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act.06 ”Confession of the starry sky”
頼まれた代理での仕事も終わり、ようやくまた辰巳とふたりきりの時間を過ごせると喜んでいたのもつかの間。フレデリックは目の前に座る腐れ縁の友人、クリストファーを睨んだ。
クリストファー(Christopher)略称はクリス、年齢は三十八歳。身長、百八十四センチ。体重、六十九キロ。国籍はフランス。
肩まである赤茶の髪は緩く弧を描き、グレーの瞳をしている。体術が得意な故に喧嘩っ早いし気も強い。一応、フレデリックの友人であり、同じくマフィアだ。普段はこの船のカジノでディーラーをしている。
この悪友は、顔を見せたその日から毎日のように辰巳とフレデリックの部屋に姿を現している。フレデリックにとっては邪魔以外の何者でもなかった。
クリストファーの首には包帯が巻かれていた。もちろん、フレデリックが刺したからだ。
命にかかわるような太い血管は傷付いていないものの、そこそこ深い傷になっているのはフレデリックが一番よく知っている。
だからといって謝る気もなければ、もちろん反省もする気もないのだが。いやむしろ、こんな事になるなら殺しておけば良かったと半ば真面目に思うフレデリックである。なんなら今すぐ海に投げ捨ててやってもいいとさえ思っている。とにかく邪魔で気に喰わない。
隣に座っている辰巳をちらりと横目でみれば、紅茶を飲みながら煙草を吸っている。クリストファーがフレデリックの友人で、マフィアだと知っても何も気にした様子はない。
それどころか辰巳とクリストファーは、時折り二人で手合わせなどを始めてしまうような仲になっていた。
辰巳は、躰を動かすのが嫌いではない。クリストファーと何やら話しながら行われているそれは、むしろトレーニングに近かった。
クリストファーは体術だけならフレデリックと互角に張り合う。スピードではクリストファーが上回るくらいだ。技自体の重さではもちろんフレデリックの方が上である。
今日も、今しがたまで戯れ合う二人をフレデリックは眺めていたのである。というよりも監視に近い。フレデリックは、打撃戦ならまだしも寝技は絶対に許せない。
辰巳とクリストファーが組手を始めた初日に、しっかり釘を刺したことは言うまでもなかった。
あと数日でこの船、『Queen of the Seas』はイギリスのサウサンプトンへと到着する。そこからフランスまでは飛行機で移動する予定だ。
フレデリックには、辰巳と一緒に行きたい場所がこの船にはまだたくさんある。それなのにクリストファーが来たおかげで辰巳との時間が減ったフレデリックの機嫌が、良い筈はなかった。
もう我慢の限界だと、フレデリックが唸るように声を絞り出す。
「駄目だ…。本当に邪魔過ぎる…。やっぱり我慢なんてするべきじゃなかった」
「あん?」
唐突に声をあげたフレデリックに、辰巳が顔をあげる。向かいで、クリストファーが笑いを噛み殺した。
フレデリックの限界点は、案外低い。辰巳に対しては別だが、クリストファーに対して遠慮などする必要はなかった。辰巳が相手をしているから放置していたものの、フレデリックの我慢は限界を超えたという訳だ。
「いいかいクリス。僕は辰巳とふたりきりの時間が過ごしたいんだ。いつまでもそんなところに居座られると邪魔で仕方がない。今すぐ出ていけ」
ぴしりとドアを指さして、フレデリックが言い放つ。その隣で辰巳が苦笑を漏らした。
クリストファーはフレデリックと辰巳の二人を交互に眺めると、揶揄うような口調で言った。
「フレッド、お前随分と丸くなったんじゃないか?」
口許を歪めて煽るクリストファーを、ティーカップを静かに口許へ運んだフレデリックがその縁から射抜く。
丸くなったなどと言われるのは、些か気に入らないフレデリックである。どうにも年を取ったと言われているような気がしてならない。正直な話、辰巳などよりフレデリックの方が余程喧嘩っ早いし沸点も低いのだ。その上、容赦がない。
付き合いの長いクリストファーは、それを知っていてわざわざフレデリックの機嫌を逆撫でしてくる。
仕返しにフレデリックはクリストファーの首元をちらりと見遣り、嘲るように小さく嗤った。
「死にぞこないが何を言っているんだい? 僕にそんな事を言う前に、キミは辰巳に感謝するんだね。それとも、自分の弱さにでも感謝するかい? キミが強ければ僕を止める人間はいなかったからね。そうなれば今頃のキミは、魚の餌になっているところだよ」
フレデリックは優雅に紅茶を飲みながら、何気ない口調でクリストファーを蔑んだ。
事実首にペーパーナイフを突き立てられた本人であるクリストファーは、言い返せる筈もなく渋い顔をするしかなかった。
ヤクザのように怒鳴ったりすぐに手を出したりはしないが、フレデリックが言っている内容はヤクザとあまり変わらない。その事実に辰巳が苦笑を漏らす。むしろフレデリックの場合は静かな分だけ妙な威圧感があった。
クリストファーが居なくなった後、見せたいものがあると言ってフレデリックは辰巳を部屋から誘い出した。クリストファーとの運動で腹が減ったという辰巳の希望に、フレデリックは時間を確認した。まだ、余裕はある。
辰巳とフレデリックは軽く食事を済ませ、二人並んで船内の通路を歩いていく。少し前を歩くフレデリックに、辰巳が問い掛けた。
「何だよ見せたいものって」
「来れば分かるよ」
フレデリックは、目的地に着くまで教える気はないようだった。まあいいか、と、辰巳は大人しくフレデリックの後をついて行く事にする。どうやら船の前方へと向かっているらしい。
通路を抜けて突き当りの扉をフレデリックが開くと、そこには夕日で金色に輝く大海原が広がっていた。
フレデリックがこの船で辰巳を連れてきたかった場所のひとつ。『Queen of the Seas』の船首デッキである。
この船の船首部分にはデッキが二つある。上下に分かれているうちの下の部分。一番前方にあたるこの場所は、限られた客しか入ることが出来ない。それも、日が落ちるまでの事だ。
辰巳とフレデリックは並んで壁に背を預け、海を眺める。天気が良く同じように夕日が目当ての客はいるが、そう多くはなかった。
「凄ぇな」
ぼそりと、辰巳が呟く。それ以外に言葉が出ない。
日が落ちて、客を船内へと案内するクルーは辰巳とフレデリックには何も言わず、二人を残して扉を閉めてしまう。代わりに、扉の前にはカゴがひとつ置かれていた。フレデリックが、クスリと笑う。
カゴに入った一枚の大きなブランケットは、クルーからフレデリックへの差し入れである。夜の海風は、少しだけ冷たい。
一枚のブランケットに包まるには二人の躰は些か大きすぎたが、そんな事は別に構わなかった。
フレデリックに言われるがまま、辰巳は壁に背を預けてデッキに座り込んだ。ここの壁は程好く傾斜がついていて寄り掛かるのに最適だとフレデリックが笑う。
辰巳が寄り掛かってみれば、確かに空も海も両方が見えた。まさに特等席である。
日が落ちた海はあっという間に暗くなって、夜空には無数の星が瞬き始めた。
「やっと、辰巳とふたりきりになれた」
「はぁん? 完全に職権乱用じゃねぇかよこれ」
呆れたように辰巳が言えば、フレデリックは悪びれもせずにこやかに笑う。
「僕の家族たちはみんな優しいからね。僕が我儘を言ったら、笑って許してくれたよ」
「甘やかされ過ぎだろお前」
カゴに入れられて置かれていたブランケットといい、どうやらフレデリックはクルーに愛されているらしい。フレデリックが家族というのも頷ける。
二人しかいないデッキに照明はないが、月の光だけでも十分に明るい。昼間の海ももちろん美しいが、空と海の境目が曖昧な夜の海も綺麗なものだった。
「はぁー…しかしまぁ、もうすぐイギリスか。ひと月半なんざあっという間だな」
「サウサンプトンに着く前にここに来られてよかった。邪魔は入るし、僕はどうしようかと思っていたよ。危うく帰りまで待たなきゃいけなくなるところだった」
万が一にもクリストファーのせいで辰巳とここに来られなかったら、フレデリックは確実に悪友を葬り去るだろう。
「クリスの事かよ?」
「他に誰がいるっていうんだい? 本当に迷惑極まりない男だ。もし大人しく帰らなかったら本気で海に放り投げてやろうと思っていたよ」
「ははっ、お前って案外過激だよな。ここんとこ、驚かされてばっかりだ」
辰巳の言葉に、フレデリックはぴたりと黙り込んだ。クリストファーへの怒りに気を取られて、フレデリックはすっかり忘れていた。辰巳にきちんと話しをしておかなければならない。
船がサウサンプトンに着いて、フランスへ渡ったら、フレデリックは今のフレデリックのままではいられない。辰巳が思っているであろう自分は、この船のキャプテンとしてのフレデリックだろうから。
星空を見上げる辰巳の横で、フレデリックはひとり苦悶の表情を浮かべた。どう言って話しを切り出していいのかが分からない。
嫌われてもいいと開き直ることが出来ない程に、フレデリックの中で辰巳の存在は大きくなってしまっていた。その事に、今になってようやく気付く。
フレデリックは、辰巳を信用している。何があっても辰巳は自分を裏切らないと、そう思っている。けれど、フレデリック自身が変わってしまったら、その時辰巳はどう思うのだろうか。それでも受け入れてくれるだろうか。
不安が拭えない。嫌われるのが怖いのだ。心が、痛いほどに。こんなにも弱い自分を、フレデリックは知らなかった。言いようもない不安に押し潰されそうになる。
俯いたまま顔をあげようとしないフレデリックに、それまで夜空を見上げていた辰巳が視線を移す。
「フレッド? どうしたよ、具合でも悪ぃのかお前?」
心配そうに問いかける辰巳の声が、今のフレデリックにはとてつもなく怖かった。この男を、自分は騙している。その嘘が剥がれ落ちた時、辰巳を失うかもしれないと思うだけで、どうしようもなく怖かった。嫌われたくない。
結局どう話していいのかも決められないまま、フレデリックはぽそりと小さく呟いた。
それは、フレデリックの本音。
「……僕はキミに嫌われたくない…」
「あぁん? どうした急にそんな事言って」
フレデリックは辰巳の肩に頭を寄り掛からせる。辰巳の目が見れなかった。怖くて。俯いたままのフレデリックがぽつぽつと言葉を零す。
「キミが…僕の本当の姿を知ったなら…キミは僕を嫌いになるかもしれない。そう思うと…僕は怖いんだ。きっと、辰巳が見ている僕は…本当の僕じゃない。僕は優しくもないし、綺麗でもないし、穏やかでもないんだよ…辰巳」
「また…何を謎かけみてぇな事言ってやがんだお前はよ」
「辰巳は僕の事を知りたいって、そう言ってくれたけれど…、僕はキミに…本当の姿を見せたくない…。見せるのが怖いんだ…。辰巳はとても優しいから…」
「ああ? そりゃあれか、俺がお前を止めたからか」
こくりと、フレデリックは小さく頷いた。その様は、まるで子供のようである。
辰巳はガシガシと頭を掻いて、それから肩に乗る金色の頭を撫でた。
「そりゃあお前、俺の事踏んだくらいで殺されたらクリスが可哀相だろうが」
「違うんだ辰巳…。キミと居る時の僕は、この船のキャプテンとしての僕なんだよ。向こうに着いたら…僕は…今のままではいられない…。キミの腕を、僕は振り解いてしまうかもしれない…」
「あー…なるほどな…。ったく…お前は本当に素直で可愛いよ、フレッド」
「辰巳?」
「ちゃんと言わなかった俺が悪ぃわ」
辰巳の武骨な指が、金糸の髪を弄ぶ。
「フレッド、二度と言わねぇからよく聞けよ。俺はな、お前がどんな人間でも構わねぇと思うくらいには、お前に惚れてるよ。お前がおっかねぇ人間だってのも知ってる。この船で制服着てる男前のお前も知ってる。どっちがどうじゃねぇだろ、全部寄越せって俺は言ったんだ。俺が惚れてんのはフレデリック、お前だからな」
「っ……それは…狡いよ……辰巳…」
「あぁん? 狡いもクソもねぇんだよ。こっちは死ぬほど恥ずかしいわ阿呆」
とんでもなく恥ずかしい事を言った自覚は、もちろんある。辰巳は熱くてどうしようもない顔を自らの手で隠した。その横で、フレデリックが肩を震わせている事に気付く。
「てめぇ笑ってんじゃ……」
辰巳の言葉が、不意に途切れる。いつものように首に腕を回したところで、辰巳は気付いてしまったのだ。フレデリックが、泣いているという事に。
「勘弁してくれよフレッド…」
「っ…辰巳が……悪い…っじゃないか…。そんな事…、こんな場所で……っ言われたら…僕は…」
「あー…もう、頼むからお前それ以上喋んな…恥ずかしくて海に飛び込みたくなる…」
辰巳がそう言えば、フレデリックの指先が服の裾を掴んだ。その弱々しさたるや普段のフレデリックからは想像もできない程で。故に破壊力が凄まじい。
「嫌だ…」
小さく呟くフレデリックの声に、辰巳が撃沈した事は言うまでもない。
どさりと、フレデリックの首を抱えたまま辰巳はデッキに転がった。腕の上に乗った金糸の髪に口付ける。
「ホントお前…どんだけ俺の心臓に負担掛けんだよ…」
「……ごめん…」
「ばぁか。謝るところじゃねえよ」
「じゃあ好き…」
「くくっ、そっちのがお前らしいな」
笑いながら見上げた夜空から、無数の星が見下ろしている。それが、辰巳には無性に恥ずかしい。年甲斐もなければ、ガラにもない事をしている自覚はある。けれど、腕の中にいるどうしようもなく愛おしい男が安心するなら、それでいいと、そう思う。だが。
「おいフレッド」
「ん…」
「お前ちょっと顔見せろ」
「……嫌だ…」
「じゃあ腕ずくで見てやるよ…ッ」
「ッ…やめ…!」
色気もなくバタバタとふたりで攻防戦を繰り広げ、辰巳の腕がフレデリックの躰を押さえ込む。
硬いデッキの上に縫い付けられて顔を背けるフレデリックを強引に上向かせれば、濡れた碧い瞳が辰巳を睨んだ。
「ッ……あとで、覚えておくがいい…」
悔しそうに低く唸るフレデリックが、壮絶に色っぽい。
「ふは…ぐしゃぐしゃでやんの、くくっ」
「二度と…っ、見せないからよく見ておくといいよ、辰巳」
「ははっ、本当に…お前には敵わねぇよ」
フレデリックの眦を濡らす雫を辰巳は舌先で掬い取ると、躰を押さえ込んでいた腕から力を抜いた。
「痛くねぇかよ?」
「……卑怯者…」
「そうじゃねぇと、俺はお前に敵わねぇからな。嫌いになったか?」
動かずにいるフレデリックを見下ろしたまま、にやりと辰巳が嗤う。
「本当に…キミは意地が悪いよ、辰巳。僕が…それくらいでキミを嫌いになれると思うかい?」
「まあ、そういうこった」
そう言って辰巳はフレデリックの隣に躰を横たえる。仰向けに寝転がって星空を見上げていれば、金色の頭が胸に乗っかってきた。その重みに辰巳は安心する。
いつからかそこにある事が当たり前になっていて、いつの間にかそこにないと不安を感じるようになった。寝起きの悪い辰巳が、飛び起きてしまう程に。
「辰巳…」
「あん?」
「Merci…」
「どういたしまして」
辰巳の大きな手が、胸に乗った金色の頭をぽんぽんと叩く。強いくせに臆病で、素直なのに不器用な恋人が、とても愛おしかった。
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