温泉はいい。厚みのある湯気に囲まれながら微かな硫黄のにおいを鼻腔に漂わせ、少し熱いお湯に肩まで浸かる。澄みきった満天の夜空を仰ぎ、顔に時折触れる晩冬の尖った夜風に心地よさを覚え、ほっこりと息を吐く。 温泉。『古事記』や『日本書紀』にもその記述があり、歴史はとても長い。入浴すると病気が治ると言われ、神聖なものとして崇められていた時代もあったという。温泉様々、というわけだ。 もし、その時代に生まれていたとすれば、俺は誰よりも温泉を尊び、崇め、感涙に噎せていた……ということはないだろうが、はるか昔に何の気なしに湧いてきたであろうそれに、深く感謝しているはずだ。 ……かなり、頭がバカになってる自覚はある。思考がふやけているのかも知れない。これもきっと、温泉の力だ。 「……幸せー」 お湯が馴染んだ身体を脱力させ、間延びした独り言を漏らせば、俺を背後からすっぽりと抱きしめていた朔ちゃんが、「あー、分かるー」と腑抜けた声で言葉を返してきた。夫婦……、いや、夫夫そろって、旅館の非公式ゆるキャラと化していた。 都内から車を走らせて１時間半ほど。旅行誌のランキングの上位に必ず名を連ねている温泉街だった。 その中心部にある旅館に、俺ー辻 馨と、戸籍上は俺の義弟だが、実情は俺の旦那さんである辻 朔太郎ー朔ちゃんは、冬の終わりを告げ始めるこの３月初めの土日を利用して宿泊していた。 「客室露天風呂がある旅館がいい」という朔ちゃんたっての希望で選んだ旅館は、旅行雑誌やインターネットでの評判が良かった。何でも、世界的に有名な建築デザイナーが手がけた比較的新しい旅館ながらも、緑豊かな景観に囲まれ、客室は日本の古き良き文化を感じさせる内装になっており、落ち着いた時間と空間を提供してくれるとのことだった。 加えて、地産地消の料理がリーズナブルに味わえ、マイナスイオンが大放出されているであろう自然を感じながら、客室露天風呂に浸かって日々の疲れを癒すことができる。そのため、国内外から多くの旅行客が訪れ、良質なひと時に感嘆の声が止まらなくなるという。 確かに、そうなる気持ちはよく分かる。半年ほど前に、それなりの宿泊料金を払ってこの宿を予約した際は、朔ちゃんがワガママを言ってどうにもならなかったからやむを得ず、渋々と、深いため息をつきながらといった感じだった。 けれども今は、この旅館を選んで大正解だったと思っている。都内の喧騒から離れ、まったりと静かに流れる時間の中に身を委ね、俺は至極ご満悦だった。