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act.05 ”Dependence and retribution”
その日、目を覚ました辰巳は違和感を感じ、次いで慌てたように勢いよくその上体を起こした。
寝起きが悪い辰巳にしては珍しい事だが、理由はいつも胸に乗っている筈の金色の頭がなかったからだ。
情事の後にフレデリックがいない事はあっても、それ以外に居なかった事はこの数ヵ月一度もなかった。どこに行ったかと部屋の中を見回したところで、辰巳は二日前の夜の事を思い出す。
フレデリックは、急遽仕事を頼まれていたのではなかったか。と、日付を確認して辰巳は再び寝台に沈んだ。何を、自分はそんなに慌てているのか。思わず熱の集中する顔を、辰巳はその腕で隠した。
このところ一緒に居る時間が長いせいか、辰巳はどうもフレデリックに感化されているのではないかと思う。長い事友人さえ作ってこなかったが、恋人というのはこう、僅かでも離れていると不安になるものだろうか。
今となっては以前のように三か月に一度しか会えないなど、考える事すら出来ない始末だった。
―――拙いんじゃねぇか…これ…。
確実に自分は、フレデリックに依存しているような気がする。隣にいるのが当たり前なのはいいとしても、離れている時間があるのも当たり前の事なのだ。それを、すっかり辰巳は忘れていたのである。離れたくないというフレデリックに、呆れている場合ではない。
再び眠りにつく気にもなれず、辰巳は躰を起こした。煙草は、メインルームのテーブルの上にある。寝台からも見えるその距離が、なんとも面倒臭い。
元々辰巳は自分で何かをする事が少ない。家に居ても外に居ても、必ずと言っていい程若い衆がひとりは付いている。いつの頃からかそれが当然になっていた。
辰巳は、生活能力が皆無だ。別にそれは困らない。むしろ細々動くなどまっぴら御免である。
いつもならフレデリックがコーヒーと共に煙草と灰皿を持ってくるのに…と、そう考えたところで、いない事に耐えられないというのは些かならず拙いと気付く。
確かにこのところ、三か月半もフレデリックと辰巳は同じ時間を共有している。十一年もあまり会えない時期が続いただけに反動もあるだろう。だが、またその生活に、戻れる気がしない。
頭をガシガシと掻いて、辰巳は寝台から降りた。ぼんやり考えているとロクでもない事しか浮かんでこない。煙草でも吸って落ち着けば少しはマシな事も考えるというものだ。
ぺたぺたと床を素足で歩いてメインルームに辿り着く。煙草の小さな箱の下に、一枚のメモが挟まれていた。煙草に火を点けて紙切れを摘み上げる。
『おはよう辰巳。コーヒーはセットしてある。18時に戻るので夕食は一緒に。 Frederic』
律儀なものだと、そう思う。辰巳はメモをテーブルの上に戻すと、コーヒーを淹れるためにキッチンカウンターへと足を向けた。だがしかしカップはどこにあっただろうか…などという辰巳の心配は杞憂に終わった。
そこにはコーヒーメーカーの横にしっかりとカップが逆さまに置かれていて、苦笑を漏らすしかなかった。本当に、よく気が付く男だ。辰巳はカップの場所さえも知らない。
もしフレデリックが用意していかなければ、辰巳はコーヒーを飲むこと自体を諦める可能性もある。探すのが面倒なのだ。ひっくり返したカップにコーヒーを注いで、辰巳はメインルームへ戻った。
昔、辰巳とフレデリックの二人は夫婦のようだと言われたことがある。まさしく、フレデリックは辰巳の事を良く知っている。それはもう嫁のように。
ソファに座り、今日一日何をしようかと考える。フレデリックが戻るのは十八時。それまで七時間もある。とりあえずジムで汗でも流そうと決めて、辰巳はコーヒーを啜った。その後の事は、その時に考えればいい。
結局、部屋でだらだらしていた辰巳は、ジムの前に腹ごしらえを先に済ませる事にした。ひとりで摂る食事は、やはりどこか味気がない。
食事を済ませ、船内を歩く。辰巳はふと思い立って甲板に出てみる事にした。ジムは二十四時間いつでも使える。通路をひとりで歩く。外に出ると、結構な人出がある事に驚いた。
大型客船『Queen of the Seas』。以前フレデリックとふたりで歩いた時は随分と広いものだと思ったが、こう人が多いとそう広く感じないから不思議だ。それでも、混みあっていると感じないだけやはり広いのだろうけれど。
最後部のデッキはどうやら、日中はカフェとしても利用されているようだった。辰巳は人の少なそうな場所を選んで腰を落ち着けると、コーヒーを注文してぼんやりと海を眺める。
穏やかな海の上は何もない。辰巳は自分が現在どこの国にいるのかすらも把握していなかった。外に出たところで分かるはずもない。各地に寄港している筈だが、辰巳もフレデリックも陸に上がってはいなかった。
こんな果てしなく広い海を、フレデリックたち航海士は迷わず目的地まで船を導く。それは、どれほど凄い事だろうか。もちろん海図や計器などもあるのだろうが、例えそんなものがあったとしても辰巳などには到底不可能な事に思える。
辰巳は、フレデリックが何故航海士をしているのか知らなかった。詳しい事は分からないが、航海士というものはそう簡単になれるものでもないはずだ。今度時間があれば面白い話が聞けるかもしれないと、楽しみに思う。随分と自分も変わったものだと思いながら、それが嫌ではないと気付く。
辰巳は、思わずひとりで笑ってしまった。それは、とても穏やかな顔で。と、その時だった。
「そんなに嬉しそうな顔をしてどうしたのかな? 僕の可愛い子猫ちゃん♪」
突然耳元に吹き込まれて、辰巳はビクリと肩を震わせた。一瞬にして辰巳の顔が不機嫌なそれに戻る。
まったく気配を感じさせることなく辰巳の背後に寄って来て囁く男など、ひとりしかいない。案の定、辰巳が振り返った先にはフレデリックが立っていた。
「あれ。嬉しそうに見えたのに気のせいだったかな?」
「お前のせいだよ阿呆。どうしてそういつも急に現れやがる…」
「僕のせい?」
「なんでもねぇ。それより仕事しろよお前…」
「見回りも、大事なお仕事だよ」
そう言って、白い制服を身に纏ったフレデリックが朗らかに笑う。こんな穏やかな甲板の上で見るその姿は、辰巳から見ても惚れ惚れするほど格好がいい。
フレデリックは辰巳の向かいに腰を下ろすとコーヒーを注文した。
「何でお前まで寛いでんだよ。堂々と人前でサボんなタコ」
「大切なお客様の相手をするのも、仕事のうちだよ。知らなかったかい?」
「客は他にも腐るほどいんだろぅが」
辰巳が言っても、フレデリックはどこ吹く風だ。コーヒーを運んできたスタッフに礼を言って微笑んでいる。
ただコーヒーを飲んでいるだけなのに、フレデリックの姿はとても優雅だった。フレデリックはいつでも全身に気を配っている。姿勢、仕草、表情、口調、纏う雰囲気に至るまで。
今、辰巳の目の前でコーヒーを優雅に飲むフレデリックを、マフィアだと思う人間は皆無だろう。そういう所が、辰巳には真似出来ない凄さだ。だが辰巳がそれを素直に口にする筈もなく。
「ったく、お前見てると心配になってくるわ」
「何をだい?」
「この船が、だよ。職権乱用にも程があんだろ、こんなところで寛ぎやがって」
吐き捨てるように言う辰巳に、フレデリックが返した言葉は意外なものだった。
「辰巳には言っていなかったけれど、辰巳は今回のクルーズで一番のVIP待遇だからねぇ。僕がお相手することに何の問題もないんだよ?」
「はあ?」
「せっかくだしブリッジでも案内しようか」
それなら辰巳と一緒にいられるなどと言ってにこやかに笑っているフレデリックに、辰巳は呆れて何も言えなくなった。
緊急事態を除き、客の要望には出来る限り副うのだという。と言っても、相応の客に対してだけではあるらしいが。辰巳には、想像もできない世界だ。
結局、辰巳は制服姿のフレデリックと共にブリッジへとやってきた。
さすが世界屈指の大型客船だけあって、その広さも相応のものである。フレデリックの言う通り、普段はクルーしか入れない場所に辰巳がいても、見咎める者はいなかった。それどころか、にこやかに挨拶をされて辰巳は戸惑うくらいだ。
辰巳はこれといって機械などに興味がある訳でもないが、やはりこういう場所にくると少しだけ浮足立ってしまう。物珍しそうにブリッジの内部を見て回る辰巳のその姿を、フレデリックは穏やかな表情で見つめていた。
深夜に甲板を散歩した時にフレデリックが言った言葉は本心だ。フレデリックは、この『Queen of the Seas』のどこにいる時でも、辰巳を連れてきたらどういう反応をするかと想像して楽しんでいた。それが現実の事となったのだ。これ以上に嬉しい事はない。
「楽しんで頂けましたか?」
微笑みながら問いかけるフレデリックの口調は、実にわざとらしい。『次の場所へご案内致しましょう』と、そう言って恭しく手を差し出すフレデリックは、女性だったら間違いなく頬を染めているところだ。辰巳でさえ危うく手を取りそうになる。
だが、いくら恋人とは言え、こんな人も居る場所で、しかも昼間から手など取れるかと辰巳はフレデリックの手を軽く叩いた。あの夜のように。
「残念」
「ばぁか。そういうのは女にするもんだっつっただろぅが」
「いやあ…この格好なら、釣れてくれるかと思って」
そう言ってフレデリックは自分の躰を視線で示して見せた。確かに、男前である。辰巳から見ても。辰巳は苦笑を漏らすとフレデリックの耳元に小さく囁いた。
「後で、な」
フレデリックの顔がほころぶ。辰巳とフレデリック、二人の周りには今にも花畑の背景が見えるようだった。とは、後にそれを目撃したクルーの証言である。
ともあれ、結局この日、フレデリックはその職権を大いに乱用して辰巳を連れて船内を歩いているうちに終業の時間を迎えてしまった。辰巳と離れたのは最終的な雑務を済ませるだけのたった数十分だけである。
先に部屋へと戻った辰巳が煙草を吸っていると、フレデリックが帰ってきた。それはもう随分と嬉しそうな表情で。
「何をそんなに浮かれてやがる?」
「辰巳と一緒に居られるからに決まってるじゃないか」
「十分一緒に居た気がするんだがよ…」
呆れたように辰巳が言えば、フレデリックが制服のまま抱き締めてくる。
「僕は、寂しかった。辰巳は寂しくなかったかい?」
「寂しいわけがねぇだろ阿呆」
寂しかったなど、言える訳がない。辰巳は誤魔化すように些か大袈裟に溜め息を吐いて、いつものようにフレデリックを罵る。朝、フレデリックがいない事に慌てて飛び起きたなど、口が裂けても言えはしない。そういう、男なのだ。
クスリと笑うフレデリックはもしかしたら気付いているのかもしれないが、何も言わず辰巳の躰を抱き締める腕に力を込めるだけだ。今日もこの二人は平和である。
◇ ◆ ◇
翌日。今日もフレデリックは仕事でいない。辰巳はひとりでジムへとやって来ていた。昨日、来ようと思って来れなかったからだ。たまには体を動かしたかった。健全な意味で。
マシンで数時間汗を流し、少しだけプールで泳いだ後である。
辰巳がシャワーを浴び終えた時の事だった。
それは、一瞬の出来事。バタンッと、勢いよくシャワールームの扉が開かれる。振り返る間もなく辰巳の躰は壁に押し付けられて身動きが取れなくなっていた。ご丁寧に口許を塞がれて、声を上げる事も出来ない。一瞬フレデリックかとも思ったが、それにしては当たりが軽かった。
「ッ!?」
シャワーを止めた瞬間を狙っていたのは間違いがなさそうだが、完全に気配を消していた。フレデリックのご同類か何かだろうかと、辰巳は見当をつける。それ以外に辰巳が襲われる理由が見当たらない。
「辰巳一意。静かに出来るな?」
囁くような声は日本語で、有無を言わせぬ響きを纏っていた。名を呼ばれ、この男の目的が自分で間違いない事を教えられる。
辰巳が小さく頷くと、口許を覆っていた手が外された。躰は、相変わらず指先を僅かに動かす程度しか出来ない。完全に関節をきめられている。
まさかシャワーの個室で襲われるとは思わなかった。そもそもこの男は誰なのか。
壁に押し付けられた辰巳が横目で確認できるのは、自分よりも幾らか身長が低い事と肩まである緩くウェーブがかった赤茶の髪。それだけだ。
「誰…だよお前…」
「クリストファー。だが、そんな事を聞いてお前はどうする? 俺の名前を知ったところで、俺が誰であるのかお前に分かるのか?」
いちいち癪に障る事を言う男だと、そう思った。
辰巳が黙っていると、クリストファーと名乗った男は僅かに躰を離した。グレーの瞳で辰巳の躰を上から下まで眺めて、小さく鼻で嗤う。
「宝の持ち腐れだな」
「大きなお世話だよ。つぅかてめぇ、何の用があってこんな事しやがる」
「動けもしないくせに、威勢だけはいいんだな。そんなに殺されたいのか? 自分の置かれている立場を、少しは考えたらどうだ」
「はぁん? 殺す気で来たなら、とっくに殺してんだろうが」
殺意は最初から感じていない。少なくとも元から殺そうと思っていない事だけは辰巳にも分かっていた。先の事は、わからないが。
あまり怒らせるのは得策ではないかもしれない。と、そう思うものの、辰巳は下手に出るような態度というものを持ち合わせてはいなかった。
「なるほど」
そう呟いて、男が音もなく下がる。ようやく自由になった辰巳の腕は、随分と痺れていた。振り返れば、手荒い割に随分と綺麗な顔をした男の姿がそこにはあった。
飛び込むには僅かに遠い距離に立つ男は、明らかに何かの格闘技をやっている。隙がまったくないのだ。辰巳はガシガシと頭を掻いて男に問いかけた。
「服を着てもいいかよ?」
「好きにしろ」
短く言い放つ男の前を通って辰巳はロッカーに入れていた服を身に着けた。相変わらず、殺気は感じられない。
「あんたいったい何者だ? フレッドの知り合いだってのはわかるが、俺に何の用がある」
「これは驚いた。フレッドが何をしたのか、お前は理解していないのか?」
「あー…なるほど。まあいいや。クリストファー…だったか? ここじゃ話も出来ねぇし、ちょっと付き合えや」
辰巳は腕に嵌めた時計に視線を落とした。フレデリックが戻るまでには、まだ少し時間がある。
どうやら悪意がある訳ではなさそうな雰囲気に、ひとまず辰巳は安心した。むしろこの男は、フレデリックを心配しているようにも見える。とりあえず話を聞こうと思い、辰巳はクリストファーと名乗った男を伴って部屋へと戻った。
部屋のドアが閉まった瞬間、辰巳は本能的に飛び退いた。嫌な予感がしたからだ。
辰巳のいた場所をクリストファーの脚が素通りする。随分好戦的な顔つきをしてはいるが、やはり殺気や殺意は感じなかった。
「っぶねぇなお前…」
「少しは動けるんだな」
メインルームの中央まで一気にさがり両手を垂らした辰巳に、クリストファーが目を眇める。
一応、辰巳はすぐに動ける姿勢ではあるが、クリストファーのような本格的に格闘技をやっている相手にどこまで通用するかは分からない。もしフレデリックと同じような動きをするのだとしたら、辰巳が勝てる可能性など皆無に等しいだろう。
「勘弁してくれよ。俺ぁあんたみてぇなヤバそうなのと喧嘩なんぞ御免だぜ?」
「お前は、自分を殺しに来る相手にも同じ事を言うつもりか?」
「まあ、とりあえずは言うんじゃねぇか? そもそもそんなんが現れた日には、言う前に殺されんだろうがな」
辰巳の言葉は、あっさりとしたものだった。
なるほど面白い男だと、クリストファーは思った。馬鹿正直すぎる。身体能力が高いうえに己の実力を弁えている。相手との差も、見極めているように思う。そのくせ妙に堂々としているのがクリストファーには不思議だった。
根拠のない自信家は腐るほどいるが、この男はそれとも違う。試して、みたくなる。
す…とクリストファーは音もなく辰巳へと間合いを詰めた。辰巳が身構えるより早く左足で前蹴りを放つ。辰巳が後ろに飛んで衝撃を逃がした。そのまま踏み込んで左のフックをフェイントで出す。腕でブロックする辰巳を、クリストファーは構わず右足で横から蹴り飛ばした。
吹き飛んだ辰巳をクリストファーは追わなかった。代わりに、口を開く。
「驚いたな。あの態勢から逃がせるのか?」
「あぁん!? ふざけんなよテメェ! 中途半端に吹っかけんじゃねぇよ、殴り返せねぇだろうがッ」
辰巳が吼える。試すようなクリストファーの動きが気に入らない。一応フレデリックの知り合いらしいこの男が、敵なのか味方なのか辰巳は判断しかねていた。
そんな辰巳を、クリストファーが嗤う。
「お前は、俺に怪我をさせては拙いとでも思っているのか? だとしたら、それは無用な心配だ。本気で殴り返してみればいい。…殴れるものならばな」
明らかな挑発。辰巳は乗ってやる事にした。クリストファーと真正面から向かい合う。先に動いたのは辰巳だった。
胸ぐらへと伸ばした辰巳の手を、クリストファーの右手が払う。同時に辰巳は右膝を突き上げていた。腰を捻るかと思えば、クリストファーが片腕で膝を止めてみせる。その口角がにやりと歪んだ。
辰巳は本能的に大きく飛び退いた…つもりだった。腕を取られ、懐に入るクリストファーに驚きつつ辰巳は投げられる前に足を払う。だが、クリストファーは止まらなかった。
一瞬の浮遊感。次の瞬間、背中に衝撃を受けた。辰巳は受け身を取る事しかできなかった。息が詰まる。
「っ痛ぇなクソッ」
言いながら飛び起きようとした辰巳の胸を、クリストファーの脚が容赦なく踏みつける。その激痛に辰巳は今度こそ呻きをあげた。
「ッぐ…」
「甘いな」
短く言うクリストファーの脚を、辰巳が掴む。躰を回転させて捻れば、さすがに態勢が僅かに崩れた。顔面をクリストファーが蹴り上げようとして、辰巳は反射的に目を瞑る。だが、クリストファーの脚は辰巳の顔の直前でピタリと止まった。
いつまでもやってこない衝撃を不審に思い、辰巳が瞑った目をゆっくりと開けば、鼻先にクリストファーの爪先が見える。そしてその後ろに、もうひとりの脚が見えた。真っ白な、スラックス。
そろりと顔をあげた辰巳の視線の先に、クリストファーの首筋に背後から何かを突き付けるフレデリックの姿があった。静かな声が、頭上から降ってくる。
「いったいキミは僕の船で何をしているんだい? クリス」
フレデリックの冷たい声に、クリストファーの爪先がゆっくりと下がる。辰巳も、掴んでいたクリストファーの脚を放した。
「ゆっくり、辰巳から離れるんだ」
「はいはい」
ホールドアップしたクリストファーが、フレデリックの指示通り辰巳から数歩離れる。小さく息を吐いた辰巳が躰を起こせば、クリストファーの首筋へとペーパーナイフを突き付けるフレデリックが見えた。
クリストファーが下がる間も、ペーパーナイフは首筋にあてられたままだった。だが刃先が皮膚に食い込んでいるにも関わらず、クリストファーに焦った様子はない。それが、辰巳には信じられない。
「フレッド…いい加減、俺の首に刺してるものを退けてくれないか」
「キミが、何をしに来たのか教えてくれるなら」
「お前の恋人を見にきた」
「僕の恋人だとわかっていて辰巳を足蹴にするとは、いい度胸じゃないかクリス。いくら相手がキミでも、許さないよ」
「あれは少し遊んでいただけだ」
遊びだというクリストファーの言葉に、フレデリックがクスリと笑う。笑いながら、フレデリックはまた少しだけペーパーナイフを皮膚の内側へと潜り込ませた。先端を食んだクリストファーの皮膚から、血液が盛り上がり滴り落ちる。
その時になってようやく、クリストファーは口許を僅かに引きつらせた。
「ならば是非、僕とも遊んでくれないか。キミが辰巳を挑発したんだろう? 同じようにキミも、僕の挑発に乗ってくれるかい?」
愉しそうに言いながら、フレデリックはじわじわと弄ぶようにペーパーナイフを食い込ませていく。さすがにクリストファーの口から慌てたような声が漏れる。
「ちょっと待てって…それ以上は…ッ」
さすがに冗談ではないと悟ったクリストファーは、フレデリックを良く知っていた。ついでにこの男が人を殺す事を何とも思っていないという事実も思い出す。
「ッ……」
クリストファーが息を詰めた時だった。ペーパーナイフを持つフレデリックの手を、辰巳が掴んだ。そのまま無造作にフレデリックの躰ごと引き寄せる。
驚くように僅かに目を見開いたフレデリックの碧い瞳を、辰巳が覗き込んだ。
「おいフレッド。てめぇ他の男の前で色気出してんじゃねぇよ」
まるで浮気は許さないとでも言うような辰巳の台詞に、フレデリックが笑い声を弾けさせた。
その様子に、クリストファーはようやく詰めていた息を吐く。塞ぐもののなくなった傷から流れ出る体液が、襟元を赤く染めていた。
「本当にキミは…最高だよ辰巳」
「ああ? たかが俺が遊んだぐれぇで人殺す気かお前は。勘弁しろよ、おちおち喧嘩も出来なくなっちまうだろぅが」
「辰巳は相変わらず優しいね」
フレデリックは微笑みながら辰巳に口付けた。
辰巳の腕の中で、フレデリックがクリストファーを見遣る。
「良かったねクリス、命拾い出来て。…もしキミが辰巳の意識を失わせてたら、僕は遠慮なくキミを殺せたのに。残念だな」
フレデリックの目には、明らかな怒りの色が浮かんでいた。どうやら地雷を踏んでしまったらしい事に気付く。クリストファーの背筋を、冷たいものが流れ落ちた。
まさかちょっとした遊び心で殺されかけるほど、フレデリックが辰巳という男を本気で愛しているとは思いもしなかったクリストファーである。二度と辰巳に手を出すまいと心に誓う。
「ところで辰巳。どうしてクリスを招き入れたんだい?」
「ジムで声掛けられてよ。お前と知り合いだっつぅし、まあいいかと思って」
「それで、挑発されてまんまと乗ったという訳かい?」
「殺気だの感じた訳じゃねぇし、組手みてぇなもんだろ」
さらりと言ってのける辰巳に、フレデリックが苦笑を漏らす。
辰巳はソファにどさりと腰を下ろした。シャワールームで襲われた事は、クリストファーの為に黙っていておいてやろうと思う辰巳だ。フレデリックは、独占欲が強い。辰巳の裸身を見たなどと言ったら、本気で殺しかねない気がする。ただの勘だが。
「つぅかよ、お前らいつまで突っ立ってんだ? 落ち着かねぇから座れよ」
「僕は先に着替えを済ませてくるよ。…クリス、二度目はないと覚えておくといい」
「はいはい。身に染みて」
着替えるといっても、メインルームとベッドルームの境がある訳でもない。クロゼットの前に立つフレデリックの姿は、辰巳にもクリストファーにも見えている。
惜しげもなく曝されるフレデリックの裸身は、今日も相変わらず美しかった。
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