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第2話

「おいっ!嫌がってるだろうが!?」  離れたところから、怒鳴り声がし、周りも男が永井に何をしているのか把握したらしく、こちらに注目している。  バツが悪そうに男は、永井のジーンズの中から、自分の手を抜き、バッグの中から携帯を取り出し、自分の耳に当てた。 永井は、助けてもらったのは嬉しいが、周りの注目を浴びている言う恥ずかしさから、身体を反転させ、再びドアの外の景色を眺めるように立った。  男が男に痴漢するという珍しい光景に対する好奇な視線が痛い。  『御急ぎの中、誠に申し訳ありません。点検が終了いたしました。なお、遅延証明書は…』  アナウンスが聞こえ、少しずつ、永井と男は視線から開放されていく。  そして、停車した駅で、男は、そそくさと降りていった。  目的駅に着くと、永井は海風を浴びながら、深呼吸をし、気を取り直し病院へと向かう。  「永井くん、さっきは、本当にごめん!」  駅から、病院への通路を歩いていると、永井の背後から声がし、その声に立ち止まり、振り向いた。  振り向いた先にいたのは、端整な顔立ちの永井より少し年上くらいの男だった。  身長は、永井と同じくらいだが、端整な顔に似合わず白いシャツの上からも分かるくらいがっちりとした体つきである。  永井は、その男の顔に見覚えがない。 「すいません。あの…」 戸惑いの色を隠せないまま、永井は、男の顔を見る。 「さっき、ほら、電車で怒鳴ったのは、僕なんだ。人ごみに紛れてて身動きとれなかったから、助けなきゃと思って声だけ出したんだけどさ。注目をあびせちゃって、本当にごめんね」 さっきの太い声とは違い、穏やかで心地いい声で男は言い、永井に頭を下げた。 「いえ。そんな、頭上げてください。こっちの方こそ、助かりました。感謝してます。それよりも、どうして、俺の苗字知ってるんですか?」 「あれ?覚えてないかなぁ?四、五年位前に君の学生証を拾った小木 涼一朗(おぎ りょういちろう)だけど…」 小木は、困ったように笑う。  作り物みたいな笑顔だなと永井は、思った。と、同時にその笑顔で永井は、小木のことを思い出した。  小木は、永井が、まだ大学に入学して間もない頃に学生証を拾ってくれた人で、その後も顔を合わせると、挨拶を交わしていたひとだった。しかし、永井に一限目からの授業がなくなると、小木と会うこともなくなっていた。 たしか、永井が、これから勤めるY市立大学附属病院で看護師をしていると言っていた。 「あっ…。すみません。本当にお久しぶりです。」 今度は永井が頭を下げた。 「いいって。気にしないで。思い出してもらえただけでも、嬉しいよ。元気だった?」 小木は、綺麗な笑顔を浮かべ、永井の両肩に手を乗せ、永井に顔を上げるよう促した。永井が、おずおずと顔をあげると、小木は、射抜くように永井の目を見つめた。 「はい。おかげさまで。小木さんは、たしかあそこで看護師やってるんでしたっけ?」 永井は、その視線の強さに戸惑いつつも、逸らすのは失礼だと思い、そのまま言葉を返した。 「うん。やってるよ。君と会ったときは、第二外科だったんだけど、今は小児科にいるんだ。」 「ええっ!?第二外科だったんですかぁ。俺、今日から、第二外科で研修医として働くんです。」 「それは、奇遇だね。二外までは、去年までいたからさ。分からないことがあったら、看護師という立場でしか無理だけど、相談に乗るよ」 「ありがとうございます。でも、大丈夫です。自分のことはできれば自分でやりたいので。あ、そろそろ病院に行かないと…」 永井が、腕時計に目をやると、小木は永井から手を放した。 「おお。悪い。二外は、七階で小児科は六階だから、途中まで一緒に行こう」 「はい。そうですね」  二人は、他愛無い話をしながら、歩く。エレベーターで、永井は小木から電話番号とメールアドレスが書いてあるメモ用紙を手渡された。 永井は、『あとで、連絡しますね』と、返事し、そのまま六階に着いてしまったので、二人は別れた。  永井は、すぐに小木の携帯番号とメールアドレスを自分の携帯に入力した。    「永井、見たぞ。そのメモ誰の携帯番号だよ。もうナンパか?」  メモをジーンズのポケットにしまってるところへ永井と同じ大学出身の坊主頭の佐木 誠(さき まこと)が、前方から永井に近づいてくきた。  「そんなくだらないことするわけないだろ?」 「相変わらず、言葉がきついなぁ。患者に好かれないぞ。」 「あいにく、佐木には心配されたくないね。それじゃ…」 佐木の前をとおりいこうとする永井の腕を佐木が掴んだ。 「第二外科は、そっちじゃなくて逆だよ。さっき、そっち行ったら、別の科でさ。あせったさ。つーわけで、二人で仲良く二外にいこうな」 「待て。佐木も二外なのかよ?」 「おう。俺、前に話したけどな。二外志望だって」 「そういえば…そんな気も」 「どうせ、永井はそんなやつだよ」 いじけたように言うと、佐木は永井の腕を掴んだまま、二人で二外へと進んで行った。  大学時代、永井は会話はするけど、プライベートで遊ぶような友達はいなかった。  グループでの実習が終わった後にみんなで呑む事があれば、大学まで片道2時間の永井は、誰かの家に泊めてくれるならという条件付なら、 呑みに行ったりもした。酒は、弱いほうじゃないから、酔っ払いの介抱をしてやる側に回ることも多かった。  佐木は、グループ実習でもよく一緒になったから、大学の中では、しゃべっていた部類である。  携帯番号は知ってはいるが、永井からは掛けたことがない。掛かってくるとはいっても、レポートやら宿題に関してのことだけだ。  だから、いつもどこか冷めた瞳をしており、色素の薄さ故、無機質な印象を与える永井の素顔を知るものは、あまりいない。    医局のロッカーで、ケーシーと呼ばれるスタンダードカラーの肩にボタンが三つついている半そでの白衣とお揃いの白いスラックスに着替えた。胸ポケットには、真新しいメモ帳とボールペンを何本か挿し、名札をつけると、永井と佐木は、研修医が集まっている医局長のところに行った。 そして、看護士長や教授、他の医師の紹介をされ、今年一年勉強する部位ごとに分かれたグループへ振り分けられた。永井が、振り分けられたのは、消火器グループというところで、一緒に振り分けられたのは、佐木と ソフトモヒカンの白石優(しらいし まさる)だった。  そして、一年間永井がついて学ぶ指導医になったのは、一条友之(いちじょう ともゆき)という男だった。  一条は、永井よりも少し背の高いニヒルな顔立ちで、年は、三十代前半だろうか?白衣の下には、Yシャツに高級そうなネクタイを締めている。  「永井雅哉です。Y市立大学出身です。よろしくお願いします。」 「ああ。挨拶はいいから、俺のあとについて、メモするなりなんなりして、仕事を覚えろ」 頭を下げて、挨拶をする永井に対して、一条は、低く上品な声でボソリというと、医局を出てしまった。 メモとペンを持ち、一条を追いかけるようにして、永井も医局を出る。  その日、永井は、一条が診察中に使う薬品を専門書を開きつつ、メモしたり、放射線科に行き、明日、一条の患者のレントゲンの予約を したり、回診の時に注射を打たされたり、掃除をしたりとめまぐるしく、過ぎていった。  どこか一条は、他人を寄せ付けないオーラがあり、永井も他人と割と壁を作ってしまう性質なので、一条と会話を交わしたのは、薬品のついてや仕事上の質問をしたくらいだった。  佐木につくことになった中本 透(なかもと とおる)は、一条よりも上の医師だが、お調子者で明るく佐木と昼休み中も雑談を交わしていた。  帰り際、永井は 医局を出ようとする一条とすれ違った際に『お疲れ様でした。明日からもよろしくお願いします』と、声を掛けたが、一条は『ああ』と、 一言返しただけだった。  「もしもし、俺だけどさ。今、終わったんだ。」  最寄り駅から、うちまで歩きながら、永井は夏希に電話をしてみた。  向こう側からは、ひとの賑やかな声が聞こえてくる。居酒屋なんだろうと永井は、予測する。  「おお!おつかれぇ。どう?初日は?」 酒が入ってるのテンションの高い夏希の声が、疲れた永井の耳に響く。 「とりあえず、覚えることいっぱいで、疲れたよ」 「珍しいねぇ。まーくんが弱音吐くなんて。あたしとしては、癒してあげたい気まんまんなんだけどさぁ。今、飲み会中で、明日も朝から講義だから、 行けなくてごめん。」 「いや。気にしてないよ。元気そうでよかった。じゃまして悪かったね。」 「ううん。あたしのほうこそごめんね。…こういうとき、側にいてあげられないのって、もどかしいね」 淋しそうにいう夏希の声に永井は立ち止まる。つい、二日前にあったばかりだっていうのにものすごく、夏希の存在が遠く感じられた。 「まぁ、それは、お互い様ってことでさ。どっかの日曜日に戻れたら、戻るよ。それじゃな」 「うん。待ってる」    電話を先に切ったのは、夏希のほうだった。

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