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第3話

-瑞雨-  テニスコート脇で数ヶ月ぶりにヤニを吸っていた。吸い始めた頃は1日に何本も飽きずに吸っていたが、最近は禁煙に近いことになっている。依存するほどでもなかったが、それでも1年は続かない。 「八重せんせ!」  人懐こいビーグル…ビーグルはこいつに当て嵌めるにはちょっと逞しいな。転びそうなくらいはしゃいで駆け寄ってくる可愛い子犬は俺に突進しかねない勢いで止まった。携帯灰皿にタバコを潰すと、不満げな顔をされる。 「吸ってていいんすよ、勝手に来たのオレのほうなんですし」 「そういうわけにもいかねぇんだよ」  へへ!と風信は悩み事のひとつも無さそうに笑っている。意外とこういうやつに深刻な悩みとかあるんだろうな。 「聞いてくださいよ~!あっちにこんなでっかい野良猫いたんすよ!」  ねぇな。 「いいな~、飼いたい」 「体育館裏によく来てるぞ。餌付けでもしてやれ」  たわいもない話で風信は盛り上がっていた。話題は俺の担当じゃないクラスの誰某(だれそれ)が誰々に告白してそれがなかなか抉れていて…だとかそんな艶めいたものに移って、優等生のコイツもそういうことに関心があるんだな、と思っていた。 「風信は?そういうのあんのか」  コイツに耳だの尻尾だの生えてたら、ピーンとしてたんだろうな。目を真ん丸くして、本当に可愛い子犬みたいだった。さながら柴犬だな。何気ない会話の延長のつもりだったが風信は完全に固まっていた。 「風信?」  目の前に手を翳す。人感センサーみたいなヤツだな。 「ああっ、いや。まだそういうのないっすね。八重せんせ~はどうなんです?もうそろそろいい人見つかりました?」  ふざけた態度は少し緊張感があった。童貞か?それもかなりのウブめの。 「まぁな。見つかっただけなら」  誰とは言わないが。特に否定するという選択も浮かばなかった。コイツの知らない人なんて可能性は大いにあるわけで、突っ込んだことも訊いてこないだろう、こんな話の弾みに。まさか自分の部活(ところ)の副顧問だなんて知らずに。 「…そっすか!応援してるっす!」  可愛いヤツだな。5分前のチャイムが鳴って風信は教室に戻っていった。 「いやぁ~知らんかったよ、染井くん。君にそんな人がいたたぁね」  背中をドンっと叩かれる。大砲で撃ち抜かれたのかと思った。咲だ。 「ンだよ、咲か」 「随分丸くなったな」 「人誑しだからな、風信は」 「ふふん。飛広也(ひろや)に限らずさ。この前も随分ご丁寧に生徒くんのコンタクトレンズ探してたみたいじゃねぇか。心配してたんだよ、お前の人嫌いっぷりをよ。教師合わねぇんじゃねぇかってな」  咲がタバコを咥え、俺はライターを出して火を点けた。咲は苦笑いする。人に言えない職業みたいだからやめろ、と言うが2人になるとついやっちまう。火の点いたライターを差し出せば咲は蔑ろにはしなかった。便所使ったら水を流す、ドアを開けたら閉める、みたいな流れで。 「見てないところで意外と見てるんだな」 「教師なんて大体そんな仕事(もん)だろ。見えたものだけ見てちゃ、ただむやみに卒業までの時間潰したようなもんだろ」  結婚してから、それからもっと、息子が生まれてから、咲はどこか俺と深月を置いて違う世界を見ているような、立っているステージが違うような、そんな感じがあった。でも咲から俺たちが近い。俺たちからは咲が遠いのに。 「変なこと言ったか?」 「いや…いや。咲らしい。咲らしくて、ちょっとびっくりした」  嘘だ。咲らしくなんて全然ない。こんなことを言う人じゃなかった。もっと大雑把でだらしない人だった。 「純和(すみか)のことなんだけどよ」  とうとうこの話題が来た。それから俺はもしかして咲を避けていたんじゃないかと自分を疑った。無意識だったなら余計に(たち)が悪い。でなきゃわざわざ敷地外の暗黙的な喫煙所で喋ることもない。俺たちの関係なら。 「純和に任せりゃいいだろ。あんないい女、兄貴の紹介がなけりゃなんねぇほど放っておく周りの奴等がおかしいんだ。それともなんだ?虫除けでもしたってのか?」  俺は声を荒げていた。そんなつもりじゃない。でもそんな俺の調子にはお構いなしって感じで咲は図星を突かれて時によくやる変な笑みを浮かべた。ああ、あの妹も苦労する。 「お前、純和のこと好きなのか?」  少し嬉しそうに訊かれた。 「違ぇよ!俺にとっても姉妹(きょうだい)みたいなやつだぞ?ありえねぇ」 「それはちょっとムカつくな」  咲は悪戯っぽく口を膨らませた。 「ヨシは他に好きな女がいるみたいだからな~」  女じゃねぇよ。お前だよ、お前。お前以外に誰がいるんだよ。口にしたくなる。それで、めちゃくちゃにしたくなる。あいつだけに打撃を与えられるなら。でも実際は咲にだって与えちまう。そうしたら次は、深月と俺にクる。 「考え直すわ」 「なんか言われたのか?月下に」 「あ~まぁ。酒の席だったとはいえオレがしつこくし過ぎて、断りづらくしてたみたいだわ、いけねぇね!」  がはは!って笑い方は変わらない。あいつは咲の傍にいることを選ばなかった。嬉しさはある。だがそれだけじゃなかった。身体に大きな穴が空いたみたいだった。あいつはいつか、そのことを後悔して生きるのだろうか。あいつは確かにこの男のことが好きなのに。純和は兄貴の言うことに頭なんか振らないから、あいつは義弟に甘んじちまえば半永久的に咲の傍に居られるわけで。でもそんなのは、多分結婚生活での姻戚だのを知らない俺の安直な理想でしかないのかも知れない。 「ま、ヨシと仲良いのは八重くらいだからな。あんま気にすんなって伝えておいてくれや。オレから言うと嫌味になっちまうだろ?」  咲には、あいつと俺が仲良く見えるらしい。そういうところが、少し、少しだけ、寂しくなる。俺と咲の間に秘密も隠し事もなかったはずだ。 「俺から伝えるのも、ちょっと変だろ」 「そっか!そうだな!」  にしし、と笑う。嫁をもらってから、見慣れない笑顔が増えた。人にはこんなに、笑顔のレパートリーがあるものなのかと。俺は咲を通して人を見て、咲を通して世間を見て、咲を通して世界を見ているんだと思う。依存か、依存っぽいな。あいつにここまでの感情(もの)を求めちゃいないが、あいつは咲にそれだけのものを向けられるのか?覚悟は?あいつには俺みたいなのが似合ってるんだよ、最初から。 「じゃ、戻るわ」 「おう!」  咲は俺の不機嫌なんて気付かない。それが助かることもあれば、どこか悔しくなることもある。親離れ出来ないガキか、ブラコンこじらせた弟か。距離が広がると冷静になっていく。反省会は趣味じゃない。ヤニを吸って肺を汚した意味がない。職員玄関であいつとすれ違う。目が合った瞬間、気拙(きまず)げに逸らされた。俺から言うこともない。いちいち優雅な立ち振る舞いは見ていて飽きないが、俺は今、こいつに言い寄っちまうことを恐れている。みすみす咲の姻戚のポジションを見送ったやつの隙を突くのは後ろめたい。それでも本心は違うところにある。綺麗事で誤魔化すしかなかった。まだ好きだ。早く冷めたらあいつを楽にできる?いや、あいつは俺のことなんざ微塵も考えちゃいない。あいつを楽にしてやれるのも、苦しめられるのも咲だけだ。それが現実だ。そこに俺の妄想の余地はない。好きだ。好きだ。月下が好きだ。 -霖雨-  ねぇ、ボク、こんなこと望んでた? 「ん…は、ぁ、」  ボクの膝の間で美仁先生が跪く。腫れ上がったちんちんを食べられてる。美仁先生って、ちんちん食べるんだ。この前の仕返しみたいに、ボクのちんちんを舐めたり吸ったりして、一思いに食べちゃわないんだね。じゅるじゅる下品な音がして、美仁先生には似合わなかった。 「よ、…たか、せ…あっぅ、」  ちんちん食べられるのはくすぐったくて、背筋がびくんびくんして、腰がずくんずくんした。美仁先生は少し長い髪を耳にかける。露わになった耳が光ってみえて、ボクはまた前のめりになって美仁先生は苦しそうに呻いた。 「ん、っ、んっ、んっんっ、ンッ」  美仁先生はちんちんに舌を這わせながら頭を動かした。出たり入ったりする。口の中の柔らかいところが当たって、ボクは見えない力に腰を引っ張られる。唾液がトプトプ鳴ってる。美仁先生はちんちんを舐めながら頭を振って、ボクは失禁しそうになっていた。変だった。腰の辺りから何か出てきちゃう。止めようとした手を掴まれて両脇に置かれる。苦しそうな眉間の皺に身体が熱くなる。 「く、ぅん…ふ、んン…」 「だめ、だめ…っ放して、よし、た、…せん、出る、出る!」  ボクはちゃんと注意したのに美仁先生はさらにボクのちんちんを頭ごと舐めるスピードを速くする。ちんちんが爆発する。食べられちゃう。お漏らししちゃう。止まらない。力んで止めていたのにもうダメだった。目を瞑った。 「やだ!出る、出るっ、出…」  美仁先生はちんちんを吐き出すどころかもっと喉奥に呑み込んだ。絞られる。頭がおかしくなる。美仁先生の口の中でお漏らししてる。駆け巡っていく。びゅる、びゅる、って勝手に、断続的に排泄してる。美仁先生の喉が動く。飲んでるんだ。そのたびに喉から、ぅん、ぅん、て美仁先生の綺麗な声が漏れた。頭がぼんやりする。両脇で押さえ込まれた手が解放される。ちんちんが消えちゃったみたいに軽かった。本当に食べられたのかと思って、美仁先生にならいいかな、って思った。ちんちんの白い汚れを舐め取られていく。ちんちんを唇で挟まれて拭かれてるみたいだった。 「せんせ…」  なんで?まだボクは動けなかった。制服を直されていく。美仁先生は無言で何度か咳払いをした。喉の調子が良くないみたいだった。喉奥で変なおしっこしたから? 「怒ってる?」 「いいえ…」  まだ咳払いは続いた。綺麗な声が少し濁っていた。 「染井先生には内緒ですよ」  美仁先生の薄い唇の前に人差し指が突き立てられた。ボクはぼんやりしてその指の横にチュウした。美仁先生が目を細めて、ちょっとだけ悲しそうなカオをして綺麗だと思った。 「分かりましたか」 「はい…」  少し嗄れた声が軽くなったばかりのボクのちんちんをくすぐった。  給湯室から美仁先生が消えた。よくここが分かったと思う。ボクはあまり深く考えず、ネットでちんちんを食べる行為について必死になって調べたけど出てくるのは人肉食とか、ちんちんを模した料理とか猟奇的なポルノグラフィだった。美仁先生がボクのちんちんを舐める意味が分からない。だって汚い。変だよ。美仁先生の喉は、女の人の臓器じゃないのに。  数分後に染井先生が来た。疲れた感じがあった。少し隈がある。女子の憧れる素敵でクールでカッコいい染井先生は日に日に疲れてる。そんなに好きなんだ。 「八重さん」 「…なんだよ」  事務机に突っ伏して、眠そうだった。寝られてないんだろうな。 「ちんちん食べたことある?」 「ざけんな。俺はホモじゃねぇ」 「食べられたことは?」 「あるわけねぇだろ。立派なのが付いてるわ」  疲れた調子で本当に寝るというより落ちてしまいそうなくらい染井先生は怠そうだった。 「寝てないんですか」 「寝られねぇんだよ」 「お酒は」 「寝るまで飲んだら次の日に響く」  あ~とか、う~とか唸って、もう静かにして寝かせたほうがいいと思った。美仁先生も罪な人だな。珍しく弱った姿をみせる染井先生の髪を触った。白髪だ!若白髪だ。大変だなぁ、ホントに。 「やめろ」  くすぐってぇ、と手を押さえられる。事務机に上半身を預けたまま。変わっていくな。秋桜先生がそうなったみたいに。染井先生も丸くなっていくんだ。ボクだけの兄貴じゃいてくれなくなる。ボクより大切で、優先して、ボクにはなかった感情を伴って。美仁先生との関係は楽しい?何かが変わっていきそう?あんな優しい人じゃなかった。染井先生は。もっと厳しくて、感情なんてひた隠して、弱みなんて見せなくて、ボク以外の人にならそこまで酷いこと言っちゃうの?って感じの人だった。。歳がそうさせてる?美仁先生が? 「じろじろ見てんなよ、気色悪ぃ」  染井先生って脳天にも目があるのかな。 「八重さん、最近変だ」 「お前は昔から変だったよ深月」  語調にも覇気がなかった。このまま疲れて死んじゃうんじゃないかと思った。 「美仁先生のこと?」 「…かもな」 「秋桜先生のこと?」 「…だったらいい子にしててくれ」 「暮町さんのこととか?」 「なんでソイツが出てくんだ?」  別に。ボクははぐらかした。そんな返答が来ると思った。少しも伝わってないんだ。ボクは気付いたのに。気が利いて、よく気付いて、頼もしい染井先生が? 「おやすみ、八重さん。教室帰るね」  肘だけ立ててボクに手を振る。渡り廊下にいた時も思ったけど、染井先生は手を振るなんてことするガラじゃなかった。 -瑞雨-  浮かない顔をしたあいつが目の前に立っていて、何か話があるのかと思った。あいつに腕を取られて、理科準備室に連れて来られる。なんでか施錠までされた。ボコられるのか?なんて冗談を言ってやろうかと思った。 「月下?」  俺は俺の欲が怖い。顔を覗き込む。密室で好きなやつと一緒にいる。変な気を起こさないか、怖い。抑えられるのか?傷付けずに。拳を強く握る。こいつのことは傷付けたくない。 「染井先生」  呼ばれた嬉しさは白衣が床に落ちて消し飛んだ。シャツのボタンに手を掛けて、タンクトップが晒される。黒い肌着が月下の皮膚を際立たせる。シャツの襟で隠れた部分に鬱血痕が散っている。生々しい情交の形跡がそこにあった。胃が軋む。腹は減っちゃいない。だが空腹によく似ている。なかなかみる機会のない肩と腕を晒して俺に近付く。俺は後退った。手を出しちまう。きっと抱く。優しくなんて出来ないだろう。首を振った。下から睨むように顔を伏せて、月下は俺を壁に追い込む。抱かれるのは俺か?悪趣味な冗談が浮かんだ。 「抱いていいですよ」  明らかに月下は変だった。俺に身を差し出すように腕を広げる。 「貴方に抱かれたいんです」  誘われている。惚れて惚れて、妄想の中で泣かせて乱した顔が艶めいて笑った。だが何か違う。 「貴方だって、私をこうするつもりだったんじゃないんですか」  背に壁が当たる。素肌に挟まれた。手が出そうだ。華奢なこいつの背に腕を回しそうで。据え膳、食っていいのか?俺が逡巡していると、こいつは俺から離れて、少し埃の積もった長テーブルの上に座った。その行儀の悪さ、頓着の無さがどこか普段の神経質で几帳面、律儀なこいつの性分とズレていた。月下は俺と目も合わさないでベルトに手を掛けて、ファスナーを下ろし、スラックスを脱ぎ始める。シャツを羽織って黒いタンクトップと靴下と下着。異様な光景が卑猥だった。何よりここは学校で、そういうことをこいつは気にしていただろうに。 「何、してんだ」  俺は床に落ちたままの白衣を拾った。下着をゆっくりと脱いでいく月下に白衣を投げた。月下は据わった目で俺を射す。恨みがましい眼差しからはまったく真意が伝わらない。下着が落ちる。白衣もまた落ちた。スラックスの上に重なる。衣擦れの音に頭が痛くなる。羽織っていたシャツの下のタンクトップも胸まで捲り上げる。自身の指を舐めて、肌理細かな胸に触れる。震えていた。薄い唇を噛んで、くぐもった声を漏らす。シャツが肩から落ちて、袖に覆われた片手が脚の間に入っていく。胸を弄る手がゆっくりと動いて、俺は見惚れていた。シャツが擦れる音がする。 「ぅ、ん…っぁ、」  眉根に皺を寄せて、長い睫毛が伏せていた。悪い夢をみている。悪い夢だ。いい夢か?俺は手も出せないのに。  月下は体勢を変えて、俺に尻を向けた。四つ這いになる。そこにある窄まりと揺れる男のそれが目の前に晒されて、俺は鈍器で殴られたような気がした。思考も言葉も行動も追いつかない。黙ることしか出来なかった。こいつは月下か?本当に?中身は違う人間なんじゃ?俺の気が狂った?こいつを求めすぎて?俺はそんなに色恋に弱かった?  皺まみれになったシャツの袖が月下の節くれだった指を隠す。自分の尻に指を入れて、荒い息をしていた。つらそうだった。可哀想だ。 「月下、やめとけ」  シャツの上から細めな手首を掴んだ。涙を浮かべた真っ赤な目が俺を睨んだ。明らかな敵意だった。抱けなんて要求は嘘だ。俺の手を振り払うこともしない。 「やめてくれ。悪かった。変にあんたを不安にさせていたのかも知れない。どういう経緯か知らねぇが」  白衣を拾う。まったく予定になかった好きなやつの裸体ほどびっくりするものはない。衣類を全て拾い上げて俺は背を向けた。 「じゃあな。さっきのことは何もなかった。俺は何も見ちゃいないし聞いちゃいない。いいな?」 「どうして…抱かないんですか…」 「…あんたにまだ好きって言われてねぇ」  理科準備室を出たすぐの階段に風信が座っていた。俺が後姿に名を呼べば、可愛いマルチーズはすぐに振り向いた。ただでさえ大きな目を見開いて、無邪気に笑っている。俺のいた修羅場も知らねぇで。可愛いやつ。 「どうした?」 「いえ、別に。月下せんせ~見ませんでした?」 「そういや見てねぇな。理科室にはいなかったぜ。職員室でばしゃばしゃ手でも洗ってるんだろ」  風信は俺のことをじっと見つめるばかりで話を聞いてるのかも分からない。犬ってのはそういうものなのか? 「…そうっすか。探してみます。あざっした」  立ち上がって、忙しなく去っていく。元気なことだ。俺もどこかに行っちまおうかと思ったが、妙に気になって風信が座っていたところに俺も座って待っていた。本当に暇な場所で風信は何をしていたのだろう。あのまま理科室に来なくてよかったと思う。待ちくたびれた頃に背後から音がして、そろそろあいつが来るらしい。孤島みたいな理科室は、静かなあいつの居場所という感じがした。階段まで足音が近付く。 「遅かったな」  振り向いて、固まった。目元を腫らした真っ赤な目が白く大きく照っていた。神経質な眉毛がひくひく動いて、眼鏡の下から指が抜けていく。やっぱり不本意かよ。あんな変な真似。俺に言い寄られて迷惑だったのか?重荷だった?追い詰めちまっていた?言葉が渋滞する。無かったことだ。俺は知らない。何も見てない、聞いてない。だが感情はそうもいかない。 「なんで、まだ…いるんですか…」  今にもまた泣き出しそうだった。屈辱だろうな、そんな様を俺に見られるってのは。でも俺だって、好きだと告げた相手に恥かかせて、1人で泣かせて、不甲斐なさを晒している。 「風信が探してた」  つまらないプライドが月下を抱き締めさせちゃくれない。嫌いな人間に弱みを見せてるこいつに、なんで追い込むような真似するんだ?きっと咲なら抱き締めた。だって咲ならこいつに嫌われてない。きっと深月なら?こいつを泣かしたりなんてしない。のらりくらり躱して可愛がられたさ。風信なら?抱き締めたって下心も何心もない。 「…そうですか…」 「職員室にいるかもって言っちまった」 「では、…ッすぐ戻ります…」  まだしゃっくりみたいな嗚咽は止まっていなかった。俺は酷い男か?なぁ、咲?深月…  ゆっくり手摺に掴まりながら階段を下りていく月下を見送った。  眠れなくなった。手を出しておくべきだったのか?なんて悔いにも似ていた。理想論を並べて綺麗事を夢みても欲望は素直なもので、あいつの肉感だの、漏らす吐息だの、伝わる体温だの、目の前でみすみす逃したわけだ。好きだと言った相手からの据え膳を。ただ身体が動かなかった。昂ぶってはいた。シャツの下のタンクトップとか。あまり気にしたことなかった。シャツの質感が素肌に当たるのが苦手なんだろうな。神経質なあいつらしい。黒いタンクトップは刺激的だった。細いと思っていたが意外に引き締まった腕とか。あいつにのめり込んでいく。眠っちまうとあいつに手を出して、泣かせている。眠気の残滓でなんとか朝まで繋いで、本物が視界の端に入って、またあいつが夢の中で俺に身体を許して、泣かせる。そしてまた本物が視界の端に入って、渡り廊下で本物を見て、夜には。欲求不満か?満たしているつもりだ。いや、勝手に満足してほしい。夢の中で。自発的になれるほどの余裕がもうなかった。あいつに寝かせてもらえないという表現も強ち間違いじゃない。職員室で寝るわけにも行かず、空いた時間に給湯室に飛び込めば、深月がいたが気に留める理由もなかった。寝るってことを全面的に表明してもマイペースな深月は話しかけてくる。ちんちんを食べたことがあるかとかないかとか、昼間から何を考えているんだか。あいつのことが好きってバレて、拗ねてんのかもな。咲の交際はまだよかったが、結婚とそれから出産ってなった時の不安定ぶりはやばかったから。あれを恐れているのか。あいつと俺はどうにもこうにもなりそうにないのにな。お前のことは可愛いアホガキだと思ってるって伝えてやらないと、なんて鈍った頭は呑気なことを考え始め、途中からはろくに聞いていられなかった。 『い、や…あっ、んあっ、あっ、いやァ!』  またあの夢だった。やめてくれは、こっちだ。俺の家のベッドってところが生々しい。 『んっあ、あっ!ぁんッ』  両腕を交差させて引っ張る。タンクトップが揺れて脇腹がちらちら見えた。 『や、だ…ァ、ん、あっ、やめて、くださ…ぁっ、く、』  俺に犯されて、少しずつ溜まっていく涙が揺さぶるたびに雨のように散った。綺麗。 『やめ、いやぁ、あっ、あっ、だめ、気持ち…い、い…』  俺は一心不乱に腰を進めて、馬みたいだった。下腹部が熱を持つ。 『いや、あっあっあっ、抜いてっ、気持ちぃ、』  うんざりする。都合のいい夢。早く覚めてくれ。下着を汚すのか、まさか、職場で? 『八重さ…ぁっあ…だ…め…』  ぶつりと途切れる。チャイムの音が古びたスピーカーから鳴っていた。見覚えのあるAVに重ねて、あいつを抱く夢。オリジナルはもっと苦々しいもののくせに。それでもあいつと認識しちまってるもんだから、1発でも2発でも抜かなきゃ収まりがつかないほどに育っていた。肉欲で好きなのは否めない。それでもカラダだけの関係を求めるなら俺は安いプライドなんて捨てて、みっともねぇ面なんて晒さずに、泣いてたあいつを抱き締めて、それで。好きだ。苦しい。あいつのへし折るしかない気持ちと合流できない俺のちんけなエゴに張り裂けそうになる。  給湯室のドアが開いて、風信が中を覗き込んだ。ゴールデンレトリバーみたいな顔で俺を見て、無言のまま扉が閉まる。

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