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【16】世界で男と二人きり
「…く…き、て。」
雨音が遠くなる。
覚醒しきれない頭はまだ夢うつつだ。
意識が浮上するにつれ、隣から聞きなれない男の声がする。
「起きて。雨やんだよ」
雨?
今はあの梅雨の夜ではないはず。いや昨日の夜も雨が降っていた。
だから、母は出かけなかった。そして自宅の離れにいた。ほのかについた灯り。
その部屋が使用されるとき一人ではない事を知ったのは、あの梅雨の夜から間もなくしてからだ。
「くん…錦くん。ホラ寝ぼけてないで。」
「あ…」
頭にかかっていた靄が晴れ意識が明瞭になる。顔をそらし男の方へ向けると彼は、緊張感が無いなぁと苦笑した。どうやら眠ってしまったようだ。頭痛はもうしない。
「虹だよ虹。もうすぐ着くよ。」
太陽が照り付けてはいるが、先ほどまで雨が降っていたのだろう、フロントガラスが濡れ視界は蒸気で曇っている。まだ灰色の雲をまとわりつかせた空には男の言う通り淡く虹がかかっていた。
「…ここはどこだ。」
錦の問いには答えず、男は機嫌よく鼻歌を歌っている。
人一人いない。まるで田舎道だ。辺りは家も店も何もなく、細い道の左右を青々とした低い丘が幾重にも連なっている。
市街を出たのか見たこともない道だ。
「凄いね、人が誰もいないみたいだ」
人の気配は無く、建物もない。砂の散る道路におちるのは古びた街路灯の翳ばかり。
海岸線を走る車は男が運転するものより他に見当たらない。
人の声も、物音もしない。
時折鳥が飛ぶ姿が見えるだけの静謐な風景。
世界で男と二人きりになったかのような錯覚に陥る。
「錦君、ほらほら見てごらん海だよ海。」
防波堤から見える背の高い草木より、雨上がりの所為だからか、白く霞んだ海面が覗いた。海を見る機会など滅多にないので、山道へ入りガードレール越しに海が遠くなっても白い海面を眺める錦の視線は、どこか名残惜しそうだ。
「海ならちゃんと連れて行くからそんな残念そうな顔しないで。これから行く別荘も海岸からそう離れていない場所だから、眺めるだけならいつでもできるよ」
「別荘?」
男は陽気に笑い「ほらもうすぐだ」とスピードを少しだけ上げる。緩やかだが長く続く坂、山の中へと進む車が目指す方角を目を細めて見つめる。いくつか分岐した道を迷うことなく進み道が舗装されていないものへと変わるころ、青々としたなだらかな丘に囲まれたクリーム色のカーブを描く屋根と、オレンジと白いレンガ調の外壁が特徴的な南欧風の邸宅が見えた。
生け垣として植えられたオリーブの木と門先に植えられた黄色と赤色の鮮やかなケイトウが邸宅を飾っている。海岸から吹き上げる風に潮の香りが混じっている。山頂より見下ろせば海、そして、細い道、芝生に覆われた丘が連なる。なだらかな丘陵を眺めていると気持ちが穏やかになる。平穏という言葉がふさわしい美しい景色は、普段の私生活の中では見られないもので、別世界の一枚の絵に見えた。
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