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後編

 庭師の男に初めて会ったのは、私がまだ少年だった頃だ。  百貨店の外商だった父親の商談に連れられて、あの方の住むお屋敷を訪ねたのだ。  当時から今と殆ど変わらぬ古びた洋館で、あの方は庭にしつらえたガーデンテーブルでお茶を飲んでいた。 「尚樹(なおき)くんだったね。貴彰(たかあき)だよ。君がもっと小さい時にも会ったことがあるのだけど、覚えてはいないかな?」  差し出された手は白く美しく、私は握るのをためらったことを覚えている。  庭の片隅では大男が何かを植え替えているのか、土を掘り起こしていた。  スコップの手元がくるって土塊が飛び、そこに折り悪く海風が吹く。  側で見ていた私は土埃が目に入ってしまい、思わず擦ろうとする。 「こすってはいけないよ」  あの方はそう言って、濡らしたハンカチで丁寧に拭ってくださった。ハンカチは花のような良い匂いがした。  庭師の男は一言「悪かった」と言い、あの方は静かな微笑みを浮かべて庭師を見ていた。  その後、あの方は何度か私たち家族をお屋敷に招いてくださった。  庭師の姿も何度か見かけた。  転機があった。  高校を卒業する少し前に両親が事故で他界してしまい行くあてのない私を、遠い親戚であるあの方が引き取ってお屋敷においてくださることになったのだ。  西洋館には二階に主寝室と客間の他に使われていない子供部屋があり、そこが私にあてがわれた。ひどく明るい色合いの内装は10代も後半の男子が使うには気恥ずかしかったが、あの方が私のために用意してくださったのだろう真新しい寝具やカーテンに、沈んでいた心が少し軽くなった。 「久しぶりに街へ下りたんだよ。こんなに近いのにね」  この洋館のある高台から坂を下って少し進むと、大きな商店街に出る。休日ともなれば若い男女や家族連れで賑わうその場所は、眼の前の物静かな初老の男性に不似合いな気がした。  お屋敷には住み込みの家政婦が居て、私に少しずつ仕事を教えてくれた。  庭師の男は、川を挟んで反対側の労働者街から通っているようだ。荒くれ者が多く治安の悪い街に住む者らしく、無口で粗野な男だ。  私は、庭師とあの方の間に重大な秘密があるのではないかと思っていたが、それがはっきりわかったのは、ある夜のことだった。  廊下の反対側から誰かの話し声が漏れているのが聞こえた。  庭師の男だ。嫌な予感がしてそっと声のする方へと向かう。主寝室の扉が開いていた。  そこに見たのは、月明かりに照らされ、大男に組み敷かれるあの方の姿だった。  目隠しをされ、手足を縄で縛られている。  私は声を上げることも忘れてただ見入ってしまった。庭師がこちらを見て嘲笑ったような気がした。  慌てて扉を開けたまま自分の部屋に戻ったが、漏れてくるあの方の歓喜の声にどうしようもなく情欲を掻き立てられ、私は涙を流しながら自慰をした。  やがて高校を卒業する私は、進路を決めなくてはならなかった。進学するなら学費は出してくださると言われたが、断った。  老齢を理由に家政婦がやめることになり、私はあの方の身の回りのお世話とお屋敷の維持を引き継いだ。少しでも長くあの方のそばに居たかったのだ。  家政婦が出ていった後、一階の使用人部屋に私は移った。その必要はないと止めてくださったが、私がけじめを付けたかったのだ。  呼び方や言葉遣いも改めた頃には、旦那様はすっかり諦めた様子だった。 「君がいてくれて良かったよ。古い西洋館は住むだけで不便が多いからね」  庭の木々の手入れだけは、私が手を出すことを許されなかった。庭師の男がいるからだ。 「薔薇は、秋にも咲くのですね」 「ああ、春に比べて花の数は少ないけれど、その分長く楽しめるんだ」  あの方と私とが庭でとりとめもない会話をするのを、庭師はいつもじっと黙って聞いている。  数年後。  庭師の男は病を患い、満足に仕事を果たすことができなくなった。   庭木の大部分を伐採し、薔薇は旦那様が自ら手入れするようになった。  それでも時折、あの男は旦那様の部屋に通っているようだった。  ある夜更け、使用人部屋の自分の机で書類仕事をしていると、庭師の男が入ってきた。  見せたいものがあるという。連れられた先は、二階の主寝室だ。  躊躇いながらも部屋に入ると、旦那様はアイマスクとヘッドホンで目と耳を塞がれ、縛られてうつ伏せにされていた。  何か粘性のある液体で濡らされた後穴には淫具が挿入されている。  意味がわからず困惑している私に、庭師は自分が病気のせいで不能になってしまったことを告げた。 「俺の代わりに、抱け。こいつは何も知らない」 「……」  私は庭師の言うとおりにした。  旦那様は嬌声まじりに庭師の男の名前を呼び続け、男はそれを見ていた。  奇妙な関係は半年以上続き、庭師の死で終わった。 ◇  私が旦那様を抱くことはない。  あの時抱いたのが自分だと気づかれないように、ゴムの手袋をはめた手で触れる。  旦那様を愉悦に導くための奉仕だと自分に言い聞かせながらも、庭師の名前を呼ばせないよう猿轡を噛ませるのは、歪んだ感情だとわかっている。  ある日、口を戒めていた布が緩んで外れてしまった。  締めなおそうとしたところ、旦那様が首を横に振られたのでそのまま続行する。  久々に聞く、遮るもののない快楽の声。 「…な、お…き……」 「!」  旦那様が呼んだのは庭師ではなく、私の名だった。 「尚樹、ああ、あっ…」  堪えきれない。  これまで耐えてきた感情に押し流されそうになる。  私は旦那様を拘束していた縄を解き、手袋を脱ぎ捨てた。 「尚樹っ」  私は旦那様を抱き上げ、ベッドへと運んだ。 「ずっとあなたとこうしたかった」 「僕と……?」 「庭師の名を呼ぶあなたを見て、自分の方を向かせたいと」 「君は、もしかして」 「旦那様、いえ、貴彰様……」  私は自分にすがりつくその細い体に、これまでの時間を取り戻すかのように、滾る熱を何度もぶつけた。  翌朝、貴彰様はベッドの中で冷たくなっていた。  鎮痛剤の大量摂取だ。  私はかかりつけの医師を呼ぶ。 「まれにあることです」  全てを察した医師は、病死の診断書を書いてくれた。  どのみち、末期のガンで手の施しようがなかったのだ。 『全てを桐嶋尚樹に譲る』  公正証書にはそう書き記されていた。  旦那様の墓に、あの庭から切ってきた薔薇を供える。  棘が指を刺して一筋の血が流れた。  私は庭の薔薇を全て刈り取り、焼き払った。  この屋敷に、主人はいない。  

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