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第1話 ダブルベッド

 空港を出ると、むせかえるような甘い香りがした。花や果物、それとお香だろうか。日本のトイレ芳香剤のような人工的な爽やかさではなく、麝香や没薬のような、人によっては悪臭ととらえかねない独特の香りが入り混じる。この香りが、俺は嫌いではない。 「有機的な匂いがする」  直江が言った。有機的、か。直江らしい表現だ。 「この国は初めてだっけ」 「ええ。海外出張自体、今回が初めてです」  直江は手を(ひさし)にして、辺りをぐるりと見回す。 「タクシー乗り場はあそこですね」  直江がスタスタと歩き出し、俺は慌てて後を追いかける。 「その割には慣れているじゃないか」 「出張で来るのが初めてなだけで、海外には割と行ってますから」 「個人旅行で?」  一人で? それとも彼女と? そんな下世話な疑問を俺の口調に感じたのか、それをシャットアウトするように、直江は「ええ」と短く返事した。  直江は去年うちの会社に入ってきて、今年から俺の部下になった男だが、中途入社だから年齢はさして変わらないはずだ。  タクシーの中で俺は直江に尋ねる。 「おまえ、いくつだっけ」 「二十九ですけど」 「今年三十? じゃあ、俺の二つ下か」 「いえ、今年二十九。四月生まれなんで、もう、なりました」 「三つ下か。今は二つ下だけどな。俺、誕生日まだだから」 「細かいことにこだわりますね」直江が苦笑いした。 「明日三十二になるんだよ。なんか祝ってくれよ」 「え、本当に明日?」 「そう」  俺はパスポートを直江に見せた。  直江は珍しく声を立てて笑った。 「本当だ。いいですよ、一杯ぐらい奢ります。僕と二人で誕生祝いなんてかわいそうですから、せめて」  こんな風に笑い、こんなことを言う奴だったんだ、と俺は意外に思う。  取引先の担当者だった彼を営業部長が気に入り、うちに引き抜いてきたという噂だった。それを裏付けるかのように直江は実績を上げていた。にも関わらず、半年もしないうちに営業部から海外事業部、つまり俺の部署に異動してきた。時期外れの異動の理由を上に聞いても「本人からのたっての希望で、海外営業の経験も積みたいのだそうだ」としか言われない。営業部員として引き抜かれてきた以上、いくら本人の希望と言ってもこの時期の異動は妙な気がしたが、下っ端の俺にはそれ以上口出しは出来なかった。  海外事業部に来てからの直江の仕事ぶりは正確で、何も問題がなかった。が、優秀な営業マンというイメージとは裏腹に、職場ではめったに笑わず、コミュニケーション下手な印象だった。当初は他の若手と組ませる予定でいたけれど、そんな彼と組ませるのにちょうどいい相手もおらず、結局俺の直下につけた。  ホテルのチェックインは直江に任せ、俺はホテルのロビーの豪華な装飾をぼんやりと眺めていた。するとカウンターにいた直江が急にくるりと振り返り、「藤原さん」と俺と呼び寄せた。 「うん? どうした」 「シングル二部屋で予約してますよね?」 「そのはずだけど」 「予約はダブルの部屋ひとつになってるそうです。で、変更したいと言ったら、シングルは空いてないと」 「ツインは……ああ、ないんだっけな、このホテル」  ツインルーム、すなわち一部屋に二台のベッドがある部屋は、この国には基本、ない。二人が一部屋を使うならそれはカップルであり一つのベッドを使うのが当然、同衾できない関係であれば部屋を分けるのが当然。日本以外の国では主流の概念だ。 「スイートなら寝室二つありますけど、予算的に無理ですよね」 「無理だな」 「僕は構いませんけど」 「えっ?」 「ダブルで」 「……俺は嫌だぞ」 「ソファぐらいあるでしょ。僕、そっちで寝ますから」  ソファなんてエクストラベッド以下の寝心地だろう。さすがにそうしてくれとは言いづらい。 「別のホテル探すか」 「嫌ですよ、このへん、まともなホテルここしかないじゃないですか」  その通りだった。ここは街の中心部ではあるが、あまり治安の良いところではない。そして、ここ以外のホテルは若いバックパッカーが集うホステルか、怪しげな連れ込み宿のようなところしかない。だからこそ出張費に渋いうちの会社でも、この国では豪華ホテルを手配してもらえる。 「じゃあ、直江には悪いけどそうしよう。シングルが空き次第変更してもらうように言ってくれ」 「はい」  出張は三泊四日の予定だ。明日からはこのホテルに近いコンベンションセンターでいわゆる国際見本市(メッセ)があり、明後日にはある程度商談をまとめあげなければならない。観光する時間はほとんどないし、せめてホテルぐらいはゆっくりしたいものだ。こんな事態になってしまった以上は、まずは直江の負担をどう減らすかを考えるべきだろう。  客室に向かうエレベーターの中で直江が言う。 「メッセのせいですかね、ダブルブッキング」 「だろうな。普段はそこまで観光客が集まるとも思えないし」 「メッセ目当てなら、明日も明後日も客室の動きはないかもしれないですね」 「やっぱりもっと早い時間に到着したかったよな、そしたら部屋も空いてたかもしれない」  総務によれば、午後の早い時間に到着する便が手配できず、夜着の便しか取れなかったのだ。しかも、帰りは早朝発だ。四日あったって、実質、中二日しか時間はない。 「ですよね。でも僕、割とそういうハプニングって好きで」  直江の気遣いだろうかと思っているうちにエレベーターが客室のフロアに到着した。部屋に入ると、大きな窓ガラス越しに見事な夜景が見えた。俺はまっすぐにその窓に近寄って、しばし夜景を堪能する。 「いい眺めだな。このホテル、二、三回泊まっているけど、こんなにきれいな景色を見たのは初めてだよ。ダブルルームだからかな。今までのシングルはいつも低層階だったから」 「ね」と直江が笑った。「だから、ハプニングは好きなんです。人が仕組んだサプライズは苦手だけれど、こういう偶然って、すごくラッキーな感じがして、良いじゃないですか」 「へえ、直江がそういうタイプだとは思わなかった」 「いつも機嫌悪そうにして、扱いにくいと?」  直江も窓に寄り、俺のすぐ隣に来た。 「自覚はあったのか」  俺はなるべく皮肉に聞こえないように気を付けて軽い口調で言う。 「ありますよ。でも、藤原さんはそういうの気にしないでしょう?」 「あのな、本人に言うのもなんだけど、俺、初めてなんだよ、中途で入ってきた部下って。新卒なら時間かけてイチから教えるから扱い方も分かるけど、中途はそうもできないだろ。それなりに気にしてるよ」 「そうでしたか。……それはそうですよね。すいません、失礼なこと言ってしまって」 「いや、確かに俺も鈍いほうなんで、偉そうなことは言えないけどさ。でも、直江はよくやってくれてるよ」  直江は照れくさそうな、あるいは少し困惑したような表情を浮かべた。そんな表情は初めて見る。だが、すぐにいつもの仏頂面に戻ってしまった。 「藤原さんがどう聞いているか知りませんが、僕はヘッドハンティングでこの会社に来ました。その期待に応えるべきだと責任も感じていました。でも、あまり強くそれを押し出すのもこちらの方々に悪いと思って、波風立てないように気を付けていたつもりなんです」  直江は眼下の夜景から視線を外さずに語り始めた。 「前の部署ではそれが裏目に出たみたいで、僕の言動のいちいちが嫌味にとられたというか。それで社内の人間関係がうまくいかなくなって、結局異動になってしまいました。藤原さんは淡々としてるから、きっと僕みたいな奴でも適当にあしらえるだろうと押し付けられたんでしょう? 実際、今の言葉をうかがうまで、藤原さんて僕に興味ないんだなって思っていたし」  俺がそれを否定しかけると、直江の表情が再び柔らかくなり、その柔和な微笑みによって俺の言葉を制止した。 「それが嫌だったわけじゃないんです。却って気が楽で、仕事しやすくて、感謝してます、本当に。今まで僕の周りにいた人たちみたいにプライベートなことにまで踏み込むようなことはしないし、出世にガツガツしてる風にも見えないし、とてもスマートな方だなって思ってました」

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