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第2話

-霖雨-  美仁先生にチュウしてる。理科室の機械が音を立てる。メダカが水槽の中でボクたちを見ているみたいな気がした。ボクの手首を掴んでおいて拒まない美仁先生からは、慣れている感じがあった。どこまでならいいの?ボクは舌を伸ばした。先生の唇を割り開いたところで、離れちゃう。染井先生じゃ、ないから? 「染井先生のコト、」 「ええ、好きですよ。同じ職場で働いている人ですからね」  ボクの髪を冷たくて薄くて硬い掌が撫でた。少し背の低いボクに目線を合わせて屈まれて、顔を覗き込まれる。 「ボク、先生のこと好きです」  染井先生の真似をしてみたら、この人の奥を知れるのかな。考えるより先に口が回った。 「ありがとうございます」  届いてない。ふわりと微笑まれる。無難な返し。ありがたくなんてないくせに。それなら染井先生に見せたカオしてよ。きっとそんな風に笑ってない。困惑してよ。困りますって言ってよ。ボクに困ってよ、染井先生よりずっと、困るでしょ。だってボクは未成年で、生徒なんだから。 「授業が始まっていますから、ね?」  ボクを帰そうとして、背中に硬い掌が添えられる。 「風信くんはどうして?」 「大会の日のテストの話をしていたんです」  ボクは美仁先生の袖を摘まむ。もう一度先生にチュウした。先生はやっぱり拒まない。 「ぅ、あ、」  舌を挿し入れても、今度は許してくれた。口腔を掻き回す。無抵抗な舌が絡んで、頭の奥がじんじんした。気持ちいい頭痛って感じに響いて、先生の口の中にさらに近付いた。くぐもった声をもっとずっと聞いていたい。でも楽しい時間なんて呆気ないもので。 「満足していただけましたか」  口の端を垂れていくボクのかも先生のかも分からない唾液を拭う姿にドキッとした。染井先生は見てない姿だと思う。だって染井先生のこと、拒んでた。ボクは首を傾げた美仁先生に頭を振った。だって美仁先生はボクにされるがままだっただけ。そんなのじゃ、満足できない。 「…そうですか。困りましたね」  嘘だ。困ってるはずない。ただボクを躱したいだけだ。染井先生の躱し方はもっと下手だったクセに、ボクには手慣れたやり過ごし方をする。ボクより染井先生のほうが特別なの?ボクが理事長の息子だから遠慮してる?それとも数をこなしてるの?ボク以外にこの人を困らせた人がいるんだ。麻痺するくらいに。慣れて、何も感じなくなるくらいに?つまらない。そんなのつまらないよ。カッとなって美仁先生を理科室の6人掛けの大きな机に押し倒す。びっくりしたみたいな目を向けられて、脳味噌が沸騰しそうだった。下半身が重たい。肩が凝る。喉がカラカラして、目の奥が熱い。歯が変な感じがして、顎が何かを噛みたがっている。 「津端く、ん…?」  美仁先生の胸を服の上から摩った。薄い胸板。白い首筋を齧りたくなる。少し長い髪から見えた耳朶(みみたぶ)を舐めてみたい。唇も、もっと、食べたい。でももうちょっと遊びたい。心臓の音が聞きたかった。胸に耳を当てる。仰け反った体勢だから、美仁先生、腰と背中、痛いだろうな。でも気にしていられなかった。ボクより少し速くなってる鼓動を聞いた。 「津端くん、いけません。教室に戻らないと…!」  子供に言うみたいな言い方だったけど、焦りは隠しきれてなかった。そういうつもりはなかったけど、これで正解だったみたい。 「津端く、」 「うん、美仁先生。教室に戻ります。ボクが満足したら」  次はどうしたら焦ってくれる?困ってくれる?どうされたくない?どんなことされた嫌?怖い?鼓動を聞きながら脇腹を撫でる。細いな。背は高いけど、痩せてる。 「そ、んな…」  ボクを押し返そうとする荒れた手を剥がす。洗い過ぎ。几帳面で神経質だからな。よく手を洗ってる。実験器具も洗ってるけど、水道の近くでよく捕まえたもん。保湿力の衰えた手に無香料のハンドクリームか何か塗ってるみたいで石鹸とは違う抑えられた医薬品独特の匂いがした。それでそのまま口に入れた。美仁先生の指を甘噛みして、棒キャンディみたいに舐める。味なんてほとんどない。強いていうなら人間の塩の味が微かにするんじゃないかな。でもそれはただの固定観念の話で、味覚はちゃんと美仁先生の味を教えちゃくれなかった。 「津端くん、放してください…」 「嫌です」 「どうして…」 「先生が嫌がるから」  指を歯と内膜の間に挟んで喋ると唾が溢れそうだった。ふやけた指をまた奥歯で噛む。 「嫌がってなんか…」  困惑してる。ここまでやって、やっと染井先生の告白と同じレベルかそれ以下なんだ。そんなに染井先生のこと苦手なんだ。羨ましいな。じゃあ染井先生にこうされたら、どうなっちゃうんだろ?どんな風に嫌がるの?怒る?困る?泣く?つらい?嫌だ?気持ち悪い?取り乱す姿を想像して、下半身がまだ重苦しくなる。むずむずした。パンツに変なふうにぶつかって気持ち悪い。ぞわぞわする。膝がカクカクした。そのまま美仁先生の上半身に寝そべった。先生は少しだけ苦しそうに呻いてまたボクの股間がずくんずくん息をする。 「あ、ぅ、」  動いた美仁先生の脚がボクの変なことになってる場所に当たって、びっくりしてボクは声を漏らした。美仁先生はぎょっとして青褪めて、ボクはそのカオで訳の分からない気持ちになって、這い上がって同じ場所がスラックス越しに重なった。腰が揺れる。美仁先生はボクをただじっと見つめて固まってた。怖がってるみたいだった。 「だめ、ですよ…」 「美仁先生…美仁先生、」  名前を呼ぶたびに擦れる脚の間が熱を持つ。変だ。機関車みたいな気持ちになる。美仁先生を呼ぶたびに腰が止まらない。ボクのソコの下で、美仁先生のソコもなんだかごつごつしていた気がした。でも、ガラガラって理科室のドアが開いちゃった。 「…ツバタサン…」  暮町さんだ。お父さんの部下の秘書でボクのお守り。ボクが授業に出てないって知って、迎えに来ちゃったんだな。 「…ツバタサン」  表情なんてない。ボクたちのところに来て、ボクの首根っこを掴んで美仁先生とは引き離される。美仁先生なんてまるで存在しない人扱いで、ボクにおっかない顔を近付け、ボクの名前を呼ぶ。暮町さんはお父さんと染井先生のこと以外どうでもいいんだから。教室の近くまで送られて、ボクにお守りがいるなんで極秘みたいなものだから、クラスのみんなには見えないところでお別れだけど、ボクが教室に入るまでじっと小さな目を離してくれない。教室に入ると真っ先に風信くんも目が合って、少し嫌な気分になった。美仁先生と仲良く話せてよかったね!って言ってやりたくなる。ボクは黙って席に着いて、何事もなかったみたいに授業に混じる。校庭から秋桜先生の吹くホイッスルが聞こえた。そのあと、興奮気味の叫び声。サッカーの授業でも熱くなってさ。パンツの下でちんちんが萎んでいく。 -瑞雨-  お前のこと待ってた…ってのは言い過ぎで、でもお前のこと見たいから待ってた、ってのが正しいが、この際どうでもよかった。引き止めちまって、あいつは迷惑そうな顔をした。 「忙しいのですが、何か用事ですか?」  貴方と違って、とでも続きそうだった。 「手短に済ませていただけるとありがたいのですが」  呼び止めたはいいがあいつはすたすた職員玄関まで行く足を止めない。だから俺も追っていた。言うか、言うまいか迷いながら。咲が妹のことを話しちまうよりは早くしないとならないが、今の段階でこいつは俺のこと大っ嫌いだろう。負け確定。それでもやるか?俺はお前のこと嫌ってないってアピールにはなる? 「あ…いや、」 「では後日に」 「あ、待て」  睨まれる。こいつの前で咲に菓子くれたこと怒ってる?そんなガキみてぇなこと考えないだろフツー。 「なんですか」  靴を履き替えているこいつは俺まで靴を履き替えたことに怪訝そうな目を向けた。眉間に皺が寄っている。神経質で脆そうな部分がまた俺の胸を締め上げる。 「車まで送ってく」 「…要りませんよ。馬鹿にしていらっしゃるんですか」  時間稼いだって数十秒、数百秒じゃ答えを出すにはまったく足らない。駐車場に向かっていくあいつの腕を掴んで止めた。 「一体な、…」 「好きだ」  勢い余って掴んでいた腕を引いた。背丈のそんなに変わらない男は、それでも不意打ちだったこともあってか俺の胸に容易く身を傾ける。だが弾かれたように俺の胸に手を着いて、俺の腕の中から消えていった。 「揶揄わないでください。失礼な人だ」  俺はぽかんと口を開けて、冷静だったなら想定できていたはずの、まったく予想だにしていなかった返答を受けた。真剣に受け止められるものだと思っていた。その場で、好きな人がいるだとか、遠回しな言い方だとしても友達から始めたいだとか、自分を棚に上げて、男とはムリだとか、そういうものを想定していた。 「月下…」 「そこまで嫌われているとは、思いませんでした」  もう俺になんか構わずにあいつは暗い中に溶け込んでいく。諦めるか?諦められるのか?玄関の電気がいやに眩しい。冗談じゃなかったはずだ。本心だ。言葉が足らなすぎた。これからは毎日言おうか?毎日は言い過ぎだ。中身が軽くなりそうで。行動で示す?やるだけ嫌がらせとでも思われそうなものだ。だが正直に話さなければ今みたいに空回る。  人生初の告白というものが呆気なく終わって数日、力自慢と話すあいつを見かけた。あいつは咲や風信ほどじゃなかったが砕けた様子で無表情の力自慢と話していた。無防備だ。輪姦モノの脇役AV男優みたいな見た目の力自慢があいつのすぐ近くにいるってだけで激しい嫌悪感に苛まれた。それでいて初めてそんな失礼なイメージを力自慢に抱いていたことを自覚する。間違いがあったら困る。何よりあいつは俺が惚れちまうくらい綺麗だ。風信だってきっと惚れてる。咲でさえ妻子がいなきゃ分からない。力自慢が惚れない道理はない。あの丸太みたいな腕に押さえ込まれたら逃げられるのかよ?不穏な心地を誤魔化すように理屈を並べた。好きだ。咲に涙する姿が焼き付いて離れない。俺への嫌味ひとつひとつが忘れられない。俺に晒す棘でさえ俺にだけならありがたい。どうして俺には笑いかけてくれない。どうして俺じゃダメなんだ。咲の持つ器に届かないから? 「月下!」 「…ヤエサン…コンニチハ」  あいつに近付き過ぎの力自慢が先に反応を示してあいつから少し距離を空けた。あいつは俺を驚いたように見るだけだった。 「悪ぃ、こいつと話があんだわ」  力自慢は無表情で、ちらちらと俺とあいつを見遣った。お前にこいつはやらない。目で圧迫してやれば、俺に頭を下げてその場を立ち去ろうとする。 「待ってください、暮町さん」  でもあいつが力自慢を止めた。暮町、そうだ、確かそんな名前だった。あいつは力自慢を追いかねなかった。肩を掴む。 「…ヤエサン…マタ、コンド…」  低く掠れた声で俺だけを見て力自慢は顔を赤くして、のしのし歩いていった。あいつは力自慢の背中が見えなくなるのを見て、俺を忘れている。 「どういうつもりなんですか」  怒気を含んだ声も聞き惚れる。俺は末期か。 「大事な話をしていたのに…」 「襲われたらどうするんだ?こんな人目もないところで?」  張り手が飛ぶ。乾いた音が廊下に響いた。頬が熱くなる。それから痛くなる。頬が?違うところが。 「この際私を侮辱するのは結構です。彼を悪く言うのは許せません…!」 「どういう関係なんだよ?」 「貴方には関係ありません」 「いや、ある。好きだって言ったろ。他の奴等と一緒にいたら気になるのは当然だ」  あいつは不愉快極まりないって感じで俺の前から去ろうとする。 「月下」 「こんな回りくどいやり方はありません。私が秋桜さんを好きだから、馬鹿にしているんでしょう」 「やめてくれ。咲は関係ない。聞かなかったことにしてやる。妬かせるな」  咲に嫉妬なんて馬鹿らしい。あの男は妻子持ちで、俺の憧れで、兄貴分なんだ。嫉妬なんざくだらない感情で汚していいものじゃない。そんなものをあの男に向けたくない。だが感情は上手く割り切っちゃくれない。懺悔みたいにアホほど素直になってみれば、あいつは俯いた。咲のことが好きなのは分かる。いい男だ。太陽みたいな男だ。俺にとっても父親で兄貴みたいなやつだった。折り合えない理性と恩と感情が綯い交ぜになる。 「こんな人目もないところで、襲われたらどうするんだ?」  あいつの腕を鷲掴んで、壁に縫い留める。止まらない。抑えられない。咲が好きなこいつと、咲に惚れてる俺。似合ってるだろ? 「や、め…」  重なった唇から融けていきそうだった。強張った身体を押し付ける。最低だ。こんな強姦と変わらないようなこと。でも抑えられない。 「ん、ぁっあ…」  唇を抉じ開けて舌が触れる。一体誰がこの味を知ってる?ぶちっとした感触があって舌先に痛みが走った。隙を突かれて蹴られる。壁伝いに座り込み、俺を恐れているのか、息が上がっていた。杏みたいな色の唇が赤く染まっていて、変な気分になる。 「最低です」  潤んだ目が俺を睨んだ。突然、強烈な同情が沸き起こった。泣かせたいわけでも、困らせたいわけでもない。思い出せ、こいつから何を望んでいる?咲に見せる笑顔じゃなくていい。風信に対するほどの砕けた態度じゃなくていい。せめて力自慢には晒していた声と和らいだ表情くらいは、今は。 「好きだ」  睨んだ目が顔ごと俺から逸らされる。 「好きだ。好きなんだ。もう抑えられない。きちんと返事がほしい…」  あいつは何も言わずに口元を拭って、どこかへ行った。少し頭を冷やそう。それからまた伝える。 -霖雨- 「また八重さんを見ているんですね」  渡り廊下からプールを見下ろしている染井先生を見つめている暮町さんに暇潰しに話しかけた。何を話しても黙ったままでつまらない人だ。窓から振り返って、いつも無表情のクセに薄くて生えてるのか剃ってるのか分からない眉毛のあった部分が少し動いた。困惑してるんだ、無表情のクセに。 「好きなんですか、八重さんのこと」 「………ハイ」  また窓の奥に小さくいる染井先生に目を戻している。 「なんで?どこが好きなんですか」 「………」  無視はしてないみたいだった。もう一度太い首を曲げてボクを見るけど、返事はなかった。これといって理由がないのか、素直に肯定したクセに恥ずかしいのか。染井先生、「カッコイイ」からね。見た目は。暮町さんも可哀想だな、本当は情けなくて弱い人なのに。虚勢に騙されて。 「でも八重さんは、美仁先生のことが好きなんですって」 「……ソレハ、ナイショノコト…デス…」  ああ、知ってるんだ。知ってて好きなんだ。よく見てるんだな、染井先生のこと。 「…ツバタサンモ…ゴナイミツニ…」  つまらない話をしちゃったな。ボクは返事をしなかった。言い触らしてやりたいよ。でもいけない。染井先生のことはボクなりにスキだからね。渡り廊下の染井先生は熱心にプールを見下ろしていた。男子水泳部しかないからあれだけど、女子水泳部が発足されちゃったら職員会議ものだよ。 「八~重~!!!」  秋桜先生が雄叫びを上げている。本当に仲良いな。秋桜先生に恋人が出来たって知った時は悶々とした。もうボクらだけの秋桜先生じゃないんだな、って。ボクだけかな。染井先生はフーンって感じだったけど。もうボクらのお父さんみたいで、お兄さんみたいな存在じゃいられない。法的な、社会的な、個人的な優先順位が下がっちゃうんだよ。でももう慣れた。暮町さんはプールに向かって冷めた態度で手を振り返している染井先生から目を離して、窓際から離れてしまった。 「大丈夫ですよ。あれはただの家族仲みたいなやつですし」  ひまわりの種みたいな目がボクを一瞥するだけ。複雑だな。ままならないや。  間が悪いと思った。一度ならず、二度も出会(でくわ)す。どうして青春ドラマみたいに屋上とか体育館裏とか行かないの?染井先生がまた美仁先生に言い寄っている。同じ単語の繰り返し。感情の押し付け。相手に同情をせがむような声音。あれが女子の憧れる染井先生?暮町さんが好いてる染井先生?ボクのお兄さんみたいだった染井先生?秋桜先生の相棒だった? 『月下』 『よしてください。ここは学校です』 『咲はお前のことを好きにならない。期待があるなら諦めてくれ』 『好きでいるくらいいいでしょう…!諦めたところで貴方のことなんて好きにならないっ!』  ああ、いいな、染井先生。優しくて綺麗な美仁先生に怒られて、拒まれて。っていうか美仁先生、秋桜先生のこと好きなんだ。ああ、壊されちゃうな。秋桜先生の家族がやっとボクの中で砕けて解けていったのに、また引っ掻き回されちゃうな。気に入らない。ボクの世界がごちゃごちゃにされる。美仁先生に。ボクと染井先生と秋桜先生の世界が、ずたずたにされる。 『あんたがつらくなるだけだろ。それであんたは、俺に八つ当たりするんだ。自分の失恋を出汁に俺を妬かせて楽しいのか?でも、その関係も悪くない。だが俺はあんたともっとその次にいきたい』 『貴方には関係ないんですよ。あの人の傍にいられるならそれでいいんです。どうして私の幸せの邪魔をしようとするんですか。好きだなんて言って、私のことを軽んじて馬鹿にして、陥れたいんじゃないですか…』 「そうですよ、秋桜先生のこと好きなら諦めてください。既婚者なの分かってますよね」  なんでボクが隠れてなきゃいけないんだろう?好き放題やらかしてる大人たちに合わせて。ボクの登場に2人は驚いたみたいだった。持ち直したのは染井先生のほうがずっと早い。ばつの悪い顔をしてボクから目を逸らした。 「津端くん…いつから…」 「"返事は分かってるつもりだが素直に俺の好意を受け取って、きちんと言葉にしてほしい"からですね」  染井先生はうんざりした様子で髪を掻いた。 「ほぼ最初からじゃねぇか」 「だからこんな時間にこんな場所ではリスクがあると…」 「深月、このことは黙っとけ。俺が勝手に言い寄ってるだけだからな。他言無用だ」  偉そうだな、染井先生。こんなに惨めな目に遭ってまだ足掻いてる大人のクセにさ。 「いいですよ。でも美仁先生が秋桜先生のこと諦めたらです。既婚者に対してなんなんですか。気持ちの悪い」 「おい、深月。謝れ」  頑固になったモードの染井先生だ。だって腕組んでる。声は冷静そのものだけど。これが女子たちの憧れてた染井先生? 「八重さんはそんな人じゃなかったはずです。なのに惨めに脈のない相手にしがみついて虚しくないんですか」  なんで美仁先生が傷付いたカオするの。飛び火しちゃった?ああ、この人も惨めに秋桜先生にしがみついてるんだった。 「俺はどっちでもいい。月下、お前が決めてくれ。お前に言い寄っていることが明るみに出ても俺は別に困らない。俺はな」  染井先生が先に言ったのに。秋桜先生のこと諦めろってさ。染井先生はじっと美仁先生のこと見ていた。 「深月。俺のことは言っていい。でも咲とこいつのことは言うな。頼む」  腐れ縁の情?ボクにとって染井先生は本当のお父さんとはまた別に秋桜先生と並んでお兄さん寄りのお父さんみたいな人だから。 「別に言いません。面倒臭い。誰が信じるっていうんですか。吹き込む相手なんていませんし、今頃学校裏サイトなんて流行りませんよ」  染井先生は肩を竦める。相変わらず美仁先生は黙ったきり。甘えんなよ、染井先生に。今どんなカオしてる?どんな気持ち?つらい?悲しい?こっち向けよ。 「美仁先生、これだけは知っておいてくださいよ。秋桜先生も八重さんもボクにとっては家族みたいなもんなんです。秋桜先生の家族のことだってボクは馴染むのに時間かかったんです。下手打ってあのイイ人たちを掻き回すなら許しませんからね」  染井先生は、あーあとばかりに頭を抱えた。 「よせ、深月」 「八重さんが言いたいのはこういうことじゃないんですか」 「半分は。傍で咲たち家族の仲の良さを目の当たりにして、耐えられるのか?外で話してる数倍は仲良いぞ。妹夫婦に落ち着いて、妹を蔑ろにでもしてみろ。苦しむのは咲だ。あれで責めるべきところは心得てるからな」  妹?純和(すみか)さん?妹夫婦って何?どういうこと。 「喋りすぎた」 「黙ってますよ。秋桜先生のことは困らせません」  俯いてる美仁先生はやっぱり綺麗だった。泣いてる?つらい?悲しい?ボクにもっとよく見せてよ。ボクだけに見せてよ。苦しむために秋桜先生のこと好きになったの?ボクにそのツラを見せるために? 「行くぞ、深月。今は1人で考える時間だろ」  腕を引かれ給湯室に連れて行かれる。でもドアを閉めてボクの目の前に座った途端、事務机に肘をついて、頭を抱えながら俯いてしまった。相当堪えてるみたいだった。何に?ボクに見られたこと?多分だけど秋桜先生への美仁先生の想いの強さに。この人、こういう思いしたことある?女子の憧れる染井八重先生は? 「…八重さん」 「理屈だの理性だのじゃ割り切れねぇものもあんだよ」  染井先生は顔を上げない。 「なんですか。説教ですか」 「違ぇよ」  染井先生のこんな姿みたくなかった。ボクの憧れが、あの綺麗な人を前にこんなみっともなくなるなんて。もっと飄々としてたはずだ。もっと堂々としていたはずだ。もっとカッコよかったはずだ。ボクと秋桜先生を冷静に見ていたはずだ。こんな人、ボクのお父さんでもお兄さんでもない。 「はは、嫌になっちまったか、俺の無様な姿みて」  自嘲的な染井先生はやっぱりらしくなかった。嫌だな。この人のこういうところは見たくない。 「別に、いいんじゃないですか」 「安心しろよ、お前にしか見せねぇから」 「美仁先生に見せてた」 「…あれはいいんだよ」  大人の事情ってやつ?嫌だな大人って。スレてて。ボクってまだまだ子供なんだな。 「なんで…」 「好きなんだよ、あいつが。誰にも偽りたくない。お前になら尚更」  あんなに長く一緒にいるのに、染井先生はボクがこんなこと言われて不愉快なの、気付いちゃくれないんだ。血が繋がってないから?同年代じゃないから?先生と生徒だから? 「拗ねんなよ」 「拗ねてないです」 「いいや、拗ねてる。何年一緒にいたと思ってるんだ」  頭を撫でられる。いきなり、暮町さんに強い申し訳なさが浮かんで、眼球から水が出てきた。

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