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第2話 美味い話には裏があるとは言うけれど
「えっ、この店無くなるんですかっ……!」
三月に入ってすぐの頃だった。一年間働いていた居酒屋の突然の閉店が決まった。
「うん……去年の暮れに近所に有名チェーン店ができたでしょ? ずっと赤字続いてて、親父の病気のこともあるし、田舎に帰ろうと思ってるんだ」
個人経営の居酒屋だった。俺は店舗の二階の空いている部屋に安く住まわせて貰いながら、働いていた。朝昼晩と賄いのご飯がついていて、とても助かっていたのだが、そんな天国のような仕事もあっさりと終わりを告げた。
「そう、ですか……残念ですけど、お父さん心配ですもんね」
先月店長のお父さんが倒れて、病院に搬送されたと聞いていた。快方に向かっているという話だが、老夫婦二人の生活では、また何があるか分からない。
「だから、本当に申し訳ないんだけど、今月末までに引っ越しをお願いしたいんだ。次の仕事と家探しするだろうし、昼のシフトは僕が代わりに出るから」
「……分かりました」
その時頭の中では、通帳の残高と財布に入っているお金を合わせた全財産が弾き出されていた。
二十万五千二百五円。毎月二万ずつ貯金してきたけど、三月という家探しで一番敷金礼金が掛かる時期に、この金で足りる気はしない。幸い荷物はキャリーバッグで運べる程度の量しかないので引っ越し自体に掛かるお金はないが。
その日から転居先と仕事探しを始めた。住み込み可能か寮のある仕事を探したが、田舎で寮と工場を往復し朝から晩まで働くような肉体的にも精神的にも苛め抜くようなものしか見つけられなかった。
高卒で何の資格も持っていない、身体は丈夫だがパワーワークができるようやタイプでもない男が、働けるのは給料の安いアルバイトしかない。
実家に一度帰るかとも考えたが、中学生の双子の弟妹がいて、俺の出た後の部屋を妹が一人部屋にして使い始めたと聞いていた。高校受験を控えているし、ゆっくり勉強できる環境が必要だ。
俺がお金を貯めていたのは、将来的に管理栄養士の資格を取るためだった。手に職を持っていないとフリーターのままでは不安だし、もっと給料のいい仕事に就いて、弟や妹に好きなものを買ってやりたかった。
しかし、そのお金は一瞬で家を借りてしまえば失われてしまう。
職安から出てきた俺は、思わず溜息を吐いた。寮付きか住み込みなんて好条件がそうそうあるわけがないのだ。
せめて家だけでも探さなければ、あと二週間で追い出されてしまう。不動産会社に向かおうと歩き出した時、スマホが鳴って立ち止まる。
取り出したスマホの液晶画面には「倫子」と表示されていて、何の用だろうと電話に出た。
「姉さん、どうしたの?」
「お願い倫! あんたにしか頼めないことなの!」
必死な、少し焦っている様子の姉の倫子の声。
出た、姉さんの「お願い」。この「お願い」を聞いて良かった試しがない。
一番酷かったのは中学生の時。当時高校生だった姉が他校の男に付き纏われていて、俺はそれを聞かされずに姉に付き合ってカフェに入った。好きなケーキを食べていいと言うから喜んだのだが、店を出た瞬間知らない男子高校生に胸ぐらを掴まれたのだ。
姉は男に回し蹴りを喰らわせた後「あたしの彼氏よ! 二度と付き纏わないで!」と。男は姉さんがゴリラ女だと知らなかったみたいで、青白い顔で逃げていった。
正当防衛ってことにするために相手に先に手を出させたかったらしく、つまり俺はだしに使われたわけだ。
それ以外にも色々あるが、今はそれは重要ではない。姉さんの「お願い」が発動された今、俺がするべきなのはどんな災厄が降りかかるか身構えることだけだ。
「次はどんな風にだしに使うつもりですか」
「何言ってるのよ! そんなんじゃないわよ! それより近くにコンビニある?」
直ぐ目の前にコンビニがあったので、「あるよ」と答えると某ゴシップ誌を見て欲しいと頼まれた。
コンビニに入って棚にあったその雑誌を開くと、真ん中辺りにモノクロ見開きででかでかと写真が出ているページで手を止める。
──「人気舞台俳優・都築一成に恋人か?!」。
目の部分に黒い線が入っているものの、そのシルエットを見て、確実に姉さんだと分かった。
「姉さん俳優と付き合ってんの!?」
「んなわけないでしょ! あたしの担当俳優よ!」
記事には「手作りの弁当を持参してマンションに入り、約三時間後に二人で大荷物を抱えタクシーに乗り込んだ」と書いてある。写真に写っているファンシーな弁当袋に見覚えがあった。
雑誌を元に戻し、コンビニを出る。
「この記事の手作り弁当って、前に姉さんに何回か頼まれて作ったやつじゃない?」
姉さんに週一で弁当を作ってくれってせがまれて、仕方なくバイトが休みの時には実家に戻り弁当を作って持たせたのだ。弁当箱や包みは実家にあった弟達のやつを拝借したわけだが、写真に写っているのは末の妹の某ネズミのキャラクターのものだった。
ちなみに姉さんは料理が一切作れない。カレーを作った時、悪臭を放つ得体の知れない黒い液体が出来上がったので、それ以来キッチンには立たせないことにした。世界平和のために。
「そう、そうなの! まともに食事摂らないから心配してお弁当持って行ったら、部屋もぐっちゃぐちゃで、脱ぎ捨ててあった服持ってタクシー乗り込んでクリーニング店とコインランドリー梯子したら……! まさか撮られてるなんて……!」
姉さんの仕事は芸能マネージャーだ。芸能事務所の立ち上げからのメンバーで、正社員として勤めている。土日祝も忙しく働いているが、担当タレントの私生活まで面倒を見ているなんて、世話好きの姉さんでなければ務まらないだろう。
「一応事務所のサイトには雑誌の女性はマネージャーだって載せたんだけど、さすがに社長には叱られまして……都築の好青年イメージが壊れるからマネージャー業以上のことはするなって」
「まあ担当俳優さんが心配なのは分かるけどね」
俳優には詳しくないから年齢や外見は分からないけれど、姉さんからしたら俺や他の弟達にしてきたのと似たようなものだったのだろう。父さんは単身赴任、母さんは看護師で不規則な生活だったために、母さんが居ない時間は姉さんがずっと母親役を務めてきた。そのため、世話を焼くのが癖みたいになっているのかもしれない。
まあ、そのお陰で、弟妹の起床時間や出発時間、時間割と必要な道具を把握して的確に指示するマネージャーとして必要な能力を身につけられたとも言えるのだが。
「それなら家政婦さんとか、雇ったりすれば良いんじゃない? いくらぐらい掛かるのか分からないけど」
「それ! それなのよ!」
電話口から聴こえてきた声のトーンに何故か身体が震えた。嫌な予感がする。
「倫お願い! 都築の家で住み込みの家政夫やってくれない?」
「……へ?」
想像もしていなかった台詞に間の抜けた声が出た。
「お給料が事務所から月十八万円、都築から食費等に五万円と六畳の部屋一室が支給されます。もちろん家賃光熱費は全て都築持ちです」
突然提示される賃金に言葉を失う。今の居酒屋バイトより給料が高いのは確かだ。今は手取り十五万いかないくらいで、家賃光熱費に四万払っているから、この時点で既に好条件だと分かる。
「ま、住み込み家政婦としてはかなり安いんだけど、基本的に都築が家に居ない間の過ごし方は自由。地方公演で一、二週間居ないこともあるから、その間はリビングでお菓子食べながらテレビ見てて大丈夫っていう緩さよ」
「えっ、でもそんなに留守にするなら、住み込みにするより週一とかで雇った方が良いんじゃ──」
「それは駄目! 都築のミステリアスでクールなイメージを守るためには、全くの外部の人間を家に踏み込ませる訳にはいかないのッ!」
急に声のボリュームが上がってびっくりしてスマホを耳から離した。
姉さんが焦る気持ちも分からなくはない。雇った家政婦が世間話的に話をしてしまうことは有り得る。都築という人のことは知らないが、人気上昇中の事務所の看板イケメン俳優が、実は私生活がだらしないと世間に知られるのは確かにイメージダウンになるだろう。
「……でもだからって俺、家政夫とかやったことないけど」
姉さんが俺を信用して声を掛けてくれたのは嬉しい。しかし、物心つく頃には家事をやっていたし、小学校低学年の頃には簡単な料理を作れるようにはなっていたとは言え、全くの素人だ。他人の家で家事をやったことはないし、ご飯も一般的な家庭料理しかレパートリーにない。正直給料を貰えるようなレベルでは無いと思う。
「だから、給料は素人仕事だから安めなの。事務所としては倫は事務所スタッフとして正社員採用します。で、対外的には都築の家に同居する友人、実態は家政夫、ということにするわ」
唐突に告げられる正社員での採用の言葉にハッとする。
「正社員……マジか」
「マジです。厚生年金加入は当然として、結構福利厚生には力を入れてるから悪くないと思う。詳細は後でメールするけど」
今まさに仕事を探していた俺にとって、正社員で住み込みで、家賃光熱費が掛からない状態で給料十八万円の仕事なんて、そんな渡りに船的な仕事受けない方が可笑しい。
「実はちょうど仕事探しててさ、来月から働けそうなら──」
「ほんとっ? 助かるわ! 来週から今月末まで地方公演で都築が家を空けるから、できれば明日か明後日辺りに顔合わせできたら嬉しいんだけど」
断られるとは思ってなかっただろうという声のトーンで食い気味にこられて、一瞬過去の災厄が脳裏を過った。
「明日は夜バイトだから、昼からなら大丈夫だよ」
「了解、都築も明日の夜から稽古だから昼からでお願いします。私も顔合わせ同行するけど、都築の自宅でやるから、後で住所も連絡するわ」
全て姉さんの想定通りなのではというくらい、とんとん拍子で決まっていく。いや、俺としても有難いことなのだが、あまりにうまい話過ぎて落とし穴がありそうな気がして。そして、最大の疑問が口をついて出る。
「あのさ、仕事は大丈夫なんだけど、なんで俺に声掛けたの?」
「家族で家事得意だし、口堅いしの知ってるから信用できるし……あと都築が、倫の作った弁当を気に入ってたのよ」
予想していない言葉だった。特別なものは何も入ってない平凡な弁当だった筈だ。それこそ最初なんて急ごしらえだったから、有り合わせの他人に出すのは恥ずかしいようなやつだった。
「普段何かを頼んだり、要望することもない人なんだけどね。弁当渡した次の日に、また作って欲しいって言ってきたの」
姉さんが食べるだけだから、特に気を遣っていない弁当だったけれど、それでも美味しいって思って貰えてたのだとしたら嬉しい。
「食事なんかエネルギー補給くらいにしか考えてない感じなのに、倫の弁当だけは楽しみにしてるみたいだった。だから、倫の料理なら都築も喜んで食べてくれるんじゃないかなって思ったのよ」
「……そっか」
都築という知らない人との同居生活に不安が無いと言えば嘘だが、それでも俺の料理を美味しいと思って食べてくれるなら大丈夫だと思えた。姉さんが担当しているタレントだし、弟の俺に変な人を紹介するとは思えないので、悪い人ではないだろう。
「あっ、ごめん! 今から担当アイドルのグラビア撮影同行しなきゃなの! 後で色々メールするから」
「大丈夫だよ。仕事頑張ってね」
電話を切り、ふうと溜息を吐いた。怒涛の展開に思考が追いつかないが、とりあえず俺が来月から住所不定無職になることは防げる。
夜のバイトで店長に無事に住み込みの仕事が決まったことを報告すると、心配してくれていたのか「良かったよ」と胸を撫で下ろしていた。
「ごめん、撮影が押してて、そっちに行くの遅くなりそうなの! 都築には昼には行くって言ってあるから大丈夫! 1105号室だから!」
三十分前に姉さんからそう連絡が入っていた。そして俺は指定された住所に建つ金持ち臭のするマンションを見上げて怖気付いていた。
庶民の俺が立ち入って良いものかと挙動不審に辺りを見渡してからエントランスに入る。グレーのタイルと白の壁の落ち着いた雰囲気の空間。そそくさとインターフォンの前に行って、「1105」のボタンを押す。
ドキドキしながら、都築さんが出るのを待つ。
「あ? 誰だお前」
聞き間違いだろうか。なんだか、ドスの効いた声が聞こえたような気が。
「家政夫として働かせてもらう予定の、笹目倫太郎です」
と答えた瞬間、オートロックの扉が開いた。インターフォンは切られている。無言で。
──なんだかめちゃくちゃ悪い予感がします。
さっきまでの緊張感からくるドキドキは、お化け屋敷に入る時の恐怖に近いものに変わっていた。
十一階までエレベーターで上って、角部屋の1105号室の前で固まる。唾を飲み込み、意を決して震える指で部屋の前のインターフォンのボタンを押した。
扉が開いた、と思った瞬間。隙間から出てきた手が俺の胸ぐらを掴み、部屋に引っ張り込んだ。
「わっ、ちょっ──」
「お前どこのもんだッ! ああ?!」
眉間にシワを寄せ堅気のそれとは違う鋭い眼光で睨み付ける男に、完全に言葉を失った。そして、姉さんの「お願い」がやはり災厄であったのだと痛感する。
それが、俺と、都築一成との衝撃的な出会いだった。
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