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佐々木歩の日常 2
「close」と書かれた札がかかっているケーキ屋についた歩は、鍵を開けて薄暗い店内に入った。誰もいないお店はとても静かで、何も並んでいないショーケースが寂しげである。開店時間になると色鮮やかなケーキ達がここへ並ぶ。その光景が既に当たり前になっている歩は、開店前の空っぽな時間が少し苦手だった。
店内の奥へ進み、狭めの更衣室へ。そこで白を貴重としたコックコートに着替える。下は黒いパンツ、赤いミドルエプロンに赤いスカーフ、更に赤いハンチング帽。昔はもっと地味な格好だったが、従業員からのリクエストでこの制服へ変わった。年齢を重ねていくほど「この歳でこの制服大丈夫かな。」と不安になってきている。
ぱぱっと着替えを終え更衣室を出ると、そこにはいつの間にか入ってきていたアルバイトの五十嵐竜が壁によりかかっていた。まさかもう来ているとは思っていなかったため、歩は声もあげずに驚く。
「お、おはよう」
「あ、おはようございまーす!」
歩を見るなり、竜はぱっと明るい表情になった。人懐っこいその笑顔は、まるで尻尾を振るゴールデンレトリバーの様だ。
今どき中々見られない虎の柄が入ったド派手なスカジャンに、塞がっていないいくつものピアスの穴。そこだけを見ると怖い印象を持つが、黒髪でニコッと笑う姿には可愛らしさがある。
「今日もよろしくね」
「はーい!」
元気に返事をして更衣室へ消えていく竜の背中を見て、歩は思わず「若いっていいな。」と思ってしまった。
自分の老いを感じつつ、開店準備の為に厨房へ足を踏み入れる。ケーキ屋の朝はとにかく忙しい。まずは掃除、それから商品を作り始め陳列、最終確認をして開店。言葉にするのは簡単だが、いざやるとなるとかなりハードだ。
いつも通り掃除は竜に任せ、歩は早速ケーキ作りの準備を始める。まずは調理器具を揃え、冷蔵庫から材料を調達。慣れた作業のため特につまずく事もない。
しかし、歩が泡立て器を手に取った瞬間、まるで何かの魔法にかかったかの様に、急に柄の部分からワイヤーが外れた。しかも凄い勢いで外れたため、歩は驚いて「うわっ!」と声を上げてしまった。
「え?……えー……」
ぶらーんと垂れ下がるワイヤー。随分間抜けな姿である。変な力を加えた訳でもない、使い古した器具でもない。もはや悪運のせいとしか言えない壊れ方だ。
「……こんな事ある?」
「何してんすかー?」
「なんか壊れちゃった」
着替えを終えた竜に壊れた泡立て器を見せると、その間抜けな姿に勢いよく吹き出した。
「今月で何個目っすか?アハハハハ!」
「笑い事じゃないよ」
八重歯を見せてゲラゲラと笑う竜に、歩は苦笑いを浮かべる。実は同じ様な事がついこの間起きたばかりだった。歩が木製のベラを手に取った瞬間、何の前触れもなく突然折れたのだ。新しくしたばかりの木ベラが持っただけで折れるなんて、呪いや魔法などの非科学的な力が働いているとしか思えない事件である。
歩は幼い頃から不幸体質だった。可哀想になるほど残念なエピソードが多い。
小学校の入学式、佐々木歩という分かりやすい名前なのに何故か「佐々木あゆみ」と間違えて呼ばれてしまい、六年間あだ名が「あゆみ」だった。
中学生の時、学校に侵入した不審者に体操着を盗まれた事もある。後で分かったのだが、犯人は女子の体操着と間違えて盗んだのだとか。その事件をきっかけに「こいつ中学の時あゆみって呼ばれてたんだぜ!」とまたからかわれ、更に3年間あだ名が「あゆみ」になった。
他にも語りきれないほどの残念なエピソードがあるが、膨大な数のため全てを語るのは不可能に近い。当の本人は、生まれ持ってしまったのだから今更どうしようもないとすっかり諦めている。ただ、大きな不幸がやって来ない事を祈るばかりだ。
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