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act.13 ”epilogue”

 イギリスはサウサンプトン港。大型客船『Queen of the Seas』は変わらぬ美しさをその身に纏って存在を誇示していた。  今回のクルーズは、船を所有している会社の創設記念に合わせて特別なスケジュールでの航海となる。普段は入港しない寄港地を回り、日程も長い。  当初横浜で下船する予定だったクルーズは、辰巳の申し出により本当に世界一周の船旅に変更された。ここ、サウサンプトンから出航して、またこの地へと戻ってくる。日本へは、その後空路での帰国の予定だった。  旅行嫌いな辰巳からの、フレデリックへのプレゼント。旅費を負担してやると言うアドルフの申し出を、辰巳は断っていた。  だからと言って、辰巳の機嫌が良いかといえばそんな事はもちろんない。手続きももちろんフレデリックにすべてを任せている。それでも、フレデリックの喜びようは筆舌に尽くしがたい。  これから世界屈指の豪華客船で船旅に出ようと期待に胸を膨らませた乗客たちが賑わう中、辰巳だけが険しい顔つきで煙草を吸っている。その頬には未だ癒えきっていない傷が強面に拍車をかけているのだから手に負えない。  もちろん、険しい表情の理由は”面倒臭い”というその一言に尽きた。  客室に入ってしまえばまだしも、まだフレデリックが乗船の手続きを進めている最中である。  そうでなくともフランスからの出国時に多少のトラブルに見舞われ、イギリスでの滞在期間が短縮されてしまった。日程に余裕はあるものの、旅先で予定が狂う事ほど辰巳をイラつかせるものはない。  不機嫌さを隠そうともせず辰巳が煙草を吸っていると、唐突に背後から声を掛けられた。 『随分と険しい顔をしている』 「ッ!? アドルフ!?」  思わぬ人物の登場に、辰巳は思わず唖然としてしまう。辰巳の口からポロリと落下する煙草をアドルフの視線が追った。  落ちたぞ。と、そう言われて辰巳はその大きな体躯を屈めて煙草を拾い上げた。まだ火を点けたばかりのそれを灰皿に捩じ込んで、辰巳はガシガシと頭を掻きながらアドルフの顔を見る。 「おいおい、びっくりさせてくれんなよ。まさかアンタがこんなとこまで見送りに来るとは思ってなかったぞ」  マフィアと言うのは案外ヒマなのだろうか…などという、激しく失礼な事を思ってしまう辰巳である。そんな事はない。それは、分かっているのだが。 『あれの幸せそうな顔を是非リビングに飾りたいと、妻にせがまれてな』  アドルフはそう言って、マフィアのボスの手に握られる物としては些か不似合いなデジカメを掲げてみせた。 「ッ! ははっ、嫁の尻に敷かれてんのかよ」 『時には敷かれてやるのも男の務めなんだろう?』  自分で言った台詞をアドルフの口から聞かされて、辰巳は自分がどれだけ恥ずかしい事を言ったのかを思い知る事になった。顔が、熱くなる。  アドルフの顔に揶揄いの色が浮かんでいた。 「あー…勘弁してくれよ…」 『ついでに、もう一人の息子の写真もと仰せつかってきている。拒否は許されん』 「ははっ、マフィアのボスも嫁の前じゃ形無しだな。あんな美人なおふくろが出来るなんざ俺には過ぎた幸せだ」  そんな事を言いながら笑っていれば、手続きを終えたフレデリックが戻ってくる。辰巳の隣にアドルフの姿を認めて、フレデリックの目が見開かれた。どうやら、驚いたのは辰巳だけではなかったらしい。 『父上? 何か不手際でも?』  フレデリックは滞在中にいくつか頼まれた仕事を片付けていた。何か不備があったかと、そう問いかける息子にアドルフが苦笑する。 『仕事で来た訳ではない』 『……では、何故?』 「おっかさんの使いっ走りだとよ」  辰巳の台詞に、フレデリックは艶やかに微笑んだ。 『母上の仰せとあれば仕方ないですね。それで、父上は何を頼まれたんです?』 『お前たちの写真だ』 『ふふっ、それは光栄だなぁ。せっかくだからクリスも巻き込んでしまおう』  クリストファーは、今回のクルーズからまたディーラーとして乗船している筈である。フレデリックはさっさと携帯を取り出すと、同い年の弟をあっという間に呼びつけてしまった。  まだ勤務時間ではないのか、スタイリッシュなスーツを身に纏ったクリストファーは三人の姿に小さく口笛を吹いてみせる。 『こりゃあ随分と物騒なメンツだな』 「お前が言うなよ」 『おいおい辰巳、俺は見ての通りただのディーラーだぜ?』  ディーラーというよりはモデルと言った方がしっくりくるだろうクリストファーに、辰巳が苦笑する。この兄弟は見目がいい。  中央で柔らかく微笑むフレデリックと、恋人と弟の笑顔が写った写真は、数日後無事アドルフの家のリビングに飾られた。もちろん辰巳とフレデリックのツーショットも、その横にしっかりと並べて置かれた事は言うまでもない。  スタッフとして乗船しているクリストファーがさっさと船に戻ってしまった後、辰巳とフレデリックはアドルフを先に見送った。この二人は、誰かを残していくのは得意じゃない。  出迎えに出ているクルーの前を通り抜ける。今回も、フレデリックは乗客として乗船する。  普段フレデリックが着ているものと同じ制服を身に纏った男が、進み出てフレデリックに仰々しく頭を下げた。 『ようこそ『Queen of the Seas』へ。日常の喧騒を離れ、寛ぎの時間をあなたにお約束します』 『いやだなぁ、マイク。僕にそんな挨拶をするなんて』 『ははっ、冗談だよ。おかえりフレッド。些か広い我が家だが、是非寛いでくれ』 『ただいま。本当に、恋人を連れ込むのにこれ以上適した家を僕は知らないね』  恥ずかしげもなく言ってのけるフレデリックに、今回の家主であるマイケルは肩を竦めて辰巳を見た。 『今回のクルーズでこの船のキャプテンを務めるマイケルだ。家族としてキミを歓迎しよう辰巳。些か我儘な兄だが、よろしく頼むよ』 『こっちこそ、我儘な嫁が迷惑をかけて済まねぇな。こんな上等な家に招いてもらえて嬉しいね』  おどけたように言ってみせる辰巳に、マイケルは笑い声を弾けさせた。 『おいフレッド、後で家族からお前にケーキが届くぞ。楽しみにしているといい』 『それは光栄だね。どうせなら教会も抑えておいてくれるかな』  フレデリックの台詞に、さすがに額に手を遣る辰巳の肩をマイケルが慰めるように軽く叩いた。  挨拶もそこそこに、フレデリックはにこやかに微笑んで辰巳と共に船内へと足を踏み入れた。久し振りの船は何故だか懐かしい感じがしてしまう。  この船は、辰巳とフレデリックがフランスにいる間も海を渡っていたのだ。そう思うと、不思議な感じがしてしまうフレデリックである。  二人分の荷物は既に客室に運び込まれていた。早速寝台に寝転がる辰巳をよそに、フレデリックが荷解きを始める。  ホテルの時と同じように片腕を枕にして煙草を吸いながらその様を眺めていた辰巳が、その躰を起こす。 「手伝うかよ?」 「ッ!?」  思わず、フレデリックの手が止まる。恐る恐る振り返るフレデリックのその表情に、辰巳は顔を顰めた。まるでこの世のものとは思えないものでも見ているかのような顔。  どさりと、辰巳が再び寝台にその身を沈める。 「やっぱりやめた。ガラじゃねぇ」 「本当にキミは僕を驚かせるね…」 「はぁん? 二度と言わねぇよ」  ごろりと躰を横に向けてしまう辰巳に、フレデリックは荷解きの手を止めて歩み寄った。寝台に乗り上げて覆いかぶさる。背後から頬の傷を撫で上げて耳元に囁いた。 「気持ちは嬉しいけどね、辰巳…キミが自分の事をするようになってしまったら、僕は寂しくなってしまうよ。僕がいないと生きていけないくらいになってくれないと、僕は満足できないからね」 「そうかよ」 「日本に帰っても、辰巳の身の回りの事は全部僕がしたいくらいなのに」 「だったら馬鹿な事言ってねぇでさっさと居心地よくしやがれ。俺はお前の膝で寝てぇんだよ」  フレデリックは今すぐ膝を差し出したい衝動に駆られた。だが、さっさとしろと顎をしゃくる辰巳に渋々寝台から降りる。大人しく荷解きの続きに手を付けると、フレデリックは二人分の衣類をあっという間にクロゼットに納めてしまった。  再び寝台へと乗り上げたフレデリックは、今度こそ辰巳にその膝を差し出した。膝の上でさらりと流れる黒い髪を、長い指で弄ぶ。旅行中に、随分と伸びた気がする。 「髪…伸びたね、辰巳?」 「そうだな」 「クリスでも呼んで切らせようか」  突然クリストファーの名前が挙がり、どうしてだと辰巳が問いかければフレデリックがにこりと微笑んだ。美容師の免許をクリトファーは取得しているという。本当に、この兄弟は辰巳を驚かせる。  アドルフの教育方針はいったいどこへ向いているのかと聞いてみたくなる辰巳である。辰巳がそれを言えば、フレデリックは声をあげて笑った。  決められているカリキュラムさえ終えてしまえば、好きなことをさせてもらえたとフレデリックは言った。フレデリックもクリストファーも、時間を持て余すことなく惜しみなく与えられる教育を享受した結果である。  『Queen of the Seas』での仕事も、二人の希望での事だとフレデリックは言った。本業で呼び出されれば、寄港地からフランスへ戻るのだという。 「お前らはスケールが違い過ぎる」 「ただの我儘だよ」 「俺なんかやる事がなけりゃ何もしねえよ」  辰巳やフレデリックの家業は、自由業と言うその名の通り、これといって決まった仕事がある訳ではない。もちろんシノギなどと言われるものはあるにはあるのだが、辰巳の場合は付き合いで飲み歩くのが仕事のようなものだ。  だからといって空いた時間をフレデリックのように、真っ当な仕事にあてようなどとは露ほども思わない辰巳である。 「航海士なんて、そう簡単になれるもんでもねぇだろう」 「そうだけど、そのおかげで日本で辰巳と出会えたよ」  手間をかけたものだと感心する辰巳に、頑張りは実ったと言ってフレデリックが笑った。どれほどこの男は真っ直ぐなんだろうと、辰巳はそう思う。一瞬でも似ていると思ってしまった自分がおこがましい。  どうして航海士だったんだと辰巳が問いかけると、フレデリックは考える素振りもなく即答した。 「海が好きだから」  人間などの力が及ばない姿が好きだと、フレデリックはそう言った。 「お前に似てんな」 「うん?」 「荒れ狂ってみたり、穏やかだったり、たまに人に迷惑かけてよ」  そして、人に汚される。それでも変わることなくそこにある姿がそっくりだと辰巳が言えば、フレデリックは黒い髪をくしゃりと握りしめた。 「凶悪だなぁ…」 「あん?」 「辰巳が魚だったらいいのになぁ…」 「はぁん? 海がなきゃ生きていけねぇからか」  ご名答。と、そう言ってフレデリックが笑う。別に海も魚も関係なく、既に辰巳はフレデリックのいない生活など考えることが出来ない。それをフレデリックに教えてやったならどんな反応するのだろうかと辰巳は考えて、やっぱり黙っておこうと思った。考えるまでもない。  代わりに、辰巳はフレデリックの髪に手を伸ばして金色の毛先を引っ張った。 「お前が海みてぇにでかくちゃこっちが困んだよ阿呆」 「僕は辰巳がいないと生きていけない」 「お前のがよっぽど凶悪だろ」  喉の奥で嗤って辰巳は目を閉じた。  いつの間にか眠ってしまった辰巳が目を覚ますと、フレデリックは変わらず黒い髪を撫でていた。穏やかな顔で見下ろすフレデリックと、目を開けた辰巳の視線がぶつかる。 「おはよう…辰巳」 「ああ」  辰巳の頭を膝に乗せたまま、フレデリックは体躯に見合った長い腕を伸ばしてベッドサイドのテーブルから煙草を掴みあげた。珍しく二本抜き出したそれを咥えて火を点ける。片方を辰巳の唇に差し込んだ。  煙草の灰が長くなると、取り上げて灰皿に落とすフレデリックに辰巳は苦笑を漏らすほかない。 「甘やかし過ぎだろ」 「僕がいないと生きていけない躰にしてあげようかと思って」 「躰だけならもうなってんじゃねぇか?」  あっさりと言ってのける辰巳の言葉の意味を理解して、フレデリックがクスリと笑う。 「僕は我儘だから躰だけじゃ満足できないんだよ辰巳」 「だったら、先ずは飯を食わせろよ。腹が減った」 「うーん…胃袋だけは掴める気がしない…」  何でも出来そうなフレデリックにも、どうやら苦手なものがあったらしい。辰巳は肩を竦めてみせると金色の頭を軽く叩いた。にやりと、嗤ってみせる。 「良かったじゃねぇか、俺んとこに嫁ぐのに料理の腕は必要ねぇよ。若い衆の仕事を奪うような嫁じゃ困っちまうからな」  そう言って辰巳は寝台から降りると両手を高く上げた。天井に手をついて躰を伸ばす。その背中にフレデリックが抱きついた。胸の横から顔を覗かせるフレデリックは嬉しそうだ。  さながら新婚のような雰囲気は、間違ってはいなかった。  『Queen of the Seas』で世界一周の新婚旅行。辰巳とフレデリックの、本当の旅はこれから始まるのである。  その先に何があるのかなど、この二人には関係ない。むしろ人様に恐れられる家業の二人である。この二人に恐れるものなどあろう筈がなかった。 END

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