとそう思っててさ、今まで詳しく調べたこともなかったんだよね」
カサリと音を立てた紙には、相羽 郁 はαであるとの診断結果が示されている。出会って口説かれて、βだからと安心して好きになった相手だったのに。
付き合って約一年、同棲を開始して一週間。しがないサラリーマンだが、研究者として生きる郁を支えていこうと決めた矢先に、こんな爆弾を落とされるなんて思ってもみなかった。
「お前……バース性の研究者のクセして、何で今頃……」
郁は、大学でバース性関係の研究をしている。といっても詳しい内容まではよく知らない。
男しか好きになれないβの男である秋人は、自身の性を恨んだことは数知れず、進んで聞きたい話でもなかったから、あえて触れずにやってきたのだ。
「いやあ~自分のことはあんまり。突然変異も有り得るし、一度調べてみろって周りに言われたんだよ」
「そんな……」
もう前の部屋は引き払ってしまったし、帰る場所はここしかない。それに、簡単に離れられる時期なんて、とうに過ぎてしまっていた。
ぐるぐるとマイナス思考に陥る秋人を、郁がそっと引き寄せる。
「まあいいじゃん、おれたちは何も変わんないよね?ね、秋人」
甘く名前を呼ばれ、条件反射のようになすがままになる。包み込むように抱き締められて、耳元で「おかえり」と囁かれる。寝起きの無防備さで嬉しそうに微笑まれると、全てをゆるしてしまう自分を知っている。
「郁、ちょっと待って。俺、汗くさいから」
「んー、いい匂い」
形ばかりの抵抗は、いとも簡単に突破される。わざとらしく首元をクンクン嗅がれ、ぶわりと顔が熱くなる。
「フェ、フェロモンなんか出ないぞ。俺は、βだから……」
「出てる出てる。おれにしか分からないのがいっぱいね」
ぐっと黙り込み、羞恥と喜びと、入り混じるたくさんの感情を噛み締める。そうしてすぐに、何も考えられなくされてしまった。
あれから、一年が経った。
胃袋を掴むべく毎日料理の腕を磨き、抱き心地が良いように体のケアを怠らない。無駄だと分かっていても、郁を繋ぎとめる努力を止めることはできない。
いつでも身を引けるように、これ以上好きにならないようにと思っていても、それだけはどうにもならなかったのだけれど。
まだ郁に、運命の番となるΩと出会った様子はない。できれば決定的瞬間は見たくないなあと、苦い過去を思い出しながら願った。
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