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佐々木歩の日常 1

佐々木歩は、朝の澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込み、ゆっくり吐き出した。一日のスイッチを入れるための些細な儀式である。この行動をしようがしまいが、今日という日に大きな違いはない。ただなんとなく日課になってしまったため、今更やめることが出来なかった。 どこにでもありそうな普通のアパートの階段を降り、とぼとぼと歩き出す。若干、昨日の仕事の疲れが残っているがそこは見て見ぬ振り。それなりに年齢を重ねている歩は、いつの間にか自分を誤魔化す術を身に着けていた。疲れは適当に流し、老いへ抵抗することもない。 平凡でそれなりな日々を送る。それが佐々木歩の毎日であり、理想の生活なのだ。 「……よし」 気合を入れ直し、行き慣れた道をただ無心で進む。いつもの信号機で赤信号に引っかかり、踏切で足止めをくらい、特にドラマチックな展開もないまま周りの景色だけが通り過ぎていく。さざ波一つ立たない、穏やかな時間が流れていた。 歩が向かっているのは自分の家から徒歩十五分のケーキ屋。元々は祖父母が始めたお店で、今は歩の店である。店長なんて責任のある役職、自分に似合わない。そう思いながら働くこともう数十年、最初は億劫だった早起きも、今となっては日常になっている。 明日と明後日が入れ替わっても気づかない様な日々。大きな幸福はないけれど、大きな悲しみもない。そんな毎日でいい、それが歩の思いだ。 しかし、人生とは不思議なもので彼の日常にも非日常が迫ってきていた。勿論、本人はそのことに全く気づいていない。 まさに今、彼にそれが迫って来ていることも。 「チャリン」 丁度下り坂へ差し掛かった所で、背後から自転車のベルが鳴らされた。ぼんやりしていた歩はその音で我に戻り、ぱっと振り返る。 そこにいたのは爽やかな装いをした、それはそれは顔の綺麗な青年だった。赤みがかった茶髪の髪が太陽の光できらきらと輝いて見える。まるで映画のワンシーンの様な光景に、歩は思わず目を奪われる。 その瞬間、時間がゆっくりと流れ始めた。今までずっと同じ早さだった時間が、突然スローモーションの様になる。風邪で揺れる草木も空を泳ぐ雲も、ただの背景へと姿を変えた。今見えているのは、自転車で下っていく青年だけ。歩は息を吸うのも忘れて、その景色に圧倒される。 そんな幻想的な風景も、青年が歩の横を通り過ぎていった途端に元へ戻った。いつもと変わらない町並みが広がっている。 「……なんだったんだ?」 一体何が起きたのか、分からない。ただとても顔の綺麗な青年が自転車で横を通り過ぎただけ。それだけなのに、今見た光景が脳裏に焼き付いた。当分忘れられそうにないほど強烈に。 変な胸騒ぎがしていたが、とりあえず見て見ぬ振りをして誤魔化す。釈然としない感情を抱えながら、歩はまたとぼとぼとした足取りで歩き始めた。 この出会いが、二人の運命を大きく変えてしまうことに、本人達は気づいていない。ただそれは、日常にしては少し美しく、非日常にしてはあまりに慎ましい出会いだった。

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