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act.07 ”Sweet explanation”

 大型客船『Queen of the Seas』は、イギリスはサウサンプトン港へと無事入港した。下船や荷物の手配、その他すべての手続きは、フレデリックが済ませている。  ロンドンで数日を過ごし、フランスへと飛んだ辰巳とフレデリックは、コート・ダジュール空港から西へ十キロほどの小高い丘に建つホテルへと無事チェックインしていた。  一見ワイナリーのようにも見えるそのホテルは、全ての部屋が独立しているコンドミニアム式のホテルである。  部屋に入った瞬間、辰巳は寝室へ直行すると寝台の上へとその身を投げ出した。俯せのまま不満に満ちた声をあげる。 「あー…マジでめんどくせぇ。これだから旅行とかしたくねぇんだよ…」 「疲れたかい?」 「疲れたっつぅか、めんどくせぇ」  ひたすら面倒臭いとのたまう辰巳に、フレデリックが苦笑を漏らす。  辰巳にとって、旅行時の移動などは体力的に何の問題もない。むしろスケジュール的にハードだったとしても問題はないのだ。だが、手続きやら何やらの手間が、辰巳は嫌いなのである。例えそれが自分の手を煩わせる事がなかったとしても、見ているだけで嫌になってくると辰巳は言う。 「本当に辰巳は旅行が嫌いなんだね…」  しみじみとフレデリックが呟くと、辰巳がごろりとひっくり返る。両腕を頭の下に差し込んでフレデリックを見た。ニッと口角を上げる。 「んでもよ、船旅は案外嫌いじゃなかったぜ?」 「辰巳…それは、一度荷解きしてしまえば後は乗ってるだけでいいからだろう?」 「おう」  あっさりと肯定する辰巳に、フレデリックは呆れたように小さく首を振る。そんな理由で船旅が好きだと言われてもフレデリックが喜ぶ訳がない。それを分かって言っているのだから質が悪い。  横浜で乗船する時も、辰巳は何もしていなかった。荷物の積み込みから荷解きまでのすべては、辰巳の家の若い衆が済ませたのだ。それでも辰巳は今と同じように面倒臭いと不満に満ちた声をあげたのである。  フレデリックは早く荷解きを済ませてしまおうと、元より部屋に運び込まれていた大きなトランクを移動し始めた。  無事フランスまで辿り着き、あとは顔合わせまでする事もない。観光地ではあるが、辰巳はあまり出歩くタイプでもないため、フレデリックはどうしようかと頭を悩ませていた。一応スパやフィットネス設備が充実しているホテルを選んではいるが、辰巳が飽きはしないかと心配である。  フレデリックは手際よく自分の荷解きを済ませてしまうと、辰巳の分に手を付け始めた。その姿はまさに、甲斐甲斐しく旦那の世話を焼く嫁のようだ。  辰巳とフレデリックの荷物のその殆んどは衣類で占められる。ラフなものよりも圧倒的にフォーマルな衣装が多いため、あまり長時間トランクに入れたままにしておく訳にもいかなかった。  辰巳もフレデリックも大柄なために、あっという間にクロゼットはいっぱいになる。  フランスへの渡航が決まった時、辰巳は若い衆をひとり連れて行くと言った。だが、フレデリックは自分がすべての面倒をみるといって断固として受け入れなかったのである。  もちろん理由は渡航費用などではなく、辰巳とふたりきりでいたかったからだ。他人が常に傍にいるなどフレデリックは御免である。例えそれが、何をしようと一切口を出さない辰巳の家の若い衆だったとしても。  そんなフレデリックの姿を辰巳は寝台の上から眺めるだけで、手伝うような気配は一切なかった。むしろ感心しているような顔つきで荷解きをするフレデリックを見る。 「お前は本当に何でも出来んだなぁ」 「これくらいは誰でも出来る事なんだけどね…やらないのは辰巳くらいのものだよ」 「しなくていい事までする気にはならねぇな」 「まあ、辰巳の場合はそれで問題がないからね」  喋りながらもせっせと手を動かすフレデリックは、そう時間をかけることなく荷解きを済ませてしまった。相変わらず寝台に転がったままの辰巳を振り返る。 「少し早いけれど、お酒でも飲みながら夕食にしないかい?」 「ああ、構わねぇよ」 「今日は天気もいいし、外で景色を見ながら食事をするのもいいね」  行こうか…と、そう促すように手を差し出すフレデリックに辰巳は苦笑した。何度辰巳が叩き落としても、こうしてフレデリックは手を差し出してくる。 「お前はどうしてそう、すぐに手を出してくんだよ」 「ああ…、癖…かな。嫌かい?」 「別に。外じゃねぇなら構わねぇ…よっ」  辰巳は言い終わると同時に躰を起こすと、差し出されたフレデリックの手へと腕を伸ばした。勢いよく重ねられた二人の手から、パシッと小気味よい音が鳴る。  色気の欠片もなく手を取った割に、辰巳は部屋を出るまで手を離すことはなかった。  時間のせいか人影はまばらだった。というより、このホテルは部屋数がそう多くないため、静かに過ごすことが出来ると評判が高い。  プールサイドに設けられたテラス席へと案内された辰巳とフレデリックは、丸いテーブルを囲むように置かれた四つの椅子を見てふと顔を見合わせる。どうやら、同じことを考えたらしい事に笑い合う。 「日本じゃないから、隣でも許されるかな?」 「お前は日本でも気にしねぇだろうが」 「広い場所は…落ち着かないんだ」  微笑みながら、まるで言い訳でもするかのようにフレデリックはそう言って、隣り合う席へと腰を下ろした。  遠くに、夕日に染まる地中海が見える。テーブルにはキャンドルが点り、プールの揺れる水面に反射した光が二人の姿を照らす。  普通の恋人同士であれば、女性が喜びそうなシチュエーション。  そんな場所に男二人で来たところで色気もへったくれもあるかと辰巳などは思っているが、フレデリックの方はといえば実は計算していたりする。  些か強面ではあるが辰巳の容貌は整っているし、躰のバランスも申し分がない。男には男の色気というものがあるという事を、フレデリックは熟知している。そして自分たちがそれを十分に兼ね備えているという事も、しっかり自覚していた。  辰巳はシャイだ。と、フレデリックは思っている。人前で触れ合う事を辰巳はあまり好まない。恋人になってからも、そういう関係を匂わせる距離や行動をすると呆れたような顔をする。  そのくせ男同士の触れ合いの範囲内であれば、辰巳は何も言わない。むしろ人目など気にしない。その境界線を、フレデリックが十一年かけて縮めてきたと知ったなら辰巳はどんな顔をするだろうか。  そんな事を思いながら、フレデリックは隣でワイングラスを片手に景色を眺める恋人の顔をうっとりと眺めた。 「日本が、恋しいかい?」 「あぁん? 別に、そういうのはねぇな。ただ、色々と違い過ぎてよ」  辰巳が、目の前に供されたアミューズブーシュを口へ運ぶ。こう、ゆっくりと話をしながら食べるには、フランス料理というものはちょうどいい。時間はたっぷりある。  料理もさることながら、街並みも空気も、すべてが日本とは違い過ぎて、随分と遠くに来てしまったものだと辰巳は思わずにはいられない。 「慣れねぇ」  ぼそりと呟く辰巳の言葉は、本音だ。辰巳はどこに居ても、相手が誰でも、きっと同じ事を言うだろう。  恋人が楽しみにしている旅行でも、面倒臭いとのたまう男だ。これほど正直な人間はいない。相手によっては、それで嫌われる事もあるというのは理解している。だが、辰巳はそれを隠さないのだ。  給仕が下がるタイミングを見計らって、今度は辰巳が問いかけた。 「お前は、懐かしいかよ?」 「そうだねぇ…、懐かしいというか、新しい…かな。新鮮って言うのかな?」 「はぁん?」 「僕は船の上にいる事が多いから、土地にあまり思い入れはないけれど、良く知ってる。そこに、辰巳がいるのがとても新鮮だよ」  目にも鮮やかなオードブルを前に、こうして一緒に食事できる事も嬉しいと言ってフレデリックは微笑んだ。  正直なところを言ってしまえば、辰巳もフレデリックも、お互いがいれば場所などどこでも構わない。食事に限らず、同じものを見て、同じ時間を過ごす。それがどれだけ貴重で愉しい事であるかを、この二人は知っている。 「辰巳は旅行が好きじゃないけれど、僕は僕の知っているものをキミにも見せたい」 「お前のそれは、俺の反応が見てぇだけだろうが」 「バレてた…かな?」 「まあ、悪くはねぇよ。お前が俺に見せる景色は、どれも嫌いじゃねぇ」  辰巳の台詞にフレデリックはとても嬉しそうに顔を綻ばせた。どれだけ面倒だなんだと不満を漏らそうとも、最終的に辰巳はこうしてフレデリックを喜ばせるのだ。それも、無意識に。 「やっぱり、キミは僕を夢中にさせるのが上手いね…辰巳」 「あぁん? またお前はそう訳が分かんねぇ事を急に言い出しやがる…」 「ふふっ、顔を真っ赤にしたいって言うなら、教えてあげるよ? 僕の子猫ちゃん♪」 「はぁ…本当にお前はどこに居ようとも変わらねぇなぁフレッドよ…。いい加減その子猫ちゃんってのやめぇねと、一度本気でぶん殴るぞお前」  揶揄いを含むフレデリックの台詞は、辰巳の機嫌を逆撫でするのに絶大な威力を発揮する。穏やかな空気はどこへやら、一瞬にして辰巳の眉間に深い皴が刻まれた。その手に持ったアントレをつつくフォークが凶器に見える。  だが、フレデリックはまるで気にした様子もなくクスクスと笑うと、その長い脚を真っ白なテーブルクロスの下で辰巳のそれに絡めた。  辰巳の口から、溜め息が漏れる。本当に、どうしてこうこの男は自分を振り回してくれるのか。抗議するように辰巳が爪先を軽く踏めば、フレデリックが愉しそうにクスリと笑う。 「クロスも脚も長いと楽しみが増えるね」 「阿呆か」  フレデリックはこうして時々、子供っぽい悪戯を仕掛けてくる。モデル顔負けの男前が無邪気に笑う様は魅力的すぎて、辰巳は怒る気も失せてしまうのだ。本当に質が悪いと、そう思う。  行儀悪く二人で脚を絡めながらポタージュを平らげ、ポワソンに手をつける。  テーブルの下で脚など絡めて行儀は悪いものの、テーブルの上でのマナーはとても良いふたりである。コース料理ではお決まりの、ずらりと並んだカトラリーを前にして狼狽えるような事もない。  それまで器用にナイフとフォークで皿の上の魚を切り分けていた辰巳が、不意に顔を顰める。白く柔らかな魚の身と一緒に、骨まで口に入れてしまったのだ。  白身魚の骨は固い。大丈夫かい? と、フレデリックが心配そうに問い掛けるその目の前で、だが辰巳はあっという間に骨を噛み砕いてしまった。口を閉じていても小さく音が聞こえてきて、フレデリックは思わず笑ってしまう。 「まさか噛み砕くとは…」 「魚は嫌いじゃねぇが、食うのが面倒だよな」 「まったくキミって人はどうしてそう何でも面倒臭がるのかな…。そういう事を言っていると、骨まで全部取ってあげたくなるよ?」 「勘弁しろよ…」  フレデリックが窘めるような事を言いながら揶揄えば、辰巳が心底嫌そうな顔をする。  いくら面倒嫌いの辰巳と言えど、骨を他人に取ってもらって魚を食べる気にはならない。  すっかり日が落ちて夕闇が辺りを包んでも、温暖な気候のおかげで外で食事をしていても寒くはない。ゆったりと食事をする二人が、その腕に嵌めた揃いの腕時計を見る事は一度もなかった。  口直しのグラニテを頬張りながら、ふと思い出したように辰巳が口を開く。甘くない氷菓は、口の中ですぐに溶けてなくなった。 「そういや顔合わせはどうなってる」 「こっちの予定はもう伝えてあるから、後は向こうの調整待ちかな」 「また移動か…」  うんざりした様子で呟く辰巳に、フレデリックが小さく首を振ってみせた。その仕草に、辰巳の眉が僅かに上がる。  大がかりな移動を嫌う辰巳の事を考えて、フレデリックは顔合わせの場所にこのホテルを指定していた。それを言えば、辰巳は嬉しそうに表情を緩ませる。  東京のように土地勘のある場所での移動であれば、辰巳は苦痛ではない。だが、まったく土地勘のない場所を移動しなくてはならないのは、所要時間も分からずどうにも落ち着かないのだと辰巳は言った。  ホテルはもちろん、顔合わせについても元より辰巳に合わせて手配しているとフレデリックが微笑む。いくら上層部からの呼び出しとはいえ、辰巳はゲストである。  テーブルのすぐ横で仕上げられたヴィアンドと共に別皿で添えられたフレッシュサラダをつつきながら、辰巳が感心したように言う。 「お前は本当にそういう所によく気が回るよな」 「辰巳ほどの面倒臭がりはいないからね。ある意味わかりやすくて助かるよ」  にこにこと笑いながら嫌味を言うフレデリックの脚をテーブルクロスの下で辰巳が踏みつければ、仕返しに軽く蹴られた。  せっかくのメイン料理が冷めてしまうのも残念だからと、その後二人は少しだけ食事に集中する事にした。こういった食事のオーダーすらも、辰巳はフレデリックに任せきりである。  もちろん言葉の問題もあるのだが、辰巳は総じて雑事というものを嫌う。極道の家に生まれるべくして生まれたような性格をしている。それはむしろ、一般家庭に生まれたらなどという想像すら出来ないレベルだ。  そんな辰巳は跡取りな訳だが、父親の匡成は息子が男を連れ合いに選んでも何も言っては来ない。まあ、別に必ず子が継がなければならない訳でもないし、今はどちらかと言えば世襲など古臭い部類だろう。  切り分けた肉を口の中に放り込みながら、辰巳はさてどうしたものかと考える。  辰巳は極道以外の他の職に就けるとは自分自身到底思えないので家業を継ぐだろうが、その後の事を考えなければならなかった。フレデリックと別れて嫁を取る気は、辰巳にはさらさらない。というより、いくら極道に嫁ぐような女がいたとしても、辰巳のような男は愛想をつかされるのがオチだと思っている。辰巳は、自分の事をよく理解しているのだ。  フレデリック以上に辰巳の性格を理解して、なおかつ世話を焼く事を厭わない人間などいない。辰巳を、愛してくれるのも。  目の前の皿から視線をあげて隣を見れば、フレデリックもまた同じように辰巳を見た。本当に、こういうところからして気が合ってしまうのだ。これで他に相手を考えろというのが無理な話だと辰巳は思う。 「僕の事を考えてるね?」 「ああ」  短く肯定して、辰巳は再び肉を口へと放り込む。それ以上話す気はないというサイン。  フレデリックはクスリと笑っただけで、それ以上の追及をしてこなかった。食事の邪魔をするなどという無粋な真似は、しないのである。  マナーに煩いコース料理などは嫌いな辰巳だが、こうしてフレデリックと食べるのは気を遣わなくていい。これ以上に良好な関係などないのだ。だが、先の事を考えるとなると悩む辰巳である。  そもそも辰巳は色々と先を読んで行動するタイプではない。フレデリックが言うように、行き当たりばったりなのだ。  ふぅ…と、辰巳は小さく息を吐いた。いつの間にか目の前の皿から肉が消えている。せっかくの美味い料理を味わいそびれ、少しだけもったいない事をしたと思いつつカトラリーを揃えて皿の上に置いた。  同じようなタイミングで食べ終わったらしいフレデリックもまた、隣でカトラリーを置きながら口を開く。 「何を、考えてたんだい?」 「先の事だよ」 「僕との事かな?」  テーブルに片肘をついた手の上に顎を乗せたフレデリックが辰巳を見る。その目には、ありありと興味が浮かんでいるから手に負えなかった。  辰巳が嫌そうに顔を顰めても、こういう時のフレデリックはどこ吹く風である。さあ話せとばかりに見つめられて、辰巳は溜め息を吐いた。  プラッターサービスで供されるフロマージュのオーダーをさっさと済ませてしまったフレデリックが、給仕が下がった後で再び同じ姿勢に戻る。  隣に座るのが女性であったなら、まさに今から口説きますとでも言うような姿勢。フレデリックがこういう事をすると、妙に様になるから辰巳としても困ってしまう。  フレデリックの白い肌に、プールの水面に反射する光が揺れる。ともすれば人形のようにも見える整った顔にじっと見つめられるというのは、未だに慣れない辰巳だ。というより、色気があり過ぎるのだ。この男は。  行儀悪くそのままの姿勢で摘み上げたチーズを口に放り込んだフレデリックが、視線で急かす。 「お前はどうしてそう妙なところで好奇心が強いんだよ」 「僕と辰巳の事なのに、知りたいと思わない筈がないだろう?」 「あのなぁ、別にお前との事をどうこう考えてた訳じゃねぇよ」  辰巳の言葉に、フレデリックが首を傾げる。辰巳はガシガシと頭を掻いて言った。 「家の事とか、そんなんだよ。つぅか考えたところで結局、先の事なんざ分かんねぇしな」 「家業の事かな?」 「ああ」  父親である匡成は辰巳に家を継がせる気でいるし、辰巳もそれに異論はない。むしろそれ以外に考えられない訳だが、その後である。そのことをフレデリックに言えば、少し考え込むような素振りを見せた後でにこりと微笑んだ。 「匡成にもう一人子供を作ってもらえばいいんじゃないかな?」  フレデリックの台詞に、辰巳が絶句する。 「…辰巳?」 「何を馬鹿な事言いやがんだてめぇはよ…」 「だって匡成は男だし、相手が若ければ何の問題もないじゃないか」  悪びれもせず言い放つフレデリックが、辰巳には信じがたい。しかもその表情は、冗談ではないという事を物語っていた。辰巳は額に手を遣って項垂れるしかない。  どうしてこう、突拍子もない事を考えつくのかと、呆れを通り越して感心してしまう辰巳である。 「お前よぉ、親父いくつだと思ってんだ? いくら若く見えようが五十五だぞ?」 「十分若いじゃないか。普通僕たちの年代の親なんてもっと上だよ」 「そうかもしれねぇがな、ガキ作るってそんな簡単な話じゃねぇだろうが。そもそも誰が育てんだよ阿呆」 「匡成の周りならいそうだけどなぁ…」  給仕がテーブルを綺麗に片付ける合間、二人は思わず黙り込んだ。デセール用のカトラリーが綺麗に並べられてゆくのを、辰巳はぼんやりと眺めた。  辰巳の父親である辰巳匡成は、本宅とは別のマンションで暮らしている。その理由は、本宅が日本家屋だからである。日本家屋には、プライバシーなどというものは存在しない。  端的に言ってしまえば女を連れ込むのに都合がよろしくないというのが理由だ。  確かに匡成の周囲には絶えず女の影がつき纏う。それを辰巳の前でも隠そうともしないし、辰巳も気にしてはいないが、果たしてフレデリックが言うような相手がいるものだろうか。  現実的な話、匡成がもう一人子供をもうける事は可能ではある。フレデリックの言う通り、出産するのは女の方なのだから、相手が相応の年齢であれば可能だろう。  だが、当たり前だが子供は育てなければならないのである。まして極道の跡取りを育てようなどという物好きがいるだろうかと、辰巳は自分を棚に上げて思ってしまう。  というより、辰巳には結婚や家庭を持つという選択肢が先ずなかった。それなのに、今まで何も考えてこなかったのである。今更過ぎて辰巳自身呆れてしまう話だが、それはもう仕方がない。  フレデリックの前にだけアヴァン・デセールの皿を置いて、給仕が下がる。辰巳は、甘いものが得意ではない。皿に乗った可愛らしいケーキにフォークを刺すフレデリックを横目に見て、辰巳はワインを口に運びながら大きな溜め息を吐く。 「まったく考えてなかったって顔だね…」 「うるせぇよ」 「まあでも…辰巳は別としても、血縁じゃなくても家業は継げるんだろう?」 「まぁな」  だったら何も問題はないじゃないかと、そう言ってフレデリックは美味しそうに小さなケーキを食べる。その顔は、とても幸せそうだ。  そんなフレデリックを見遣る辰巳の視線が険しいのは、もちろん甘いものが嫌いなせいではない。フレデリックが美味そうに食べているものを批判する程、辰巳は無粋ではなかった。  フレデリックの事である、辰巳の悩みを他人事だとは思っていないだろう。だが、匡成にもう一人子供を作らせるなど突拍子がないにも程がある提案を、辰巳はすんなりと受け入れることが出来ない。  そもそも匡成にそれを言ったなら、どういう反応をするのか。考えただけでも辰巳は気が滅入る。  匡成は、辰巳とフレデリックの仲を知っても咎めはしなかった。代わりに、実の息子に『お前はネコなのか?』と聞いてきたのである。  そんな男にもうひとり跡継ぎを生んでくれなど言った日には、それこそ何を言われるかわかったものではない。だが確かに、代わりに平然ともうひとり子供を作ってしまいそうでは…ある。  フレデリックがアヴァン・デセールを平らげてしまうと、給仕がテーブルのすぐ横でクレープシュゼットを仕上げていく。その様子を眺めるフレデリックは、実に嬉しそうである。  クレープシュゼットは、甘いものが好きなフレデリックの大好物だった。  テーブルに漂う甘い香りとは裏腹に、辰巳の心は重苦しい。今の今まで何も考えていなかった自分に呆れ果てる。  辰巳とフレデリックの前に皿を置いて給仕が下がると、フレデリックはさっそく楽しそうにクレープを切り分けながら食べ始めた。 「うん。とても美味しい」 「そりゃ、よかったな」 「辰巳は食べないのかい? シュゼットは温かいうちに食べた方が美味しいよ?」 「ああ」  気乗りしない様子でカトラリーを持ち上げる恋人の姿に、フレデリックは困ったように微笑んだ。 「そんなに考えなくても、なるようになるよ。辰巳はそれでいいじゃないか」 「そうだな」  フレデリックの言う通り、なるようにしかならない事は辰巳も分かっている。ただ、さすがに四十近くなるまで一度もそんな事を考えた事がなかったという事実に、辰巳は打ちのめされているだけである。  小さく切ったクレープ生地を口に入れれば、ふわりと甘味が広がる。それでも辰巳の苦々しい表情が消える事はなかった。その様子に、先に食べ終えてしまったフレデリックがぽつりと呟く。 「跡取り…かぁ…」  フレデリックの口の中で呟かれた小さな言葉は、辰巳の耳には届かなかった。  食事も終わり、食後のカフェを飲んだ辰巳とフレデリックは部屋へと戻っていた。カウンターに並んで腰かけ、酒を愉しむ。  グラスを弄び、中で揺れるワインを眺めていたフレデリックが不意に口を開いた。 「キミが、作ってもいいんだよ…?」  ぽつりと、フレデリックが呟く。 「ああ?」 「僕は、正直そういうものに興味がない。確かにキミを愛してはいるけれど、キミに必要な事であれば…僕は受け入れられる」 「何言ってんだお前」  何の話をしているのだと怪訝そうな顔をする辰巳の横で、フレデリックはグラスの中の赤い液体を見つめたまま無感情に言った。 「跡継ぎが欲しいのなら女を抱けばいいと、そう言ってるんだよ。キミは男だろう?」  フレデリックの纏う空気が一瞬にして変化したのを、辰巳は感じていた。だが、その感情が読めない。フレデリックが何を思っているのか、辰巳はまったく分からなくなる。  僅かに顔を顰めた辰巳の隣で、フレデリックは躰ごと横を向いた。カウンターに肘をついて辰巳を正面に見る。その表情は能面のようで、感情が一切ない。  高く組んだ足を一度だけゆらりと遊ばせた後で、フレデリックは口を開いた。 「言っておくけれど、僕はキミを手放す気はないよ。でも、キミが僕と誰かを同時に愛せないのも僕は知ってる。だから、キミの子供が生まれるまで、我慢してあげる。もしキミが戻ってこなかったら…その時は、相手の女性を殺してでも僕はキミを取り戻すだろうけど」  無表情に告げるフレデリックに、辰巳も同じように躰を横に向けた。同じようにカウンターに肘をついて向かい合う。触れる距離にあるフレデリックの長い脚を、辰巳は無遠慮に蹴り上げた。  フレデリックの組んでいた足が外れるのを気にする事もなく、辰巳は自分の膝の上にもう片方のくるぶしを乗せるようにして足を組んだ。  フレデリックが”キミ”と言って名を呼ばない時は、たいてい嫉妬しているか怒っているかのどちらかだ。それを辰巳は知っている。だからこそ、辰巳は腹が立つ。 「話にならねぇな。冗談にしても質が悪過ぎる。てめぇに嫉妬されんのなんざ御免なんだよ。まして相手の女に矛先向けるなんぞお前らしくねぇだろう」  不機嫌そうに吐き捨てる辰巳に、フレデリックがフッと嗤う。 「僕は元々こういう人間だよ、辰巳。キミを失わずに済むなら何でもするさ」 「だからてめぇは馬鹿だって言ってんだよフレッド。俺がお前と女を同時に愛せねえ? ハッ、笑わせんなよ阿呆。んなもんなくても女なんざいくらでも抱けんだろぅが。ガキが出来る出来ねえの話をしてんじゃねぇんだよ」 「ッ……」  辰巳の言葉に、フレデリックの肩がぴくりと揺れた。静かに怒気をはらむ辰巳の言葉に息を詰める。  地雷を踏んだ。と、フレデリックがそう気付いたところで遅かった。謝ろうと思うその声が、喉の奥で引き攣れて声にならない。  カウンターに肘をついたまま、辰巳がフレデリックに手を伸ばす。形の良い顎を指先で捉えて囁いた。 「お前との事を考えてる訳じゃねえって、俺はそう言った筈だなフレッド。妙な気の回し方してんじゃねぇよ。それとも、本気で俺を怒らせてぇのか?」  普段の辰巳のように顔を顰める訳でも、声を荒げる訳でもない。それが、辰巳が本気で怒っているという事実をフレデリックに告げていた。  黙り込むフレデリックの頤を捉えていた武骨な指先のその節で、辰巳が頬を撫で上げる。 「なあフレッド、答えろよ。能面みてぇなツラしたお前は、何考えてっか俺にはわかんねぇからな」 「……ごめん…」 「それでいい」  そう言って辰巳は立ち上がると、フレデリックに目もくれず部屋を横切った。 「風呂。背中流せや」  部屋を出る間際に短くそう言って、辰巳の背中が廊下に消える。カウンターにひとり取り残されたフレデリックは、小さく息を吐いて立ち上がった。取り返しのつかない地雷を踏んだのではないかと、今更ながらに怖くなる。  フレデリックが脱衣所に入ると、既に辰巳の姿はなかった。洗面台の上に脱ぎ捨てられたスーツの皴を軽く伸ばして、それ以上皴にならないように置き直してからフレデリックは自身の服を脱いだ。  浴室のドアを開けて入れば、湯気で翳んだ視界の中に辰巳の美しく引き締まった背中が見える。フレデリックはその躰を背中から抱き締めて呟いた。 「……好きだ…」  ただ頭から湯を被っていただけの辰巳が、ちらりと視線を投げる。肩に顔を埋めた震える金色の頭を見遣り、呆れた顔をした。本当に、この男は自分の事をよく、理解している。  辰巳が何度も同じ事で謝られるのを嫌う事を、フレデリックは分かっているのだ。代わりに、好きなどと言ってくるフレデリックが可愛くて仕方がない。しかも、震える程に怖いくせに。  辰巳が身動ぎすれば、フレデリックの腕はあっさりと離れた。俯いたまま腕を垂らすフレデリックの髪を掴んで顔をあげさせる。そこに表情がある事を確認して、辰巳はごつりと額を合わせた。  碧い瞳を間近に覗き込んだまま、低く嗤う。 「泣きそうなツラしてんじゃねぇよばぁか。二度と、泣かねぇんじゃなかったのかよ?」 「……泣いてない…」 「はぁん? 泣かしてやろうか?」 「ッ……意地が…悪い…よ、辰巳…。キミは…謝らせてもくれないのに…」  辰巳の黒い瞳が、愉しそうに揺れる。 「謝りてぇのかよ?」 「強がりを言ってごめんなさい。僕は…辰巳を誰にも渡したくない」 「ああそうだな、んな事ぁ知ってんだよタコ。二度と言うんじゃねえ」  こくりと、小さく頷くフレデリックの髪を放して辰巳は湯船の縁に腰を下ろした。  しっかりと泡立てたスポンジを辰巳の躰に這わせながら、フレデリックは内心で安堵の溜め息を漏らす。本当に、何を馬鹿な事を自分は言ったのかと今更ながらに思う。  数ヵ月どころか一日だって、辰巳を離したくない。我慢など、出来る筈がない。受け入れられる訳がない。強がりにも程があると、フレデリックは自嘲した。しかも辰巳を怒らせた。  当然だ。と、そう思う。最初から、辰巳はフレデリックとの関係とは別のところで今後の事を考えていると、そう言っていたのだ。子供を作れなどと言うのは論外だった。  辰巳の躰を覆った泡をシャワーで洗い流しながら、フレデリックはその手を取る。何事かと目を眇める辰巳の目の前で、手の甲に口付けを落としてフレデリックは微笑んだ。 「愛してる。辰巳」 「ったく、いちいちやる事が気障なんだよお前は…」  呆れたように言って辰巳がガシガシと掻くその頭をシャワーで濡らし、フレデリックは丁寧に黒く艶やかな髪を洗った。この髪のただ一本さえも、誰にも渡したくない。 「辰巳が男前すぎて惚れ直したんだから仕方がないでしょ。僕のせいじゃない」 「相変わらず自己中な野郎だな」 「そんな男に捕まったキミが悪いよ」  髪についた泡を洗い流して、目を瞑った辰巳の唇を奪う。 「はぁん? 俺を捕まえておきてぇなら、そんなんじゃ足りねえよ」 「なら、ベッドの上で一晩中愛を囁く…なんてのはどうかな」 「お前が来るまでに俺が寝てなかったら、相手してやるよ」  そう言って辰巳は、フレデリックを残してさっさと浴室を出てしまう。綺麗に置き直された洗面台のスーツを見遣ってふん…と、目を眇める。おざなりに躰をタオルで拭って、そのまま寝室へと足を向けた。  辰巳は煙草に火を点けてキングサイズの大きな寝台に寝転がる。深々と吸い込んだ煙を天井に向って勢いよく吐き出した。  フレデリックは、辰巳が煙草を吸い終わる直前に姿を見せた。辰巳の手の中にある短くなった煙草を取り上げると、そのまま灰皿に押し付ける。  その様子に、辰巳はふっと小さく嗤った。わざわざ煙草を消すために起き上がらずに済むのは有り難い。両腕を頭の下に差し込んで、揶揄うように辰巳は言った。 「随分早いじゃねぇかよ」 「寝かせない…」  風呂上がりの二人はどちらも素肌を曝したままで、服を脱ぐ手間もない。フレデリックはそのまま膝で寝台にあがると辰巳の上に乗り上げて胸に頭を乗せた。  肌の感触を愉しむように額を押し付けながらすぅ…と息を吸う。嗅ぎ慣れた恋人の匂いは、フレデリックに安らぎを与えてくれる。 「辰巳…愛してる…」 「っお前、マジで一晩中そうやって言ってるつもりか?」 「一晩じゃ足りないね」  フレデリックは挑むような視線で胸の上から恋人の顔を見上げた。そこには、困ったような呆れたような面持ちで恋人を見下ろす辰巳の顔がある。 「辰巳が…恥ずかしくてもうやめろって言っても、やめてあげないよ?」 「そりゃ、拷問だな」 「拷問? 違うよ。今日は…辰巳を溶かして、甘やかして、気持ち良くさせてあげる」  艶やかに微笑んだフレデリックが、辰巳の胸元に舌を這わせた。小さな突起の周りを焦らすように舌先で辿れば、辰巳が僅かに眉根を寄せる。 「好きだ…辰巳…」 「ッ…本気かよ…」 「もちろん。僕がどれ程辰巳を愛しているのか、キミも知ればいい…」  甘く、低く囁いて、フレデリックが辰巳の胸の突起を口に含む。舌先の刺激にすぐさま反応する敏感な飾りを丁寧に愛撫して、フレデリックは長い指先で恋人の肌を撫で上げた。  膝裏を擽るようにしていた手を、敏感な内腿へと滑らせる。しっかりとした腰骨を辿って、普通にしていても綺麗に割れた腹筋を撫でる。そこから胸を指先で軽く弄んで首筋まで。フレデリックは恋人の躰を確かめるようにその全身に手を這わせた。 「綺麗だ…」  ぽつりと漏れるフレデリックの言葉に、辰巳の顔に熱が集中する。フレデリックが何を思っていようが構いはしない。むしろある程度の予想はついている辰巳だが、こうして口に出されるというのは恥ずかしい。  頭の下に差し込んでいた腕を、辰巳は思わず額に乗せた。 「馬鹿野郎…」 「もっと…罵ってくれていいよ。キミがどれだけ罵っても、今日はやめてあげないから」  クスクスと笑いながら、フレデリックが首筋へと唇を移す。時折り甘噛みするように歯を立てて、辰巳の躰をきつく抱き締める。 「誰にも…渡したくない。僕の…辰巳…」  フレデリックが囁きながら辰巳の唇を奪う。  この晩フレデリックは、宣言通りひたすらに愛を囁きながら、辰巳をその身に受け入れた。  甘い言葉を囁かれ、その躰にくまなく快感を与えられて、辰巳はぐずぐずに溶かされたのである。   ◇   ◆   ◇  翌朝。辰巳はフレデリックの腕の中で目を覚ました。 「ッ…!?」  いつもと違う状態で目を覚ました辰巳は思わず息を詰める。  それはそうだろう。辰巳の顔のすぐ横に、フレデリックのしっかりとした胸板がある。  辰巳は、フレデリックに抱き締められたままだった。こんなことは初めてだ。  腕に乗せた辰巳の頭に口付けるようにして眠っているフレデリックの顔がとても幸せそうである事を、硬直して顔をあげる事が出来ない辰巳は知らない。  そして、フレデリックが目を覚ましたという事も。  予想外の態勢に身動ぐ事さえ出来ないでいる辰巳を、フレデリックが静かに開けたその目で見つめる。僅かに胸に触れている辰巳の顔が熱い事に、フレデリックはしっかりと気付いていた。  フレデリックは、思わず抱き締めたくなる衝動を無理矢理押さえ込んだ。まだ、もう少しだけ辰巳を腕に抱いていたい。  ―――ああ、なんて可愛いんだろう…。  そんな事を思いつつ、寝惚けたふりをして少しだけフレデリックが動けば、辰巳がピクリと小さく肩を跳ねさせるのがわかった。普段は何でも言いたい事を言うくせに、こういう時の辰巳は途端に口数が少なくなる。  変なところで羞恥心を発揮する辰巳が、フレデリックは可愛くて仕方がない。それなのに、我慢など出来る筈などなかったのである。  結局、フレデリックは辰巳の躰を強く抱き締めて囁いた。 「辰巳…愛してる…」 「ッ…お前…」 「もう少し…ずっと…こうして辰巳を抱き締めていたい…」  辰巳の躰に回した腕に、フレデリックは力を込める。どれだけ力を入れても、全然足りない。どれ程愛を囁いてみても、気持ちが溢れてとめどない。 「辰巳が居なくなったら僕は…窒息してしまうかもしれない…」 「その前に俺が窒息するわ阿呆。さっさと腕放しやがれ」 「……嫌だ…」  子供のように言ってフレデリックはもっと辰巳の躰を引き寄せる。ぴったりと胸についた辰巳の顔が熱くて、とても気持ちが良い。まるでそこから侵食されているような気分になる。 「このまま…溶けてしまえばいいのに…」 「寝惚けた事ぬかしてんじゃねぇよ…ったく、どうしてそうお前は恥ずかしげもなくそういう事を言いやがる」 「どれだけ言っても…足りないよ辰巳…。キミが好きすぎてどうにかなりそうだ…」 「勘弁しろよフレッド…」  フレデリックの腕で強く抱かれ、身動きが取れない辰巳が弱々しく呟く。本当に、こういう時に力で敵わない事が、辰巳には悔しくて仕方がない。押さえ込めないまでも、せめて腕の中から抜け出すことが出来たなら…と、そう思う。  気持ちを向けられるのは苦痛ではない。むしろ辰巳もフレデリックの事が好きだ。だが、こうして腕に抱かれて愛を囁かれるのは、どうしても恥ずかしい辰巳である。 「辰巳…大好き…」 「わかったから…落ち着けよお前…」 「離したくない…」  どうにもとどまる事を知らないフレデリックに、さすがの辰巳も参ってしまう。独占欲もここまでくると手に負えない。だが、そのまま放置しておく訳にもいかなかった。  辰巳が鋭い舌打ちを響かせる。 「いい加減にしろフレッド。放さねぇなら二度と抱かせねぇぞてめぇ」  ピクリとフレデリックの動きが止まる。ゆっくりと、その腕から力が抜けていった。  ようやく解放された辰巳がフレデリックの碧い瞳を間近に見る。そしてニッと唇を歪めると、辰巳は勢いよく頭突きした。 「いッ―――…!!」 「ざけんな阿呆。俺は煙草が吸いてぇんだよ。邪魔すんじゃねぇ」  吐き捨てて立ち上がる辰巳の後ろで、フレデリックが額を押さえて寝台の上で身悶える。  寝室を出る直前で立ち止まり、辰巳が振り返った。変わらず寝台の上に蹲るフレデリックに短く告げる。 「飯。それとコーヒー淹れろ」 「……うぅ…」 「あぁん?」 「はい……」 「それでいい」  辰巳の背中が、廊下に消える。未だ痛む額をさすりながらフレデリックはゆらりと立ち上がった。大股で部屋を横切ってリビングルームへと向かう。  フレデリックが部屋に入ると、大きなソファに身を預けて辰巳が旨そうに煙草を吹かしていた。ソファに歩み寄り、辰巳の手から煙草を取り上げて口に咥える。胸いっぱいに苦い煙を吸い込んで、コーヒーを淹れるためにカウンターへと向かった。  後ろで辰巳の舌打ちと、新しい煙草に火を点ける音がした。 「石頭…」 「ああ?」 「あんな勢いで頭突きしておいて、どうしてキミはそう平然としていられるんだい?」  下手をしたら脳震盪でも起こしそうな勢いで頭突きをしておいて、平気でいられる辰巳が信じられないフレデリックである。  コーヒーメーカーをセットするフレデリックの耳に、辰巳の不機嫌そうな声が聞こえてきた。 「はぁん? 痛ぇに決まってんだろうが阿呆か」  辰巳の言葉に、フレデリックは思わず吹き出した。 「ッ…それって…やせ我慢…?」 「おう。使えねぇ嫁を正気に戻すためならこれくらいは我慢してやんよ」  さらっと言い放って再び旨そうに煙草を吸う辰巳に、フレデリックの口からポロリと煙草が落ちる。布の一枚も纏っていない胸板を火種が掠め、煙草が床に転がった。  フレデリックは慌てて煙草を拾い上げると、そのまま手の中で握り潰す。熱い。だが、それよりも何よりも顔が…熱い。  今、辰巳は何と言ったのか。聞き間違いでなければ”嫁”と言った気がしているのだが、どうしても確信が持てないでいるフレデリックである。 「っ…もう一回…」 「あぁん?」 「もう一回言って」  コーヒーをセットし終えたら朝食を頼もうと思っていたフレデリックだったが、それどころではない。再びソファに座る辰巳の元へ戻ると、恋人を背凭れに囲うように手をついた。  辰巳が呆れたような顔でフレデリックを見上げる。フレデリックは、見下ろすように辰巳の黒い瞳を覗き込む。すぐ間近に辰巳の咥える煙草があったが、そんな事はどうでもよかった。 「もう一回。辰巳」 「嫁」  面白そうに口角の上がった辰巳の口が動いて、煙草が揺れる。その言葉に、フレデリックはその口から煙草を抜き取って握り潰した。  火の点いた煙草を握り込むフレデリックに、辰巳が慌てる。 「っお前、たば…っんぅ」  言葉尻を、フレデリックの唇が攫った。煙草の味がするキス。だが、それは長くは続かなかった。辰巳の手が、金糸の髪を掴んで引き剥がす。 「ぅ…ん…っ、っぁ…っの、馬鹿が」 「っう…痛いよ、辰巳。乱暴だなぁ…」  後ろから容赦なく髪を引っ張られて、床に膝をついたフレデリックが情けない声をあげる。だが、そんな事は辰巳には関係なかった。  不自然な体勢で仰け反ったフレデリックを睨む。 「俺は飯って言わなかったかよ?」 「言った…」 「じゃあなんでお前はこんな所で俺にキスしてんだ、あぁん?」 「辰巳が僕を嫁って言うから舞い上がってるんじゃないか」  髪をきつく引っ張られている事など苦でもないのか、フレデリックが平然と言い放つ。 「使えねぇ嫁は要らねぇんだよこのタコ」 「辰巳こそこれってドメスティックバイオレンス…」 「ああ? お前みてぇに何されても喜ぶ変態にDVもクソもあっかよ」 「うーん…残念だけど言い返せない…」  フレデリックが、困ったように喉を震わせた。それに、フレデリックの場合は嫌なら自力でどうにか出来てしまう。 「腹が減ってんだよ俺は」 「わかったよ辰巳。これ以上そんな事されたら、襲いたくなるから放してくれないかい?」 「マジでお前変態だな…」  心底嫌そうな顔をして、辰巳は金色の髪を掴んでいる指を解いた。ありがとう。と、そう言いながら軽く首を回してフレデリックは立ち上がる。  フレデリックは朗らかに笑いながらドアの近くにある電話へと手を伸ばした。少しだけ乱暴で、愛おしい旦那様の要望に応えるために。

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