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第5話 蝶

「藤原さんがその気になってくれてるなら大丈夫ですよ、きっと。僕も、ほら」  俺のアレに自分のものを押し付けてくる直江。そして、どちらも萎える気配はなかった。  けれど、その後すぐ、俺は心の中でこんなことを毒づく羽目になった。 ――嘘吐きめ。 「あ、そこ、いいっ……!」  初めて男に体をまさぐられた奴がそんな風に媚びた声を出すだろうか? 慣れないながらも俺がほぐしてやろうとすれば、バスルームで既に自分で準備してあったようで、そう細くもない俺の二本の指をすんなり受け入れた。  ローションなんか用意してあるはずもなく、どうしたものかと思いあぐねていれば、しれっとハンドクリームを出して来た。リンゴの絵が描いてあるから、爽やかな香りを想像していたら、リンゴはリンゴでも濃厚なジャムのような匂いだ。よくよく見れば[ Apple & Honey ]の文字があり、小さく蜜蜂も描かれていた。随分と可愛らしい物を持っているものだと変なところに感心する。 「ああっ、あん、ふじわ……さ……」  大体、役割分担について話し合ったわけでもないのに、自らほぐしてくるということは、直江は自分が「そっち側」だと自覚していたのだろう。背丈で言えば直江のほうが長身で、俺が「そっち」だとしてもおかしくなかったはずなのに。まあ、実際問題、それを求められたらちょっと待ってくれ、俺のほうが上司だし年上だしと屁理屈を言い張るか、せめてじゃんけんで決めようじゃないかと頼み込むしかなかったのだけれど、その必要もないままに、こうして直江の中に挿入している。 「そこ、こするの、気持ちい、あっ……いい、ふじ」  前の職場や営業部時代のトラウマで、仕事中は寡黙な直江。だが、今日の商談では、俺より流暢な英語で弁舌滑らかに相手を圧倒して大口契約を取りつけていた。そして今は、"弁舌滑らか"とは程遠いが、今まで見た中でもっとも"熱く"言葉を発している。 「ああんっ、や、あ、もう、イク、イッちゃいますっ」  どうしてだかそこだけ丁寧に言う。そんなギャップがおかしくて可愛くて、俺はわざとスピードを緩めた。  思えば直江はギャップで出来ているような男だ。有能な営業マンだと聞いていたのに、うちの部に異動してきた時には必要最低限の会話しかしようとせず、素っ気ない態度を取り続けていた。そんな風に寡黙だと思えば英語の商談は強気にこなす。長身で筋肉質でありながら、首や手足が細く若干撫で肩のせいか、どこか頼りない。その細身には不釣り合いな武骨なビジネスバッグを抱え、だがその中にはアップル&ハニーのハンドクリームをしのばせている。極め付けはスーツの下に隠された胸のタトゥー。今は俺に背中を向けているから、その蝶を見ることはできない。 「こっち向いて」俺は直江の中からいったん引き抜く。正常位になると、汗ばんだ肌にあの蝶が張り付いていた。 「藤原さん」直江が手を伸ばしてきた。俺は体を倒して、直江に近づく。お互いの胸がくっつきそうになるほどに。ぴたりとくっつけば、あの蝶は俺の胸に転写されはしないかなどと妄想する。  直江が俺に腕を絡ませてキスをねだった。口づけをしながらあの蝶の翅の乳首をつまめば、ますます硬く尖る。「続き、してください」  俺は上体を起こして、再度直江のそこに入っていく。ひくひくと締め付けるそこは、その快楽をとうに知っているに違いなかった。 ――こんな体で、俺が初めてのはずがない。  蠢く蝶を見ながら俺はぼんやりと考える。「抵抗したから未遂に終わった」、あの言葉は、本当のことだろうか。尾関課長はこの蝶を見て抱かずにいられただろうか。いいや、インターン時代の奴にしても、海外のNPOとやらにしても、彼に関わり、後には彼を遠ざけた男たち。彼らはもしかしたら、直江を排除したのではなく、直江に飽きられ、捨てられた側ではなかったか。 「あっ、あっ、いい、もうイク、イクッ……!」  でも、そんなことはもうどうでもよかった。直江の過去を知ってるのはこの蝶だけでいい。そして、今後この蝶を見ることができるのは、俺だけでいい。 「氷は溶けたけど、まだ充分冷えてるぞ」  氷に埋もれていたはずのシャンパンのボトルは、いつの間にか冷水に浸かるボトルになっていた。ポタポタと水滴が落ちるのも構わずに、俺はボトルを取り出して直江に見せた。 「動けません」  うつ伏せに寝そべったまま直江が言った。そんなに負担をかけたかと少々不安になって様子をうかがうと、半分枕に埋もれた直江の顔は笑っていた。  俺は安堵しつつも苦笑して、シャンパンの栓を抜く。持ってきてもらった時には温度差で曇るほど冷えていたフルートグラスはとっくに常温に戻っていたが、構わずシャンパンを注いだ。二つのグラスのステムを持ち、こぼさないよう気を付けながらベッド脇まで持って行ってやる。 「Voulez-vous du champagne?」 「S'il vous plaît, Monsieu.」  シャンパンはいかが。いつだったか飛行機の中で見た映画で覚えたフレーズだ。フランス映画ではない。英語の映画で、そのやりとりだけがフランス語だったから印象的だったのだ。相手役も今の直江と同じ返事をしていたはずだ。 「フランス語を?」  直江は上体を起こし、グラスを受け取りながら尋ねた。 「大学の二外で取っただけだよ。おまえはどこで?」 「NPOにいた時、フランス語圏だったので。ほとんどは英語で乗り切りましたけど現地の人と話すにはどうしても」 「実地で必要に迫られるのが一番覚えるよな」 「そうですね。語学はその言葉を話す恋人を作るのが一番の早道って説もありますし……」  直江の語尾は曖昧に消えていった。その説を裏付ける思い出でもあるのだろうか。  そう思うと胸がチクリと痛んだ。さっきもそうだ。どこの誰とも分からない彫師。それから尾関課長のことだって。抱いている間は過去のことなどどうでもいいと思ったはずなのに。 「ぬるくなりますよ」  直江の言葉にハッと我に返った。 「よし、じゃあ俺の誕生日に乾杯だ」 「それだけですか?」 「ん?」 「僕たちの出会いに乾杯、とか?」  直江はニッコリと笑った。無邪気なのか、その反対なのか、分からない。戸惑っていると直江が重ねて言ってきた。 「ごめんなさい。調子に乗りました。こんなの、旅の恥はかき捨てってやつですよね」  今度は淋しそうに微笑む。直江はグラスをじっと見つめると、やおらそれを一気に飲む勢いで傾けた。 「おい、ちょっと待て」 「わ、危ないですって」  飲みかける直江と、それを制止しようとする俺とがバタバタしたものだから、ベッドが揺れて少量のシャンパンがこぼれた。それでも半分以上は残っているのを確認して、俺は言った。 「そんなつもりはない」 「大丈夫です。忘れますから」 「忘れないでくれ」  情けないセリフだと思ったが他に言いようがなかった。 「……分かってます? 忘れないなんて言ったら、なかったことにはできないし元にも戻れないんですよ?」 「もちろんそうだ」 「日本に戻ったって、嫌でも毎日顔を合わせるんですよ、僕たち」 「最高じゃないか」 「本当に?」  本気でそう思っているのか。本当に俺を信じていいのか。その問いかけはつまり、少なくとも直江は俺を悪く思ってないという解釈でいいのだろう。そうじゃなくたって構わない。そう誤解させた直江が悪いのだ。――おそらくは今までの男たちもそう思ったことだろう。  俺は無理やりグラス同士をカツンと当てて、「俺たちの出会いに乾杯」と言った。 「……乾杯」  直江ははにかみながら小さく言い、やっぱり一気にシャンパンを呷った。 「いい飲みっぷりだな」 「冷えてるうちに飲まないと」 「そうだな」  俺もグラスを傾け、一気に飲み干した。それを見届けたタイミングで直江が言った。 「でも残りはぬるくなっちゃいますね」 「え?」  氷でキンキンに、というわけにはいかないが、ワインクーラーはまだそこそこ冷たい水が満たされている。もうしばらくは冷えたまま飲めるはずだった。  直江は空いたグラスをナイトテーブルに置くと、俺のグラスもそこに置くようにと視線で示した。俺は操られるようにその通りにした。それから直江は俺に向かって両手を広げながら、艶然と微笑んだ。その胸には、直江の相似形の如くに両の翅を広げるあの蝶。 「夜はまだ長いでしょう?」  直江の腕に絡めとられると、ふいに眩暈がして幻覚のようなものが見えた。    細かな泡が立ち上るグラスの底に、ゆっくりと沈みゆく俺。  その頭上には艶やかな蝶が一匹、ひらひらと舞っている――。 (完)

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