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第46話
規則正しい寝息を立て、あどけなさの残る寝顔を浮かべる永井の瞼に一条が、そっと口付けを落とした。
「んっ…」
瞼に温もりを感じ、永井は、ゆっくりと目を開けた。白地に薄いグレーの縦ストライプが入ったYシャツに濃紺のスラックス姿の一条が、永井の目に映る。
「おはよ。随分、ゆっくり寝てたな。1時過ぎてるぞ」
「ええっ!?もうそんな時間なんですか?先生が起きた時に俺のことも起こしてくれてもよかったのに」
気怠さの残る身体を起こし、驚きの声をあげた。
「あまりにも気持ち良さそうに寝てたから、つい放っておいてしまったんだ。本当はもっと寝かしておいてやりたいが、急用が入ってさ。悪いが、起きて貰えないか?」
「はい。すみません。先生に気を使わせてしまって」
「気にするな。その分、お前には身体で払って貰ったしな。」
一条がニヤリと笑みを浮かべ、永井の頬に片手を添えた。永井は、自分の身体に目を落し、ちりばめられた赤い跡に自分の痴態を思い出し、頬をほんのり赤らめた。
「そんなに照れるなよ。なんだか悪いことをした気分になるじゃないか。たしかに跡を残したのは、悪いと思ってるけどな。」
「悪いだなんてとんでもないです。俺も先生の背中につめを立ててしまったし、あれは、お互いの合意の上でのことだと思っているので、どちらが悪いというのはないと思うのです」
「ははは…。真面目に答えられてしまうのも困ってしまうな。」
一条は、苦笑いを浮かべる。
「では、どう答えればよいのですか?」
「どうって、聞かれてもだなぁ…。お前は本当に面白いやつだな。側にいて飽きが来ないよ。ほら、シャワーでも浴びて来い。そうそうお前の眼鏡は無事だったから、昨日クリーニングに出したスーツと俺が洗った下着と一緒にバスルームにおいて置いたから、それに着替えて来い」
「ちょっ先生!!」
一条が、永井が掛けている布団を勢いよく剥がした。何度も見られた裸とはいえ、永井としては、それを晒されるのは、恥ずかしく、思わず股間を両手で隠してしまった。
「隠さんでもお前のモノは、色も形も味も知ってるって。」
「それでも、恥ずかしいものは恥ずかしいのです!シャワーお借りします!!」
「ははは。どうぞ」
ほんのりと頬を赤らめたまま永井はベッドを降り、バスルームへと向かった。一条は、永井の背中を笑顔で見送った。
「我ながら、あんなにたくさん跡をつけるなんて、どうかしてるな。よっぽどあいつの身体に溺れていたってことか…」
一条は、ひとりごちて、はぁとため息を大きく漏らし、自嘲気味に笑った。
「それでは、また明日な」
「はい。ありがとうございました」
「ああ」
パタン。永井が助手席のドアを閉めると、一条は車を動かした。
ひとり残された永井は切なげな表情を浮かべ、一条の車が見えなくなるまで、目でそれを追う。そして、踵を返すと、自分のうちへと向かった。
部屋にもどって、永井がまずしたことは、三日前に作ったシチューの残りを捨てることだった。異臭はなかったが、念のためということである。
「あーあー。もったいなぁ」
残念そうに言いながら、空になった鍋を洗う。洗いながら、永井は昨日のキッチンでのことを思い出してしまった。
「先生…」
一条のことを思い浮かべるだけで、下半身がずんと重くなっていくのを感じ、永井は慌ててトイレに駆け込んだ。
何、考えてるんだ俺。しばらく皿洗いをする度に思い出してしまいそうだ。先生の声やあの舌使いや指や先生のモノが自分を貫いた感触を。
「友之さん…はぁぁ友之さん……」
自慰をしながら、狂おしいくらい永井は、一条の名前を叫んだ。
そして、放出したあとには、自分がひとりであるということへの虚しさが募った。
翌朝、永井が、目覚めると携帯の着信音が鳴った。相手は一条からだ。
「おはようございます」
「おはよう。ちょっと早く目が覚めてな。お前の部屋まで迎えに行ってもいいか?」
「ええ!?いいもなにも。もうそこまで来ていたりするのですよね?」
永井は、携帯を持ったままカーテンを開け、窓の外を見た。案の定、一条の車が止まっているのが見えた。
「さすが永井だな。」
「それなら、車の中にいないで、うちにくればいいじゃないですか?」
「いいよ。まだ着替えてないんだろ?お前の着替え見たら、襲いたくなりそうだから、遠慮しとく」
「もう、先生…」
永井は口唇を尖らせた。
「そうあせらなくてもいいが、俺が待っていてやるんだ。それぐらいは覚えておけよ」
「それって、十分脅しですよ」
「ははは…。そうか。それじゃ、一旦切るな」
ツーツーツー。一条は、通話を切った。永井は、会いたい人がわざわざ迎えに来てくれたという喜びで、顔を綻ばせながら、支度に取り掛かった。
「おはよう」
「おはようございます。ありがとうございます。」
永井が車に近づくと一条が助手席のドアを開けた。永井は軽く頭を下げながら車に乗り込んだ。
「ネクタイが曲がってるぞ」
「すみ…ありがとうございます。んっ…」
一条が、永井のレモンイエローのネクタイを掴み、ネクタイを持ったまま永井の引き寄せると、掠めるだけのキスをした。とたんに永井は、顔を真っ赤にし、一条から身体を離した。
「先生!場所をわきまえてください!!こんな朝っぱらから、ひとに見られたら、どうするのですか!!」
「一瞬なんだから、そう喚くほどのことでもないさ。それとも俺にキスされるのは嫌か?」
「嫌…て、ことはないのですが、ただ先生のことを考えたら…」
「お前はいいやつだな。俺のことをかんがえてくれるのか?そうかそうか。それならば、今夜はお前のうちにいこう。構わないよな?」
「か、構いませんが…」
突然の一条の提案に流されるように永井は、頷いてしまった。
そして、頷いた後に一条の自分の執着の裏には、なにかがあるような気がすると、思ってしまった永井だった。
『第二外科の一条先生、至急、院長室へお願いします』
昼休みになり、食堂で永井と一条が食事をしていると、アナウンスが流れた。
「悪いな。休みが終わる前には戻ってこれると思うが、戻って来れなかったら、先に検査室の予約の確認をしていてくれ」
「はい。」
一条は、まだ半分も食べ終わっていないトレイを片すと足早に院長室へと行ってしまった。
一人残された永井は、黙々とサバ味噌定食を食べていく。
そういえば、一昨日も院長室に呼び出されていたけど、一体どんな用件のだろうか?結局、昨日ははぐらかされてしまって、教えてもらえなかったが、今日は教えてもらえるだろうか?
と、永井は思案する。
「永井くーん、前に座っていい?」
カレーを持った佐木が、ニヤニヤしながら、永井の側に近寄ってきた。
「え?ああ。別にいいよ」
反応鈍く永井は、答えた。
「ぼんやりしちゃって、考え事?さては、一条先生のことでも考えてるのか?」
「そんなのではないよ」
「嘘ばっかし。お前、一条先生の下で働くようになってから、変わったな。感情が顔にでるようになっただろ。嘘だってばればれの顔しとるし。それと色気が増したよな。 自分じゃそういう自覚ないんだろうけどな」
「色気?だなんて、そんな自覚まったくありません」
永井は、お茶をひとくちのみ、そっけなく答えた。
「まあ、色気は冗談のような本気な話だとして、オレは、大学時代からのお前を見ていて、今の傾向はいいことだと思ってたんだ。しかしだ。オレ、昨日聞いちゃったんだよ。院長室の前を通ったときにさ。先生と院長の会話をさ」
佐木は、辛辣な顔を浮かべ、コップに入った水を一気に飲み干した。
「なんだよ。それ?」
永井は、身を乗り出し、聞いた。
「ちゃんと全部聞いたわけじゃないんだけどさ。どうやら、一条先生、アメリカの病院に行くみたいだぞ。で、昨日は、その返事をしにわざわざ休みなのに来たって、感じだったよ。それと、永井の事をよろしくお願いしますとかなんとか言ってたな」
先生がアメリカに?突然のことに永井は、目の前が真っ暗になりそうだった。
「それでは、俺の研修期間がまだ終わっていないのに行ってしまうということのなのか?俺を放棄して…」
「永井?顔が怖いぞ。まあ、落ち着けって」
佐木が立ち上がり、永井を宥めるように肩を抑えた。
「永井」
「ああ。悪い」
もう一度佐木がゆっくりと永井を呼ぶと、永井は我に返り、椅子に座り直した。
その後は、気まずい雰囲気が流れ、黙々と二人は、ご飯を食べていた。
「どこまで話は、進んでるのですか?」
帰りの車中、永井は前を向いたまま淡々と話を切り出した。
仕事中に聞くわけには行かなかったので、やっと今聞いてみたのである。
「なんのことだ?」
運転をしている一条の眉が、ピクリと動く。
「アメリカ行きのことですよ。一昨日、俺が聞いた時に教えてくれてもよかったのに」
「お前には、ちゃんと決まってから、俺の口で伝えるすつもりだったよ。引継ぎのこととかあるしな。こんなに早くばれるとは思っても見なかった。」
「…それで、いつ行ってしまうのですか?」
『俺を放棄して…』と、いいかけた言葉を永井は、つぐんだ。それを言ってしまったら、一条にとって思い存在に思われそうで嫌だったからである。
「院長にルームシェアではあるが、アパートを紹介されてな。病院からも近いらしいから、そこにしばらくは住むことにしようと思って、今日はその返事をしたところだ。だから、明日から、引継ぎのあれこれをして、早くて2、3日中、遅くても来週中には、日本を経つつもりだ。できればお前の面倒を最後まで見てやりたかったが、本当に急に決まった話だったからな。悪いと思ってるよ。」
「急にって、あの一昨日の呼び出しですか?」
「ああ。そうだ。前々からアメリカの病院にいく希望は出していたんだが、まさか今話がくるなんてな。」
一条は、永井を見ずに語る。永井は、一条の表情を読み取ろうとじっと彼の顔を見つめた。
「せっかくのチャンスですし、先生が、前々から希望していたことなら、行くべきです。おめでとうございます。」
言葉だけは出てきたが、永井の本心はここにはない。
「ありがとう。それで、俺がいなくなったあとの指導医だが、中本に今日頼んだから。中本なら、お前と仲のいい佐木と一緒だし、お前もやりやすいだろ?」
「はい。そうですね。ありがとうございます」
「今日は、何が食いたい?」
「え?」
急に話題を変えられ、永井はきょとんとした顔を浮べる。
「今なら、スーパーに寄ることも可能だし、難しいものでなければ、お前のリクエストにのるぞ」
「ああ。そうですね。今は、何も食べる気がおきないです。」
「永井?」
「…すみません。申しわけありませんが、ここで降ろしてください。」
「わぁっバカ!!」
永井が、シートベルトをはずし、ドアのロックを解除し走行中の車のドアを開けようとした。しかし、間一髪のところで一条が腕を伸ばし、永井の手を封じた。
「離してください!」
「待て。降りたいんなら、ちゃんと降ろすから。道路に飛び降りるようなことはやめろ。まさか死ぬ気なのか?」
一条は、片手でハンドルを動かし、路地へと車を走らせる。
「まさか。死ぬなんて考えてもみませんでしたよ。俺はただここに先生とふたりでいるのに耐えられなくなっただけです。」
永井の顔には、悲愴感が溢れ、今にも泣き出しそうである。そんな永井の表情を一条は、車を止め沈痛な面持ちで見つめる。
「本当にすまない。散々お前の気持ちを煽っておいて、投げ出すような真似をするなんて、ひどいことをしているのは、分かってる。恨んでくれても構わない。だがな。俺がお前に教えたことは忘れないで欲しい。お前が、お前が望む医師になれることを願ってる。お前の指導医として。同業者として」
「俺は、あなたからそんな言葉が欲しいわけじゃない。俺はっ…!!」
「永井っ!!」
永井は、叫ぶと、一条の手を振りほどき、車から勢いよく飛び出した。
俺は、『待ってろ』て、いうその一言が、欲しかっただけなのに…。
永井の背中に一条が、叫ぶ声が聞こえた気がしたが、永井は、ボロボロと零れ落ちる涙もそのままに無我夢中で、知らない道を駆けて行く。
少しして、立ち止まった永井は、恐る恐る後ろを振り向いた。しかし、一条の姿はなかった。
「何、期待してるんだか…」
ポツンと呟き、期待をしてしまった自分を自嘲する。所詮、自分は先生にとって、退屈しのぎでしかなかったのかもしれない。
なんて、考えていたら、虚しさが、一気に込み上げてきた。
「…知らなくてもよかったこんな気持ち」
一旦止んだはずの涙が、再び永井の瞳に溢れた。
先生を好きになればなるほど、非力で自分の女々しい部分を思い知らされた。信じることで委ねることで、自分は弱くなってしまったと、永井は思った。
「帰ろう」
流れる涙もそのままに人波に逆らうように永井は、歩き出した。
「おはようございます。」
「ああ。おはよう」
翌朝、着替えを済ませ、永井はいつものように一条のところへ行った。そして、彼を見据え
事務的な口調で挨拶をした。
眼鏡を掛けているので、分かりずらいが、一条には、永井の瞼が幾分かいつもより腫れぼったいのが分かった。ひとりで泣いていたのか…そう思うと、一条は胸が痛んだ。
「永井、昨日は…」
「ご心配おかけして申しわけありません。うちには無事に帰れましたよ。それよりも今日のスケジュールの確認をしたいのですが?」
言いかけた一条の言葉をさえぎり、永井が話を切り出した。
「そうか。それなら、安心した。今日のスケジュールだな。今日は、午前中が巡回のあとに回診で、昼休憩の後に3時から302号室の山田さんの手術の準備。そして、2に手術。予定は2時間ってところか。お前には、鉤引きをやってもらう。それとオペロクも忘れるな。その後は、明日の検査室の予約と術後管理。というところか」
「はい。了解しました」
「永井…」
物問いたげな一条の顔を無視するように永井は、一条に背を向けた。
「確認が済んだのですから、早くいきましょう」
「ああ」
一条は、永井の背中に切なげな眼差しを送った。
俺だって、お前を捨てたかったわけじゃないんだ…。と、心の中で訴えてみても永井が振り向くことはなかった。
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