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第47話(終)

窓に目をやると空は、オレンジと濃紺がちょうど混ざりあい絶妙なコントラストを描いていた。  一条は、手術を終え、医局で自分の机のものを整理している。永井は、今は明日の検査の予約をするために検査室へ行っている。  今は、ひとりだ。つい先ほどまで共に行動をしていたが、自分に対しての態度は、出会った頃のそっけないものだった。親しくなった分、それ以上の冷たさを一条は身にしみて感じていた。自分が選んだことだとは言え、つらくないといえば嘘になる。  『第二外科の一条先生、至急、院長室へお願いします』 アナウンスが流れ、目を通していたファイルを元に戻し、一条は、深く溜息を付いてから、院長室へと赴いた。  コンコン。 「一条です。」 「ああ。入れ」 しゃがれた声が、中から聞え一条は、院長室へと入った。 「どうだ。引継ぎのほうは進んでいるか?」 「ええ。まあ。」 半分禿げ上がった頭にぎょろっとした目をした男が、椅子にどかっと座り、こちらに向かってくる一条に話しかけた。 彼が、Y市立大学付属病院の院長である。 「浮かない顔をしてるな。アメリカ行きは一条くんが、希望していたことだったろ?そんなにあの研修医と別れるのがつらいか?」 「そうではないですよ。手術後なので、少々疲れているだけだと思います。」 「向こうに行けば、もっと大変だぞ。その分、ここにいるよりも充実した毎日になるのは、私も保証する。」 「ええ。そう思います。」 「一条くんには、私も期待をしているんだ。研修医、しかも男に手を出したなんていうバカげたことで、君の評判を落としてほしくないんだよ。研修医の彼…永井くんの将来にも関わってくる。私としても将来有望な芽を潰すのは、心が痛い。君も分かってくれるだろ?」 「はい。おっしゃるとおりです。」 「君がアメリカで今以上に立派な医師となってここに戻ってくる日を楽しみにしてるぞ。おお。そうそう、これが、飛行機のチケットと君が住む部屋の連絡先だ。」 院長は、引き出しから飛行機のチケットとメモ用紙を取り出し、一条に手渡した。 「何から何まで有り難うございます。ん?出発は、明日の21時40分の便ですか?本当に急ですね」 「向こうも早く欠員を埋めたいそうじゃ。まあ安心したまえ。永井くんのあのことは、うまく処理しておくから。彼が医師になることだけに専念できるようこちらとしても配慮する」 「お願いします。」 一条は、チケットとメモ用紙を白衣のポケットにしまい、頭を下げた。 「ところで、一条くん、今夜は空いてるか?アメリカ行きを祝わせてくれ」 「それは、光栄です。是非伺わせて下さい」 「そうか。君に承諾して貰えて嬉しいよ。今日はな。留学をしている孫が、遊びに来ててな。是非君に逢わせたかったんだ。まだあいつも学生の身分で、遊んだり勉強をしていたい年頃だろうしな。一度顔を合わせて、メル友と言うのか?それになるくらいでもと思ったんだが?」 「メル友ですか?院長の口から、そのような言葉が出るとは驚きです。」 「私だって、メル友という言葉くらい知っておる。」 「申し訳ございません」 一条は、もう一度頭を下げた。院長は、ニヤニヤしながら、一条を見ている。 「もうさがってよい。それでは、あとでな」 「はい。失礼致します」 一条は一旦顔を上げ、一歩下がってから、浅く頭をさげ、院長室を出た。 トントントン。研修医室で永井は、先程の手術記録オペロクをパソコンに打ち込んでいる。最後の文字を打ち、エンターを打つと、永井はカップに入ったブラックコーヒーを飲み干した。 腕時計を見ると、19時を回っていた。この腕時計は、一条から貰ったものだったということを思い出し、永井はその時計を外し、ドアに向けて投げた。 ガツンという音を立てそれは落ちたが、ヒビ一つ入ることなくなんら変わりなく時を刻んで行く。 「もうムカツク時計だなあ。壊れてくれれば次のを買うのに」 ぶつくさ言いながらも永井は、ドアのところに行き、それを拾い上げ、元の通りに腕にはめ直した。  「何そんなところでしゃがみこんでるんだ?」 ふいにドアが開けられ、上から聞きなれた低く上品な声が降ってきた。永井には、それが誰なのかが分かった。 「落し物をひろっていたのです。先生のほうこそ、先程、用事があるからといって帰られたのではないのですか?なぜここに?」 永井は、ゆっくりと立ち上がり、一条を見据えた。 「ああ。忘れ物を取りに来たついでにお前の顔を見に来た。」 「そういうことを言うのは、もうよしてください。先生と俺はもうなんでもないのですから。」 「たしかに明日が過ぎれば、俺とお前に関係性はなくなるな。それを伝えにお前の顔を見に来たんだ。」 一条は、ゆっくりと告げた。 「明日って…まさか、明後日に行ってしまうのですか?」 ポーカーフェイスを決めていた永井の表情に一瞬だけ翳りが見えた。一条は、その変化に気づいたが、気づかないふりをした。 「いや。明日仕事が終わって、そのまま空港に行く」 「そうですか。お元気で」 「お前もな。」 「はい」 永井は、淡々と言葉を紡ぐ。一条は、永井の表情を窺うように言葉を返す。  抱きしめたいのに目の前にある存在はすごく遠くに感じられ、一条は、腕を伸ばすのを躊躇った。行き場のない手に思わずぎゅっと力が入ってしまう。 「それじゃ、長居もしていられないから。また明日な。明日は引き継ぎとオペでお前と話す時間もないと思うから、今伝えられてよかったよ」 「はい。お疲れ様です」 「ああ。おつかれ」 最後に一条は、永井の肩に片手をぽんと置いてから、背を向けて研修医室を出て行った。  永井は、一条が去った後、なんともいえない寂しさに囚われ、彼が触れた肩に手を置き、声を押し殺して泣いた。 押し殺していたはずの感情が溢れ、一条のせいで再び泣いてしまっている自分に情けなさを感じ、永井は、口唇が白くなるほど、かみ締めた。  最後の時間は、刻一刻と過ぎていく。  午前中は、継ぎ業務のため、一条は患者を引き継いでもらう他の先生とやり取りをしていることが多く、永井とは挨拶程度しか会話をしていない。昼休憩は、机の整理に追われ、そして、そのまま手術へと突入してしまったので、ふたりは側にいながらも会話すらままならなかった。  手術が終わり、いつもならシャワールームで身体を洗っているが、一条との情事の跡が、未だに残っている永井は、シャワールームには行かず、医局にまっすぐに戻った  そして、未練がましいと思いつつも一条の机に向かう。そこは、すっかり綺麗になっており、最初からそこには誰もいなかったのではないかとすら思えてくる。  でも、たしかにいたのだ。 椅子に座ると、一条が残した匂いがかすかに鼻先をくすぐるのを永井は、感じた。   「何してるんだ?」 「先生!?シャワールームにいるのかとおもってましたが?」 いつのまにか一条が怪訝な顔で永井の側に立っていた。永井は、上を見上げ驚きの声を上げる。 「聞いてるのは俺だ。まあいい。俺は時間がないからいかなかったんだ。それで、最後に机のものの確認に来たんだが、何もなさそうだな。永井は、シャワールームに行かなかったのか?」 一条は、引きだしをあけ、確認しながら、言う。 「俺は。誰かさんがつけた跡のせいで、人前で裸になれないので、シャワールームにいけないのです」 永井は、一条に冷ややかな視線を送った。 「まだ残っていたのか…。すまない。」 「謝られても過ぎてしまったことは仕方のないことです。明後日くらいには消えると思いますしね。気にしないでください。俺はあなたなどいなくてもちゃんと外科医になってみせますから」 すっと立ち上がり、永井は一条を見据え、はっきりと告げた。もう自分の前から去ってしまう人間に対しての精一杯のつよがりである。 「ほう。それは、頼もしい。」 一条は、永井の頭をくしゃくしゃと愛しさをこめて撫でた。  今、抱きしめてキスでもしようものなら、永井の将来も自分の将来も壊してしまうから、そう、これは、せめてものスキンシップである。それも最後の…。 「ひとを子供扱いするのはやめてください。」 永井は、ぴしゃりと言い放つ。はじめてあった頃のようなキツさでもって。 「ああ。以後気をつけるよ。」 一条は、笑顔を作り永井から手を放した。 「お元気で」 永井は慎重にゆっくりと言葉を紡いだ。 「ああ。今度こそ本当にさよなら…だ」 一条は、永井の姿をじっくり見ながら、告げ、踵を返すと、周りにいる医師に会釈をしながら、出て行った。  一条の背中を永井は、辛辣な表情で見つめていたが、その瞳から涙が零れることはなかった。  ―そして、5年後―  白いつるのノンフレーム眼鏡を掛け、レモンイエローのカッターシャツにサックスブルーのネクタイ、濃紺のスラックスに白衣を着た男が、高橋医院の廊下を颯爽と歩いていく。時折、すれ違う患者に笑みを向け、声を掛ける。その後ろを真新しい白衣に身を包んだ彼よりも10cm近く背の高い赤茶のさっぱりとした髪型の男が歩いている。美人顔の眼鏡の男とはまた違う顔の系統だが、人目を引く容姿の持ち主だ。  「永井先生、次はどこに行かれるのですか?」 背の高い男が、眼鏡の男の腕を掴み、聞く。一見きつそうな顔立ちだが、永井を見る目は飼い主に懐くペットのようだ。 「レントゲン室だ。沢海(そうみ)くんには、毎日検査室の予約とその確認を行なってもらいたい。」 「はい。わかりました」 沢海は、頷き、白衣の胸ポケットにいれているメモ用紙を取り出した。 「それとオレの後ろをあまり歩かないで欲しい。」 「はい。これからは気をつけます。けっこーいますよねえ。永井センセみたいに真後ろにひとがいるのを嫌がるひとって。知らなかったなあ。センセもそうだったんですね。」 「ああ。まあな。…ぁ」  永井は、目を向けた先に見えた黒いスーツの男に釘付けになった。永井の様子に沢海もメモ用紙を持ったまま、目線の先を追った。 「久しぶりだな。」 男は、ゆっくりと永井に近づき、立ち止まった。そして、変わらない低く上品な声で、言う。 「はい。ご無沙汰しております。噂で聞きましたが、ご婚約をされたそうで。このたびはおめでとうございます」 「ああ。ありがとう。まさかここで会うとは思わなかったから、正直驚いたよ。お前、ここで勤めるんだってな」 「ええ。付属病院みたいな大きなところよりもここの方が、俺に合うと思いましたので。それにしてもなぜ先生がここに?」 「必要な書類があって、それを取りに来たってわけだ。附属病院には、明日から正式に戻るんだがな」 「そうなのですか。それは、帰国早々ご苦労様です。」 永井が、一礼した。 「ああ。そういや、お前の横にいるのは、研修医か?」 「え?はい。そうなのです。俺も今年から初めて指導医をやることになったのですよ。沢海くん、こちらは、附属病院の外科医、一条先生だ。先生、こっちは、俺が受け持っている研修医の沢海です」 「初めまして。沢海です」 ぼそり。愛想のない声で沢海が気だるそうに頭を下げた。 「どうも。一条だ。永井の言うことを聞いてれば大丈夫だから、頑張れ」 「はい…」 「それでは、俺は失礼するよ。」 「はい」 永井は自分の横を通っていく一条に深く頭をさげた。  5年前に抱いた一条への恋心は、もう自分にはない。  今、あるのは懐かしさと尊敬しかないのだと、永井は今再会してみて実感した。  でも、恋とは意外にも自分では自覚のないところに潜むもの。  たしかな気持ちで塗り替えないとそれは、剥がれてしまう恐れがある曖昧なもの。  傷が深ければ深いほど、それは…。  それは、きっと…。            (完)

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