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第3話 TATTOO

 エレベーターで客室に戻る。部屋に入るなり俺はベッドに倒れ込んだ。 「はあ、今頃疲れてきた。エコノミーは体がキツイよな。直江の身長だと余計だろ。あ、これから本当に仕事するのか?」 「抜けがないかざっと目を通すだけです」直江は、スーツケースではなく機内持ち込みにしていたビジネスバッグから、書類を出した。「その前に、シャワー使っていいですか? やっぱりちょっと眠くなってきちゃったんで、目覚ましに。それとも藤原さん、先、使います?」 「いや、いいよ」  直江がシャワーを使っている間に、俺も資料を揃えておく。それから自分のスーツケースを開き、パジャマと下着を出し、ソファに置く。直江がシャワーから出たら俺もひと風呂浴びるつもりだ。そう言えば直江は着替えを用意していただろうか。  そんなことを考えていると、直江はホテルのバスローブ姿で出てきた。なるほど、それなら着替えは要らないか。バスローブではいまひとつ落ち着かない俺は、準備したパジャマを持って、直江と入れ違いにバスルームに向かう。  シャワーを済ませて部屋に戻ると、直江はベッドに腹這いになり、枕を台にしてノートPCを操作していた。上司の前で行儀が悪いと言えば悪いが、どうしてだか直江だと許せてしまう。 「抜けのチェックだけじゃないのか」 「事務のほうからインボイスの件で問い合わせが来ていて。大した内容じゃなかったから、これ送信したら終わりです」 「さすが有能だね。頼りにされて。俺には誰も何も言ってこないぞ」 「冷やかさないでくださいよ。藤原さんに言うほどのことじゃないってだけです」  直江はパソコンをナイトテーブルに移動させ、今度は仰向けになった。バスローブの胸元がはだける。左胸の辺りに何か絵のようなものが見えた気がして、俺は凝視した。その視線に気づいた直江はハッとした顔で、ローブの襟元を正してそれを隠した。そんなことをされると余計に気になり、既に隠された胸元から目を離せなくなった。  胸元に彩色された絵となればタトゥーの類だろう。日本社会ではまだ市民権を得たとは言いがたいが、俺はそこまで保守的じゃないし、特に海外事業部は帰国子女や外国籍の社員も在籍していることもあり、ちょっとしたファッションタトゥーやトライバルなら、そこまでの嫌悪感はない。 「別に隠さなくてもいいよ。普通にしてりゃ見えないタトゥーなんて、査定にだって響かない。少なくとも俺は気にしない」  俺が思ったことをそのまま伝えると、直江はますます緊張した面持ちになり、自分で襟元を掴んで、更にきゅっと締め上げるようにした。 「でも、尾関課長は……」  直江は俺と目を合わせず、斜め下に視線を送り頬を赤らめている。頬が赤いのは酒を飲んでいた時からだし、タトゥーのことを指摘されて恥ずかしくなったのかもしれない。とにかくそこに色っぽい理由はないはずなのだけれども、その姿は妙に艶めかしい。 「尾関課長が、何だって?」  直江の恥じらう姿に見とれて、あやうく何の話をしているか忘れるところだった。 「そういう人間を大事な顧客の前には出せないと……」 「尾関さんが?」  営業一課の課長である尾関さんは、俺が新人だった頃の教育係だ。その頃は海外事業部にいて、まだ役職についていなかった彼のことを、俺はそんな風に呼んでいた。面倒見の良い人で、俺自身よくしてもらったし、今の俺と同じく、服を着ていれば見えないところにあるタトゥーなど気にするような人とは思えなかった。 ――そう、服を着ていたら見えない。 「どうして尾関さんがタトゥーのこと、知ってるんだ?」  俺の追及に、直江はますます赤くなった。明らかに動揺している。 「あの……しゅ、出張の時に。今と同じように」 「その時もダブルブッキングで同室になったのか?」  それはあまりにも稚拙な嘘だ。営業一課は基本的に日帰りの国内出張しかない。稀にある泊まりの出張で、なおかつ同行者がいたとしてもまずシングルルームしか取らないし、今回のような手違いがそうしょっちゅう起きるとも思えない。 「いえ、その」  気まずそうに目をそらす直江のすぐ近くに行くと、彼は飛び起き、ベッドの上で居住まいをただした。襟元をぴっちりと押さえるのも忘れない。 「まあ、いいや。……どんなのか見せてよ」  俺は女性を口説く時の台詞のようだなと思いながらそんな言葉を吐いた。 「それは、ちょっと」 「だったらバスローブなんか着なきゃいいのに。ほら、俺なんか着古したパジャマだぜ」  俺は両手を広げて見せた。 「普段、寝る時着ないんで」  そう言ってから、しまったと言うように顔をこわばらせた。 「着ない? パジャマを? Tシャツとかジャージとかも?」 「あ、はい、その……着ないです。下着のパンツだけ」 「へえ」  俺は直江が目を合わせようとしないのをいいことに、上から下までじっくりと眺めた。恥じらう仕草に不釣合いな精悍な顔立ち。案外首は細い。その首元にはきっちりと襟を閉ざしている手。静脈の浮いた、男の手だ。バスローブの縁に沿って視線を下方に移動させれば、合わせ目がはだけて曝け出された膝下が見えた。程よく筋肉のついた足だ。  再び直江の顔を見る。その耳まで赤く染まっているのを見たら、もう我慢できなくなった。 「見せろよ。尾関さんには見せたんだろ?」  直江はようやく俺を見た。何か言いたげな半開きの唇は、だが、何も言わなかった。ワインで酔った時と同じく、目が潤んでいる。しばらくその目と見つめ合って、直江は観念したように手を離した。離しただけで、それ以上のことをする様子がないから、俺がその襟を掴んで、胸元をはだけさせた。何だかぞくりとした。男を脱がせるという行為が、こんなに罪悪感を伴うことも、こんなに性的興奮を覚えることも、今までにないことだ。  やがて直江の左胸が露わになると、艶やかな蝶が浮かび上がった。黄色を主体にしているが、赤や青や黒もある。翅を広げたその蝶は、乳首すら絵の中に取り込まれて、それと対称になるところにも薄紅の柄が入っている。和風というよりはシノワズリーといった印象を受ける。有機的な甘ったるい香りのこの国によく似合う蝶だと思った。 「きれいだな」  俺は無意識に蝶に触れる。 「あっ、ちょっ」  直江は身を引いてよけた。そんな風に拒絶されて初めて、自分が直江の乳首に触ろうとしていたことに気が付いた。 「ごめん、すまん。変な意味はなかった。あんまりきれいだったから」 「いえ……」  直江は大きな体を小さくして、顔を紅潮させている。  変な意味はなかった。自分でそう言った矢先なのに、そんな直江を見るとどうにも妙な気持ちになり、動悸が激しくなる。 「もしかして、尾関さんも、今みたいに」  あの尾関さんがそんなことをするはずがないという気持ちと、こんな直江を前にしたら誰だってその気になってしまうだろうという気持ちとが入り混じる。そして、その問いかけに直江は黙って頷いたのだった。 「その時も、これだけ? それとも、その先のこともされた?」  俺は直江の真っ赤な耳に囁いた。 「なっ」  直江は顔を上げる。口元が小さく震えている。この動揺ぶりからして、俺の言葉通りのことが起きたということか。 「あの人、子供も生まれたばっかりなのに、何やってんだか」  俺はそんな言葉を直江にぶつけた。この感情はなんだろう。やつあたり、いや、嫉妬か。 「それが異動の理由か? 尾関さんがおまえをどうにかして、だからおまえは」  話している途中で直江が言った。 「違います、ただ、いろんな仕事を覚えたくて、だから異動させてほしいと、僕からお願いして」  強い口調の割に、何かに怯えているような表情だ。 「本当のこと言えよ。何をされたんだ?」  あの家族思いの尾関さんが同性相手にそんなことをするとは信じがたがったが、目の前の直江を見ればありえないことではないと思う。現に俺でさえさっき彼に触れたいと思ってしまった。  直江は一瞬固まると、首を横に振った。 「何もされてません。抵抗しましたから」 「されてんじゃねえか。未遂だろうが同意じゃなきゃ犯罪だ」  裏切られた、と思った。尾関さんにも、そして、何故か直江にも。俺にだけ見せた表情、俺だけが知っているタトゥーではなかったという事実が、俺を打ちのめし、嫉妬心を駆り立てた。嫉妬するような関係ではないというのに。

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