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【1】暑くてだるくてひどく倦んでいた。

『変えられない現実から逃げたいという気持ちが無いといえば嘘になる。』 7月20日火曜日、快晴。 昨日の雨が嘘の様な綺麗な青空。一学期最後の登校日に相応しい天気だ。 終業式を終え、明日から夏休みが始まる。 帰り支度をすませ教室を足早に出る者もいれば、友人同士で騒ぎ続けている者もいる。教室内に留まっている生徒の大半は親の迎えを待っているのだ。 退屈とは無縁の弾けんばかりの笑顔が並んでいる。 家族旅行の行き先を話題にし互いに土産を買う約束をしたり、友人同士で何処に遊びに行くか計画を立て、随分と盛り上がっていた。 クラスメイトのはしゃぐ声を尻目に、朝比奈 錦は鞄に成績表と筆記用を入れ興奮の入り混じる喧噪から逃れるように、4年3組の教室を出た。 階段を下りて下駄箱に続く廊下に出たところで、山の様な荷物を時折廊下に置きながらなんとか下駄箱まで移動するクラスメイトに出会う。パンパンになった袋を胸に抱きかかえているが、その両腕には紙袋がぶら下がっている。 肌に持ち手が食い込み赤くなっていた。 首からぶら下げられた画板が手提げ袋の下で揺れる有様は、実に見苦しい。 呆れた顔でふらつく小太りな姿を見ていると、相手がふとこちらを見て破顔した。 「あぁ、朝比奈君。」 「…大変そうだな。」 苦笑まじりにクラスメイトの隣に並ぶ。ぜぇぜぇと苦しそうな息を吐いている。 「毎日ちょくちょく持ち帰ってれば、君みたいに身軽だったんだけどさぁ。なんか面倒で。」 終業式には学校に置いている私物は全て持ち帰らなくてはならない。体操着やシューズ、教科書はもちろんの事、図工の授業で作った工作や画板画材、他自由研究の作品に至るまで。殆どの生徒が身軽な状態で帰れるように、最低でも終業式一週間前からは毎日不要なものを少しずつ持ち帰る。しかし目の前の生徒の様に不精し、最終日に大荷物を抱えて帰ると言う生徒も珍しくはない。 「まぁ、どうせ、迎えが来てるしね。朝比奈君はもうお迎え来てるの?」 歩いて帰ると伝えると、彼は信じられないと言う風に細い目を見開く。大げさな反応だ。 「危ないよ。良かったら乗って帰る?母さんもう迎えに来てるからさ。」 「大丈夫だ。それより、荷物一つ持ってやろうか。腕に食い込んで痛そうだ。」 「えええ、良いよ。朝比奈君にそんな事させたら怒られるって」 「…そうか。」 誰に怒られると言うのだろうか。それとも、彼の冗談だろうか。 「朝比奈君、本当に歩いて帰るの?」 「あぁ。」 「大丈夫?」 「あぁ。大丈夫だ。」 先日、変質者が出没し子供が車の中に引きずり込まれそうになったという事件が発生した。誘拐か猥褻行為が目的かは不明だが、不審者はまだ捕まっていない。 幸い児童に被害はなかったが防犯面を考え送迎を心がける保護者が多い中、錦だけはいつも通り徒歩で登下校をしていた。 今日もそうだ。 両親が変質者の出没を知っているのかさえ怪しい。 もしも、錦自身が誘拐されたら彼らはどうするだろう。 ふとそんな事を考える。 取り乱すだろうか、それとも責任転嫁をし合うだろうか。 関心の有無以前に、自分は一応彼らの子供だ。 世間体もあるからきっと『一般的な親の反応』をするだろう。 それでも見てみたいなと、一瞬思ってしまった。 そこに錦の価値が映し出されるのではないか。 答えなど分かりきっているのに、それでも問いかけたいなど非生産的だ。 しかし、もしかしたら…。 「あ、母さんだ。じゃあね、朝比奈君」 下駄箱で靴を履き替えたところで、クラスメイトに声を掛けられ思考が遮断される。挨拶もそこそこ青空の下くっきりと浮かぶ自身の黒い影を見下ろしながら黙々と歩いた。時折、同級生や下級生が小走りに錦を追い越していく。 「あっ、お母さんだ。ねぇちゃん、お母さん迎えに来てる。」 直ぐ後ろから聞こえた大きな声に錦は振り返る。耳の下で二つに結んだ長い髪を靡かせながら走る少女。大きな声で錦を脅かせたのはその後ろから少女の背を追う小さな少年だ。 「早く」 「まってよぉ」 足を止めた錦を彼らは追い越していく。楽しそうに屈託のない笑顔、明るい笑い声。視線の先にある正門には、日傘を差した中年の女性がいる。遠目で見ても笑顔が浮かんでいるのが分かる。彼らの母親だろう。 仲良く女性に向かい走っていく姉弟の背中を見ながら、無性にどこか遠くに行きたくなった。 強烈な飢えの様に、錦の心を支配する。 しかし、何処に行くと言うのだ。 錦の望む「どこかへ行きたい」は目の前の姉弟の様に、また、クラスメイト達が目を輝かせて話していたような、帰る場所が前提としてある旅でもない。 行き場所に目的があるわけではない。ただの現実逃避だ。 何から逃げたいのか、良くわかっている。 だからそれ以上考えるのが嫌だった。最終的には非生産的な自己嫌悪に陥るだけだ。 それでも、家に向かい一歩ずつ進む足は歩調は変わらないのに、やけに重く感じた。 「…帰りたくない。」 小さく呟いてみるが、帰る場所など家しかない。 家族などの誰かの元と言うより、家という場所しかない。 経済力も、社会的な立場もない。親の庇護下でしか生きて行けれない10歳の子供に過ぎない自身が、虐げられているわけでもあるまいし、環境に不満を言うのは間違っている。それでも、時折何もかも捨てて逃げ出したくなる時があった。 あの家で、一月以上もある夏休みを過ごさなくてはいけないと思うと憂鬱だった。 真実など何も知らない愛されている子供で有り続けることは酷く苦痛だ。 ――最近暑くて寝付く時間が遅くなっているから、寝不足気味だ。 だから、こんな下らない事を考えるのだ。 暑くてだるくてひどく倦んでいた。

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