4 / 5

第4話 Champagne

「結果的には何もなかったですし、希望通りに異動させてもらえたし、もう、いいんです」 「……泣き寝入りかよ」俺は直江の襟元を元のように直してやった。「前の会社でもそういうことが?」  直江は小さく頷いた。 「おまえ、でかい図体して色っぽいもんなあ、妙に」  そこで初めて彼は反抗的な目で俺を見た。 「みんなそう言う。けど、僕はっ」 「おまえが悪いとは言ってないよ。嫌がる相手に手を出すほうが悪い。それだけだ」  俺はベッドから降り、部屋の冷蔵庫から缶ビールを二本取り出した。 「飲み直すか」  直江に一本渡し、俺はソファに座った。  直江は素直にそれを受け取り、俺が飲み始めるのを待つでもなく、すぐに開けた。一気に飲み干すつもりかと思う勢いで喉を鳴らした後、おもむろに語り出した。「僕、そういうこと、学生時代からあって。弱々しく見えるのかと思って、それで、こんなのを」 「タトゥー入れりゃ強そうだって?」 「若気の至りですけどね」 「だったらもっと、虎とかドラゴンとか、あったろうよ、強そうなのが」 「ですよね。でも、彫師の人が僕にはこれが似合うと勧めてくれて、それに、こう、蛹から生まれ変わるみたいな、そういうのもいいなと思って。自分を変えたかったので。誰かに見せて威嚇したいわけでもなかったし、だから、服を着れば見えなくなるところに入れたんです」 「ふうん」今度は俺のほうが彼から目をそらし、窓の外を見た。「まあ、いいんじゃないの。似合うよ」妙な勘ぐりを避けるため、なるべくそっけなく言った。 「そう、ですか」  直江が自分の胸元を覗き込む様子が、夜景の窓に映りこんだ。俺もあの蝶をもう一度見たい。そう思ったが、我慢した。直江はふいに立ち上がると、スーツケースを開けた。何をするのかと思えば、ポロシャツと短パンを出している。 「どうした?」 「藤原さんと寝るのにやっぱりパンツ一丁じゃまずいなと思って。一人で寝るつもりでいたから、パジャマは用意してこなかったんですけど」 「俺は別に構わない」 「でも……」  直江はまた襟元を気にする。 「何もしやしないよ」  俺も立ち上がり、掛け布団をはいでベッドの端に潜り込んだ。直江側には背を向けて横向きになる。 「俺は寝る。そっちも適当にしてくれ。それじゃ、おやすみ」  そう言って目をつぶった。  そうして約束通り、何もせずに一晩を過ごした。正直に言えば、なかなか寝付けなかった。直江が電気を消した時も本当は起きていた。だから、彼が一度ベッドから出てバスローブを脱ぎ、またベッドに戻ってきたのも気づいていた。同じベッドに、あの艶めかしい蝶がいる。薄紅の乳首と、赤く染まった耳朶を思い出しては、動悸が激しくなり、股間が熱くなった。それをなんとか治めようと明日の仕事のことを考えているうちに、ようやく眠りについたのだった。  翌日、会場までの僅かな距離をタクシーで移動した。無精をしているのではない。ホテル周辺には強盗や物乞いがうろついているので、安全対策だ。外はうだるような暑さのはずだが、車内や施設内は過剰なほど冷房が効いていて、クールビズでないスーツでちょうどいい。  商談では期待していた以上の手応えを得て、俺たちは上機嫌で二日目の晩を迎えた。 「誕生日だし、商談も順調ですから、約束通り、今日こそ僕が奢ります。ただし、乾杯の一杯だけ」 「そんなのいいって、好きなの頼めよ」 「いえ、今日は。今日の乾杯だけは、僕に払わせてください。あの、ちゃんとお祝いしたいので、藤原さんのこと」  そんなことをはにかんだ顔で見つめられながら言われて、悪い気分になるはずがない。俺は「ありがとう」と言い、グラスワインで乾杯をした。  すぐにそれを飲み干したかと思うと「あっ、しまった」と直江が言った。 「お祝いだから、シャンパンにすればよかった。今からでも頼みましょうか?」 「これ一杯でやめておくよ」 「……そうですね、明日は大事な契約になりそうですし」 「いや、そういう意味じゃなくて、ここより部屋のほうが眺めがいいから」俺は直江を見つめる。「食事が済んだら、部屋で飲むというのは?」 「はい」直江は素直に頷いた。「藤原さんがそうしたいなら……いいです」  その言葉には他の意味も含まれているのか。答えは間もなく分かるだろう。  案の定、一時間も経たないうちに、俺たちは部屋にいた。  直江が冷蔵庫から缶ビールを出そうとするのを止めた。「シャンパンだろう?」 「冷蔵庫になくて」 「ルームサービスで頼めばいい」俺は背後から直江に近づき、その肩越しに囁いた。「祝ってくれるなら、もう一度、あの蝶を見せて」  直江は黙って俺を見つめ返した。  俺は続けた。「もちろん、無理にとは言わない。その気になったらでいい」  直江はおもむろに俺から離れると、背中を向けたまま上着を脱ぎネクタイを抜き去った。ボタンをひとつ外しただろう、というところで、手を止めた。 「やっぱり、先にシャワー、いいですか?」 「ああ、その間に乾杯の準備をしておくよ」  直江はバスルームのドアノブに手を掛け、俺のほうを振り向く。その顔には、あの蝶のような艶やかな笑みが浮かんでいた。 「シャンパンはうんと冷えたのが好きです」  直江がバスルームに消えると同時に部屋の電話が鳴った。フロントからで、急遽シングルが一部屋空いたからどちらかが移ったらどうかと言う。希望すればすぐにでも案内できると言われたが、夜景が気に入ったからこのままでいいと断り、ついでによく冷えたシャンパンを頼んだ。 「ワインクーラーも忘れないでくれ」  最後にそう念を押した。冷えたシャンパンでの乾杯は、あの蝶をつかまえた後のお楽しみになるかもしれないからだ。  バスルームから出てきた直江は、やはりバスローブを羽織っていたが、ベルトを結ぶことはしておらず文字通り羽織っているだけだった。 「シャンパン、冷えてるぞ」  俺はベッドに腰掛けたまま、窓辺のテーブルを示した。 「最高ですね」  口ではそう言いながらも、シャンパンのほうはチラリと一瞥しただけだ。それから俺の真正面に立ち、やれるものならやってみろと挑発するように小首をかしげて俺を見降ろした。  俺はゴクリと喉を鳴らした。もうそれで勝負は決まってしまったようなものだった。 「いいのか」 「見たいんでしょう? どうぞ」  直江の襟元から手を差し入れて、バスローブをずらしていく。湿ったタオル地が肩から外れたかと思うと重みで一気に床まで滑り落ち、一糸纏わぬ直江が現れた。 「触ってもいいですよ」  そう言われても動けずにいると、直江のほうから俺の手を取り、あの蝶へと(いざな)った。そうやって腕を動かせば連動して胸筋も動き、どこからか飛んできた蝶がふわりと直江の胸に止まったかのように見えた。  だが、それはいつかどこかで、誰かが彼の胸に彫り付けたものだ。そう思った途端に、またじわりと胃が重くなる。コンペでライバルとも思っていなかった競合他社が予想外に良い企画をぶつけてきて、自分が競り勝てるかどうか瀬戸際に立たされた時の焦燥感に似ている。それもやはり嫉妬の一種なのだろう。 「日本で入れたのか?」  間抜けな質問だと思った。そんなことが知りたいわけではなかった。正しくは「どこのどいつがおまえの身体にこんな刻印を残したのか」だ。 「いえ、これは海外で」  直江はただそれだけ答えた。海外にはよく行くと言っていたから、そんな旅先での出来事だったのかもしれない。  そして、彫師の前で胸をはだける直江を想像した。いいや、それだけじゃない。その彫師はきっと、背中がいいか尻がいいかと探っただろう。直江の肌のどこが一番艶やかな蝶にふさわしいかと、くまなく触れて確かめただろう。  俺は直江の蝶に触れ、その薄紅の突起を数回こすった。小さく柔らかだったそこがぷっくりと膨らんでくる。蝶のいない右胸も同じようにする。 「んっ……あっ……」  直江の口からはワインの香りを含んだ喘ぎが漏れてきた。直江に秘密の刻印を記した彫師は、こんな瞬間にここにしようと決めたのだと思った。  俺は直江の腰を引き寄せ、俺にもたれかかるような姿勢を取らせた。キスを求めたのはどちらからとも言えない。気が付けば直江の腕が俺の背中に回っていた。  せっかくのキングサイズのベッドの端でこんなことをしていても仕方がない。俺は直江を抱え込んだままベッドの真ん中へと転がった。直江を下に組み敷いても抵抗はされなかった。ここまでして勘違いということもあるまいが、今までそれで傷ついてきたと打ち明けてきた人間を絶望させるつもりもない。 「男相手は初めてなんだ」 「僕もです」  直江の手が俺の股間に伸びてきて、いきなりつかまれた。

ともだちにシェアしよう!