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終
冬樹の怪我は完治まで時間がかかるようだった。
当たり前だ。爪は剥がされ、片足は折られていたのだから。彼の親も見舞いに来たが、冬樹は爪が云々という話は省いて「階段から落ちた」と説明したらしい。医者の方も口裏を合わせてくれて、大事にはならなかったが、本当にそれでいいのだろうか。
ヤクザの息子だということをずっと秘密にしていたが、まさかこんなことに巻き込むことになるとは思っていなかった。代替わりの抗争だなんて。父の竜我はうまく組織をまとめあげていたはずだった。兼平は衰退しつつあるが、ヤクザなんてこのご時世、うまく渡っていけるのはほんの一握り、いや、一つまみだろう。
その事実を受け止められない輩が起こした抗争だったと万治に聞かされていた。
そして、父がこの一年で急激に体調を悪化させ、また、発作を起こしたために急逝したとの知らせを受けたのが、七日前だった。
初七日の法要のため、万治と共に澄は海に来ていた。穏やかな太平洋。消波ブロックの上に二人で座る。
万治は礼服でもなんでもなく、いつもの動きやすそうな格好だった。澄は一人で住んでいるマンションにあった礼服姿だった。
「由紀お嬢さんは、本気で竜我さんに惚れていたんですよ。好きで好きで、どうしようもなくなって、一番やっちゃならないことをしちまったんです」
澄は万治が語る過去の話、自分の誕生についての経緯に耳を傾けていた。波が打ち寄せる音で聞き漏らしのないように、じっと万治の顔を見つめる。
ずっと語られることのなかったこの話は、澄が自分で答えを見つけない限り、黙殺され続けるはずだった。全てを知る竜我と、平野。そして、万治の間で。
澄は冬樹から聞いた話も踏まえて、一つの確信に至った。
ずっと叔母だと思っていた彼女が、母親だったのではないか、と。
同時に父は、由紀ではない誰か別人を深く愛していた。その人こそが、ずっと「母親」として語られてきた人だったのではないか、と。
「坊っちゃんの遺伝子上の父親は、当時、竜我さんが心底かわいがっていた……いや、愛していたんでしょうね、竜我さんは、あいつのこと」
「あいつ……?」
「楠田一都」
「くすだ……」
「はい。それが、坊っちゃんの遺伝子の上での父親の名前です。母親は、由紀。間違いなく、坊っちゃんは隆治の血を引いています」
概ねは想像通りだったからなのか、事実を聞いてもショックは少ない。
ただ、やはり父の竜我とは血縁ではなかったのか、と。最期の顔を思い出すと、やはり、体の真ん中にぽっかり穴が開いたように思える。
寂しい。
漠然と、そう思う。
その穴ばかり見つめていると動けなくなりそうで、残っていた疑問に目を向ける。
「……どうして、そんなことになったんだ? 父は、男が好きで、だから、その人の子どもがほしくて母に腹を貸してもらった……って話なら理解できる。でも、それなら、わざわざ叔母だなんて嘘は必要ないだろ」
実家での、由紀の扱いを思い出す。
「父は叔母に……いや、母に対して冷たかった。俺はただ、父は過去のせいで自分を見て錯乱する妹が疎ましいだけと思ってたけど、そもそも、俺に話してくれた過去話が嘘ならそれは」
「由紀お嬢さんは、病床に伏していた一都をレイプして殺したんです」
ごちゃごちゃ考えていた内容が吹き飛んだ。
「え、何で……」
万治は海を見ながら煙草を取り出して火をつけた。
「智弘っていう馬鹿が手引きしたんです。ご丁寧にドラッグまで用意して。隆治の差し金だったあいつは、お嬢と結託して一都を竜我さんから奪っちまった……。智弘は竜我さんに撃たれて死に、お嬢は坊っちゃんを産んだあと、肥立ちが悪くて死んだことに。でも、実際はまあ、そうですね、竜我さんは本当に、おっかない人なんですよ。坊っちゃんは分からないと思いますけど」
分からない。
竜我はそういう面を見せなかった。
全くといってもいいだろう。
「隆治が警察に捕まったのも、竜我さんの計略でした。要人に金をばら蒔き、操作したんです」
話の規模に目が回りそうになる。
だが、そうか、と。納得もできた。
「……じゃあ、つまり、兼平を潰すことで、父さんは……その、好きだった一都って人の復讐をしたって……そういうこと?」
万治が苦笑いを浮かべ「はい」とうなずく。彼が吸う煙草の匂いが漂っている。
父は、何を考えているのか読めない人だった。
だがこれでやっと分かった。
「……とんだ極悪人だ。こんな騒ぎを起こして、冬樹まで巻き込んで」
「ちょ、ちょっと待ってください」
万治が煙草を消した。
「そこは竜我さんの肩を持たせてもらいますがね……」
ふと、漂ってくる煙草の匂いが父と似ていることに気づいた。なぜか、急にルイスの店を思い出す。
そう、ルイスの店だ。
まだ、澄が幼く、ルイスが生きていた頃。彼女の店に連れていってもらい、ハンバーグを出してもらった。横に座っていたのは父。
竜我は煙草を吸いながら、ルイスと話をしていた。
澄はハンバーグを食べながら二人の話を聞いていた。ずっと昔のことなのに未だに覚えているのは、初めて『母』の話になったからだった。
あの時、見上げた父の顔は忘れられない。いつも難しい顔をして、考え込むことの多かった父が笑いながら話をしていたのだから。
大人の話に首を突っ込んではならないと厳しくしつけられてきたが、その時ばかりは堪らずに、誰の話をしているのかと父の袖を引いて尋ねた。
父は一瞬言い淀み、それを見ていたルイスが「あんたのママだよ」と教えてくれた。
「お前のパパはね、本当にママが好きだったの」
「ほんとうに?」
そう問いかけると父は「そうだよ」と微笑んで目を潤ませていた。
父は亡くなった母のことが大好きだったのか、と。幼心にじんわり温かいものを感じて、それ以来、よく母の話を父にねだるようになった。
父は何より母を……楠田一都という男を愛していた。
万治が咳払いをする。
「坊っちゃんのイロが生きて帰ってきたのは、竜我さんの機転ですよ。平野を向こうに食い込ませたんですから。智弘の時の意趣返しでしょうけど」
「うん」
「でも、意趣返しつったって、竜我さんは坊っちゃんのことを」
「……うん、わかってる、本当に。そこは、大丈夫」
組を継ぐ気がなくても、男を好きでも、父が何もいわなかったのは、どうでもよかったからではない。愛想はなく、口数も少ない、父は元々そういう人だった。そういう不器用な人が、精一杯見せてくれた愛情だった。
考えてみればそう、愛されていたなんて、分かっていたことだ。出生にまつわるいざこざがあったとしても、一瞬でも父との絆を疑った自分があまりに薄情で、情けない。
「俺の父さんは、母さんのことがやっぱり、本当に、好きだったんだ。だから、俺を育ててくれた。大事に、俺が、自由にできるように」
万治が声を詰まらせ、目頭を手で押さえた。
「……後でさ、一緒に冬樹の見舞いに行こう? これからのこと話さないとだし、病院に一人じゃかわいそうだから」
ずびずびと鼻を鳴らしながら万治がうなずく。
竜我の骨だの遺灰だのはもう海の中だった。ずっと付けていた指輪と一緒と聞いて、漠然と、母と一緒にいるのだと思った。
水平線を見る。
鳥が二羽、寄り添うように飛んでいた。
あまりにも睦まじく、まるで一羽の鳥のように見えた。
そうやって空の高いところに消えていく二羽を見送るうちに、胸が切なくなり、冬樹が恋しくなった。
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