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第1話

-霖雨- 『好きだ。もう誤魔化せない。好きで好きで仕方がない』  コンクリートの壁の向こうで熱烈な告白をしてる声はボクの大好きな染井先生だった。ボクはびっくりして、教科書を抱き締める。息を殺した。 『困ります…こんなところで…』  返ってきた声にまたボクは心臓が止まるほど驚いた。美仁(よしたか)先生だ。眼鏡をかけた綺麗な優しい先生。化学の担任で、白衣がよく似合ってる。いつも実験器具を洗ってるのが印象的だった。 『返事がほしい。苦しいんだ』  女の子たちにも大人気の染井先生のこんな切羽詰まった声音は聞いたことがなかった。だって染井先生ってみんなの前では静かだし、厳しいし。なんだかボクは居た堪れなくなった。みんなの知らない染井先生をボクは知ってるけど、こんな染井先生をボクはまだ知らない。きっとこの先も知らない、でいたかったのに。 『応えられるわけないでしょう…!冗談もいい加減にしてください。そろそろ次の授業の支度がありますので』 『月下(つきもと)、』  ボクは切なく美仁(よしたか)先生を呼ぶ染井先生にはらはらした。 ――染井先生がボクのいる事務机の上に呆れた調子で雑誌を放り投げた。興味があったわけじゃないけど、ボクは反射的にその雑誌を見た。染井先生は溜息を吐いてカップラーメンのビニールを剥いてお湯を注いでいた。給湯室はボクの溜まり場になっていた。 「なんですか?これ」  鍛え上げられた肉体の成人男性がボクサーパンツだけを身に付けて、腰に手を当てながら2人寄り添う表紙と白抜きの謳い文句。ゲイポルノ雑誌だった。ボクは首を傾げながら割り箸を棚から探している染井先生に目を向けた。 「生徒から没収したんだ。今時のガキは随分マセてんな」  ボクは表紙をぱらりと捲る。肉付きのいい男性や、華奢な色白のまだ少年て感じの男性も写っていた。数ページ捲ると藁半紙みたいな色付きの紙に漫画が刷られている。ゲイカップルの実録漫画とか、そんな感じのタイトルだった。 「別に普通じゃないですか?エロ本くらい」  ボクがいつもと同じように没収された漫画雑誌を開いている間、染井先生はやたらとボクをちらちら気にした。高校生くらいの年齢なら性に興味を持って、生まれ持ったその機能に理解を示す頃だと思うな。教科書にそう載ってたし。 「まぁ、そうだな」  落ち着かない様子で染井先生はボクの対面の事務椅子に座った。頬杖をついて、ボクから顔を逸らしたまま忙しない態度でやっぱりボクを気にした。 「八重さんだって1冊2冊持ってるんじゃないですか」  染井先生は大袈裟に肩を跳ねさせて、切長な目をカッと開いた。 「馬鹿言え、俺はそんなシュミねぇよ」 「もう3分以上経っちゃいましたよ」  ボクを睨んで、何の話かもすぐにはピンと来ないらしかった。かっこよくて気が利いて素敵で完璧な染井先生が。女の子たちみんなそう言ってたのに。  靴音がして、染井先生も肩を落としてどこかへ行った。小さくなっていく後姿を見つめたままボクはまだコンクリートの壁に隠れていたくて動けなかった。美仁先生がどんな顔であの告白を受けたのか気になって、優しい微笑みしかみたことないから、染井先生にどんな顔を向けたのか気になって気になって、それ以外何も考えられなかった。頭の中にあの雑誌に載っていた男性同士の睦み合いの写真がボクと美仁先生になってずっと浮かんだ。押し倒されたみたいなポーズをとる色白の青年が、美仁先生になって、胸を突き出して舌舐めずりする半裸の男の人が美仁先生になって。膝に力が入らない。教科書を抱き締めたままボクはへなへなと冷たくて固い廊下に座り込んだ。綺麗で優しくて、上品で頭が良くて教えるのも上手くて、白衣がよく似合う美仁先生。喉が渇いてきた。胸に詰物をしたみたいに張るような感じがある。熱くて、疼く感じ。染井先生が言うように確かに苦しい。息はちゃんと出来るのに。困ります。美仁先生はそう言った。どう困るの?見たい。どう困るの?訊きたい。困ってほしい。困らせたい。嫌がられたい。嫌がってる姿がみたい。綺麗で優しい美仁先生が困って嫌がって怒って、感情を乱すところがみたい。  美仁先生とはそこそこ仲が良い。染井先生とほどじゃないけど、ボクが化学得意なのもあって、問題とかよく訊きに行ってたし。美仁先生はボクのこと可愛がってくれるけど、でもボクが行くと必ずといっていいくらい一緒にいる生徒会の風信(かぜのぶ)くんのほうが好きみたいだ。生徒会だし、学級委員だし、何より美仁先生が副顧問やってる水泳部のエースだし。それ考えたら、ちょっと胸の辺りがギュッとした。美仁先生の困った顔とか嫌がってる顔、見たことあるのかな。同じクラスなのに、今度から風信くんにどんな顔して会えばいいのかな。  立ち上がろうにも股間がむずむずして歩きづらいし、やっぱり力が入らなくてチャイムが鳴ってもボクはその場に座り込んだままだった。美仁先生が迎えに来てくれないかな。そんな願望が浮かんで足音が聞こえて、股間のむずむずした痺れみたいな違和感がさらに増した。 「深月!何してんだ?」  大きな声が静かな廊下に轟いた。秋桜(あきお)先生だ。染井先生と仲が良くて、なんでも2人で教師を目指して2年目で同じ学校に赴任できたとか。クール…女の子たちはそう言ってたけど、クールな染井先生に反して秋桜先生は暑苦しい感じがあった。絵に描いたような体育教師そのものって感じだ。 「漏らした?」 「漏らしてません。ちょっとびっくりしちゃって」  秋桜先生はうん?ってよく日焼けした顔で首を傾げて、ゴリラみたいな人なのに可愛い。ボクはうっかり今あったたことを喋りそうになったけど慌てて口を閉ざす。秋桜先生はちょっと心配そうなカオをした。 「授業始まってるぞ。ほら、戻れ、戻れ」  秋桜先生はボクに甘い。授業サボってるのに怒らないし注意しない。結果は出せてるからかな? 「はい。ちょっと、ほんと、びっくりしちゃって」  秋桜先生は訝しげにボクをみた。人通りの少ない廊下は静かだし、苦手な人からしたら不気味な雰囲気があった。 「なんか、出たのか…?」  おそるおそる訊かれて、秋桜先生はお化けとか苦手なんだなぁと思った。 「何も出てませんよ。ところで秋桜先生はどうしてこちらに?」  ボクはスラックスを(はた)きながら立ち上がる。 「八重見なかったか?ヨシも」 「八重さんなら、」 「八重先生だろ、タコすけ」 「いや、染井先生です」  秋桜先生は訳分からんってカオをして、染井先生に用があるから理科室に行くのだと言った。この廊下の先に理科室がある。でも染井先生は数学教師だから、理科室になんてそんなに用はないはず。 「染井先生ならあっち行きましたよ」 「まじかー。じゃあすれ違っちまったな」 「でもどうして染井先生に用があるのに理科室へ?」  秋桜先生は妙な顔をして肩を竦めた。 「最近休み時間になると仲良いんだよ、あいつら」 「…へぇ。そうなんですね」  秋桜先生も少し困惑したような感じがあった。 「とにかく、授業に戻れよ。教えてくれてありがとな」  まるでお兄さんみたいな態度で秋桜先生は染井先生が消えていった廊下に向かっていった。この前赤ちゃんが産まれたばかりで、いつにも増して元気いっぱいな姿は暑苦しさが増す。ボクはその大きな背中を見送って教室のある方向とは反対の理科室に歩いた。美仁先生に会いたかった。  でも先客がいた。生徒会なのにどうして自分のクラスで授業受けてないの?って思う。窓際の席で美仁先生の並んで教科書を覗いてる風信(かぜのぶ)くんがいる。なんでクラスに戻ってちゃんと授業受けないんだ。処理法違反の黒い煙を吸ったみたいにもやもやした。先に気付いたのは風信くんで、肩がぶつかるくらい近くに座る美仁先生の白衣を親しそうに引っ張った。そんな遠慮のない仕草にも優しい美仁先生は嫌なカオひとつもしないんだもんな。 「津端(つばた)くんではありませんか。いらっしゃい」  銀フレームの眼鏡の奥で綺麗な目がボクを捉える。ふわってした。足の裏に接してる靴下も上履きも床も地面も全部が無くなったみたいにふわふわした。でもボクを見てるのなんてほんの一瞬で、すぐにまた隣の風信くんに注意を引かれて美仁先生の綺麗な目にボクは映らなくなる。耳打ちしていて何を話しているのかは聞こえなかった。 「はい。では、また」  美仁先生は席を立った風信くんに優しく笑いかけた。風信くんは会釈して、それで出入口の傍にいたボクにも遠慮がちな視線をよこして出て行った。校則でもギリギリの明るい茶髪は地毛みたいだった。柴犬っぽい人懐こそうな顔をしてるしイイ人っぽい感じはあるけど、ボクはやっぱなんか、あんまり、仲良くしたいとは思えなかった。 「お邪魔しちゃいましたか?」  美仁先生は優しく微笑んで否定した。本当にどんなカオして染井先生を拒んだんだろう。 「どうしましたか。授業は?」  風信くんだってここにいたくせに美仁先生はボクにそんなことを訊く。まるで風信くんと一緒にいるのは当たり前のことって言われてるみたいだった。風信くんはいいけど、ボクはダメ、みたいな。 「美仁先生に用があったんです。さっきはお取り込み中だったみたいだから…染井先生と」  美仁先生はボクをびっくりしたカオで見て、でもすぐに顔を逸らしてしまった。 「聞いてたのボクだけですから、大丈夫だと思いますよ」 「…変なところを見せてしまってすみませんでした。染井先生も面白い冗談を言う人ですね、びっくりしてしまって、何も上手いことを返せませんでした」  愛想笑いだ乗り切ろうとしてるみたいだった。焦りは隠せていなくて、綺麗で優しい美仁先生のそんな姿をもっと見てみたくなる。この話を引っ張らなきゃいけない。このまま使い切って、終わらせていい材料じゃないんだと思う。 「実際のところはどうなんですか。染井先生のこと、好きなんですか」  美仁先生はきょとんとしていた。綺麗なオレンジ色っぽい唇ばっかに目がいって、寒くもないのに鳥肌がたって、熱波みたいに駆け上がっていく。心臓をくすぐられてるみたいだった。鼓動がうるさくて、ボクは美仁先生の唇から目が離せない。好きですよ、なんて言われたら、ボクは。 「好きですよ」  ほぼ同時に、美仁先生はボクのキモチを読んだみたいにいつもの透き通った声で、でも掠れた声で、ボクの胸の中に腕を突っ込んで掻き回すみたいなことをする。ボクは堪らなくなって、美仁先生の白衣を掴んだ。背伸びして、ボクを覗き込んだ美仁先生のオレンジ色の唇に吸い付く。 「ぅ、ん…」  驚いた声が吐息になってボクの頬っぺたを掠めていった。頭の奥がじんわりした。気持ち良くて、薄いけど弾力のある唇にもっともっとボクの口を押し付ける。白衣を摘まむボクの手首を冷たく乾いて荒れた手が掴んだ。剥がそうとしてるのに、手を繋いでもいるみたいで。 -瑞雨-  寝ても覚めても頭の中に、同僚の姿がこびりついて離れなかった。夢の中にまで現れて、朝を迎えると腕の中にある丸められた布団に虚しくなった。  飲み会で、(さく)――秋桜(あきお)咲多(さくた)の愛妻家ぶりを発揮されて、既婚者が明らかになった時に突然血相を変えて帰ることを告げた時から、いつの間にかあいつを意識して意識して仕方がなかった。咲はとにかく男から色々な意味でモテたし、艶っぽい意味合いでなけりゃ俺だって咲に惚れてる。あいつもそのクチだと思って、酔っ払った咲に幻滅した程度に考えていた。気を利かせたつもりになって、帰り始めたあいつにちょっかい出す気になったのは、俺もそこそこ酒が入っていたからで、でなけりゃあんなお(つぼね)みたいな口煩い姑みたいな几帳面な野郎に好き好んで楽しい飲み会を早々に切り上げてちょっかい出したくなるのかっていう。嫁の言いなりになって、嫁が、嫁に、嫁を、嫁は、とぺらぺら嬉しそうに幸せなことこの上ないとばかりに喋る咲をフォローするつもりであいつを追えば、あいつは泣いていた。洗い過ぎて荒れまくった手とは違って綺麗な肌を落ちていく涙に興味が湧いて、それからだった。あいつは生徒に見せるのとは正反対の敵意に満ちた顔を俺に向ける。こいつは俺のこと、嫌いだもんな。咲に馴れ馴れしく、生徒に冷たいのが気に入らないのだと。前そんなようなことを言われた。女生徒に気を持たせるような態度はやめろと。  またあいつのことを考えていた。あいつとの出会いだの会話だの、1日1日の行動だのを思い出しては時間を潰していた。飯の味も、酒の味も分からなくなる。赤ペンがデスクの上を転がった。ばかデカい溜息を吐いて、採点をサボる。 「大きな溜息っすね」  すぐ近くからちゃらちゃらした声が聞こえた。風信だろう。部室の鍵でも借りに来たのだろう。案の定、鍵を借りに来たと説明される。そういえば、咲は水泳部の顧問で、あいつは副顧問で、コイツは水泳部のエースだった。妙に馴れ馴れしいが、深月と並んで可愛いやつだ。深月は小憎らしい弟って感じだが、コイツはなかなかよく懐いた飼い犬って感じでつい撫でたくなる。咲にもよく懐いているし、気難しいあいつもコイツにはどこか気を許したようなところがあったから、相当な人誑しだろう。 「八重せんせ」  呼ばれたからもう一度風信を振り向けば、ヤツは人懐こく笑った。飼主大好きなポメラニアンみたいだ。 「ああ、持ってけって」  鍵の話だろう、俺は承諾の返事を忘れていた。 「採点ですか?頑張ってくださいネ」 「おう、さんきゅ」  俺はまだ考えることがあり、テキトーにあしらっていれば鍵棚の前に突っ立っている風信はまだ俺のことをじっと見ていた。 「ンだよ。鍵ねぇのか?」  しょっちゅう借りに来るのだから鍵棚にはびっしり鍵が掛かっているとはいえ水泳部関連の鍵の場所は把握しているはずだ。先に借りに来た奴がいたのかも知れない。 「いいえ!じゃ、行ってきます」 「おう」  散歩大好きな犬が散歩に連れて行かれる前みたいな嬉々とした態度でスキップするみたいに風信は職員室を出て行った。  告白するか、否か。採点途中の小テストの上で頭を抱えた。告白してどうする。脈がなさすぎだ。会えば嫌な顔で挨拶を交わして、口を開けば嫌味を言われて返してしまう。そんな関係で告白はまだ早い。やつが嫌味を言っても態度を変えよう。このままではまずい。仕事にならない。あいつに染まっちまっていけない。何より、あいつが他の人間と話しているの気になって何も手に付かなくなるというのに、他の人間とくっつくなんてことになったら?俺はどうなる?ストーカーになる。相手はどんな奴だ?お前に相応しい人間か?お前は満足しているのか?どこが好きなんだ?俺には何が足らないんだ?男だからか?俺はあいつとそのパートナーのストーカーになるだろう。それだけじゃない。咲があいつを気に入っていて、妹の純和(すみか)をあいつに紹介する気になっている。咲は俺に、無邪気に相談してくるのだから困り者だった。多分あいつは断ると思うが確証はない。俺と幼馴染で、兄貴に似ずに色白で華奢で淑やかな美しい女だが、同じようなあいつには絶対に似合わない。だが咲の妹という圧倒的なアドバンテージがある。俺にも妹みたいな姉みたいな彼女をそんな風に扱われるのも気に入らないが、あいつが彼女と結ばれるのも想像したくない。禁忌にさえ思う。誰だってあいつには似合わない。俺以外、あいつはひたすらへらへら笑って、好い人を演じるだけだ。それで俺がストーカーになるだけ。あいつが鎧に身を固めて生きるなら、俺は不幸に溺れたい。頭を抱えてまた大きな溜息を吐いた。 「…ヤエサン」  俺の前に茶と茶菓子が置かれた。低過ぎて聞き取りづらい声に顔を上げた。理事長とよくいる力自慢。筋肉隆々な、堅気には見えない。既製品ではないだろうサイズのスーツをきっちり着込むと尚更だった。理事長のところで頻繁に姿は見るが名前を思い出せない。会議にはあまり出ないし、そう呼ばれているところに出会(でくわ)さない。 「すみませんね。いただきます」  指1本1本がウィンナーみたいな手が湯呑みや茶菓子を持ってきた様は滑稽だった。肉厚な頬に埋没したような円らな目とかろうじて視線が合う。人見知りなのか、顔を赤くして逸らされた。外見に似合わず気を回してくれる。だから理事長の側近じみた立場にいるのかも分からない。 「深月なら給湯室にいるんじゃないですかね」  あの親バカ理事長(ジジイ)は息子の送迎をこの力自慢に任せている。給湯室を完全に私物化していた。力自慢はまだ耳だの頬だのを赤くしながら頷いて、スッと職員室を出て行った。深月とは、ゲイポルノ雑誌の話をしてから、顔を合わせるのが苦手になった。アイツは頭はいいがバカだからよく分かっちゃいないだろうが、あの妙な純粋さがまるで鏡のようになって俺に跳ね返ってくる。男女の営みの意味さえ理解しているのかどうか。寛容さからみるに分かってはいるが理解はしてないだろうな。アイツは頭だけ良くて、バカだから。理解の及んでないまま、ゲイポルノ雑誌でみせたあの無関心に近い寛容は、何か俺を焦らせる。  渡り廊下からプールが見えた。あいつはストップウォッチを持って、部員のタイムを計っている。咲は顧問だが、もう趣味みたいに水泳を楽しんで、実質の顧問はあいつって感じだった。風信はあいつと仲が良くて、洗いコンクリートに足跡を付けながら、あいつの手の中のストップウォッチを覗き込む。2人の距離が近くて、窓から叫びそうになった。そのうち咲もベタベタと水滴を垂らしながら風信と挟むようにあいつの隣に立って、あいつ越しに風信と談笑している。胸が苦しい。あいつの隣に立ちたい。風信と場所を入れ替わりたい。何故俺は風信じゃないんだろう。不思議と咲にはそんな呆れた考えを抱かなかった。あいつを巡って俺が膝を着くのは、多分咲だけで、でも咲には妻子がいて、咲はあいつを好きにならないと思う。妹の旦那にしたいだなんて平然と言えるくらいだ。シスコンかってくらい嫁や息子の前はべったりだった妹の相手として不満はないくらいあいつに信用や信頼を寄せてはいるみたいだが、あいつの求めているもの、俺が苦々しく思いながらも認めちまうものとは正反対なくらい、比べて重ねるのは冒涜だってくらいに違っている。あいつの望んだとおりにならないことは嬉しい半分、多少の同情も否めない。だが俺はそこに付け込むしかない。正々堂々とした勝負なんて今の俺にはなかった。 「お~い!八重!」  プールから咲が大声で俺を呼んだ。大きく手を振る。咲と並ぶとまだそんなに日に焼けていない風信も俺を見上げた。だがあいつはそうするのが自然とばかりにその2人から離れて、屋根のあるベンチへ消えていった。まだあいつに気持ちを伝えていないから?だからそんな態度を取るのか。あいつは俺に嫌われていると思っている?それともあいつは俺が嫌いなのか?嫌味を言って、挨拶まで交わしてくるくせに?俺の言葉を買うくせに?俺のことをスルーできないくせに? 「八重さんだ!」  いい歳こいて力自慢に手を繋がれた深月が窓の外を見下ろしていた俺を現実に呼び戻す。 「何してるんですか?」  力自慢の手を解いて、俺の隣に駆け寄り、窓の外へ身を乗り出す。 「危ねぇよ、バカ」  深月の襟首を掴んで引き戻す。力自慢も俺の隣に来た。 「あ!秋桜先生!」  無邪気に深月は手を振った。屋根のあるベンチからあいつも姿を現した。 「美仁先生~!」  ばたばたとはしゃいでまた身を乗り出す深月を力自慢と共に支えた。 「風信くんも~」  遠慮がちにあいつは深月に手を振った。他意はない。生徒に、弟みたいに入り込んでくる深月に手を振り返しただけだ。分かっている。だが俺があいつから得られなかったものを深月は当然のように、疑問すら抱かずに、自然の流れで与えられて、催促できる。 「()り。用事思い出したからここでな。気ィ付けて帰れよ」  深月は聞いちゃいなかった。 「…ヤエサンモ…オキヲツケテ」  力自慢の掠れ切って低い声に俺は手を振って返した。見た目は怖ぇけどかわいいヤツだな、とこの時ばかりは身に染みた。職員室に戻ってとっとと退勤しちまっても良かったが、家にいてもやることは悶々とあいつのことで答えのない問答を繰り返してはムラついて妙な妄想に耽って虚しくなるか、嫌な想像するかだった。それならあいつが戻ってくる可能性のある職員室(ここ)にいたほうが、まだ、何か救われる気になる。  部活終了時間の音楽が鳴り、職員室からみる窓は紺色になっていた。数枚しか採点は進んでいない。職員室に失礼しま~す、と間の抜けた声が響いた。 「失礼するなら帰れよ」  声の主が誰なのかは分かりきっている。だから無意識に悪態を吐いていた。 「じゃあ帰りまっす」  鍵棚に近い席ってのは損なもんだ。聞こえていたらしい。真に受けた感じはなく冗談めかしてソイツは言った。顧問に任せとけばいいのによ。そうすれば、妬くには立場も歳も違うコイツの顔を見ずに済んだ。可愛いダックスフントのはずなのにな。俺の求めたものを向けられているわけでもないのに、それでもあいつの傍にいられる。あいつに笑いかけられて、あいつの綺麗な声を聞けて、あいつの横顔を隣で見ていられる。 「鍵くれぇ顧問に預けろ。副顧問は気が利かないのか?」  情けない手前から目を逸らしたい。コイツとはもうまともに顔も合わせられないのか。数学の授業(とき)どうすんだ?教師も人間だ。贔屓くらいあってもんだ。 「月下せんせ~が返してくれるとはおっしゃったんすけど、自分で返したかったんですよ。八重せんせ~にも会えますし」  へへっ!と小憎らしいトイプードルは茶化したような笑った。 「前から思ってたんですけど、やっぱ仲悪いんすね。びっくりです」 「っせぇよ。…なんで嬉しそうなんだ」  勝者の笑みなのか?柴犬はにたにたとニヤついて、頭にはキたが生徒(ガキ)の言うことだし何より可愛い子犬の喧嘩は買うほうが馬鹿だ。 「じゃ、また明日!また見に来てくださいよ。もっといいタイム出すんで」 「お前のタイムなんか知るかよ…」  言い逃げして風信は上機嫌に職員室を出て行った。ヤツとすれ違うように反対のドアが開いてタオルを首に掛けた咲とあいつが職員室に戻ってくる。話題は風信のことだった。大会の話だろう。あいつは俺には絶対に見せやしない顔で嬉しそうに話して、咲はあいつを勘違いさせそうで俺にも純和(すみか)にも深月にも風信にも見せている笑顔で応じている。静かなあいつが自ら話を振って、咲はそんなことにも気付かずに。可哀想なやつ。咲は適当に荷物を纏めて、暑苦しい挨拶をして、俺にダルく絡んで、腹が減ったというから力自慢が置いていった茶菓子をくれたら、大喜びで帰っていった。視線を感じる。以前の俺なら喜ばしくなかったもので、でも、今ならたとえそれが好意的なものでなくたって、嬉しいもの。 「つきも、」  呼んだ瞬間、視線は途切れる。書類を机の上で整えながら、帰り支度を始めていた。

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