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【15】気が狂いそうになる

結局、あの三者面談のプリントは渡せなかった。 教師には何と言い訳したか、覚えていない。 学校行事の参加も錦自身の話を聞くことも徐々に減り小学四年になった今では、母はもう錦に関心すら無い様だった。 優しい微笑みを向けてくれることがせめてもの救いだろう。 それが誰に対しても平等に向ける物だったとしても嬉しかった。 カラカラに乾いた心に一滴でも慈悲を落としてくれるなら、それは救い以外の何物でもない。 「お帰りなさい。」 「変わったことは無かったか?」 何時もと変わらぬ父と母の会話。 久々に父が帰宅した日、母は変わらない楚々とした笑みで三つ指をついた。 優しげな声で父をいたわる母。何一つ変わらない光景。 錦は母のそばに座り俯いていた。 路傍の石を見る無関心の父の視線に、胸の奥が冷えることはもうなくなった。 裏切りの夜を超えて迎える何一つ変わらない朝。 何一つ変わらず繰り返される日常。 それは、母の秘密があくまで秘密として保持されているから。 このまま錦が無かったこととして処理をすれば今まで通りの日常が続く。 母の微笑み、優しい香りが漂う。 嘘だらけなのに、何事も無かったかのように振る舞う。 気が狂いそうになる。 頭がおかしくなりそうだ。 胸の空洞は内側へと広がっていく。 もう、まともに母の顔が見れなかった。

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