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第78話

 沙代子さんと努さんに挨拶をするために事務所に向かいながら通い慣れた道をゆっくり歩いた。 宮川旅館へと続く時代を飛び越えたような幻想的な風景も見られなくなると思うと寂しさが込み上げてくる。 ノックをして入った事務所には沙代子さんと努さんだけがいて、俺に気付くと優しく微笑んでくれた。 「夜にはここを出ます。沙代子さん努さん今までお世話になりました」 深く頭を下げ零れそうになる涙をぐっと(こら)えて顔を上げた。 「翔君が幸せになるのは嬉しいけど、ずっとここにいて欲しいって私は思っていたのよ」 「沙代子さ……俺、沙代子さんがお母さんならよかったのに……ってずっと思って」 優しく抱きしめてくれた沙代子さんの温もりに堪えきれなくなった涙が(あふ)れうまく言葉にならない。 「私はそのつもりよ」 初めて見る沙代子さんの涙に幸せな気持ちが全身に広がり、嬉しくて俺の涙腺は崩壊してしまう。 「僕もお父さんのつもりだからね。いつでも帰っておいで」 俺と変わらない身長の努さんが大きく見え、暖かさに包み込まれるようだった。 俺が追い求め、それでも得られなかった家族の愛情がここには確かにあって、そのたくさんの愛情を俺に与えてくれた。 「俺っ……幸せでした」 掠れる声で子供みたいに泣く俺が泣き止むまで沙代子さんは抱きしめてくれていた。 人を信じる事が出来なかった俺に信じる事で幸せになれる事や、見返りを求めない優しさがある事をここのみんなが教えてくれた。 言葉じゃなく行動や態度で示してくれた。 そんな周りの人達に俺は少しでも何か返せたんだろうか。 「僕達にとって翔君はかけがえのない存在なんだよ」 「俺そんな、もらうばかりで何も返せなくて……」 努さんの言葉に首を横に振った。 「君がいてくれるだけで僕達は幸せだったからね。親にとって子供ってそういうものだよ」 努さんの言葉に沙代子さんも笑顔で頷いた。 俺もいつか沙代子さんや努さんのように誰かを幸せにできるようになりたい。 見送れなくてごめんねと謝る沙代子さんと努さんにもう一度お世話になりましたと頭を下げて家に戻った。

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