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第1話 a cup of coffee

新人研修の一環か訪問件数稼ぎかは知らないが、下調べもせずに飛び込み営業に来るのはやめてほしい。 天羽はイライラしているのを相手に悟られないよう、そっと息を吐いて口角を上げた。柳の葉のような柔らかな弧を描く双眸に苛立ちの色が浮かんでいる。 落ち着いた声、丁寧な説明をしなくてはと自分に言い聞かせる。 「殆どの企業で効果がある、と仰いましたよね。でもうちの事業は企業相手(B to B)の中でもカスタマイズありきの製品なんです。このご提案はどちらかと言うと単価の大きくない消耗品向けではないかと思うのですが」 目の前の男の的外れな広告提案を聞くのは時間の無駄だ。それをはっきり伝えているつもりなのにどうも話がかみ合わない。 「えっと、それについては、あの、大丈夫だと思います。実際多くの企業でですね」 「具体的にどう言ったターゲットをもつ企業でしょうか? 多くの、とは何社中何社ですか? あと、大丈夫な根拠を示していただけませんか?」 ああ、イライラが隠しきれない。 クシュン! パーティションの向こうからくしゃみに続いて「失礼」と小さな声がした。営業が休憩に使っていたのだろう。 そして、その低く響く声が天羽の体温をじわりと上げた。 椅子を引く音がして、硬質な直線の上にウェーブのかかった髪が見えた。そのまま出入り口に向かってゆく。扉のところで背中が見えた。服越しにも見て取れる骨太で筋肉質な身体。 熊谷さんだったのか、あんな対応しなければよかった。 「あのぉ、このデータにある通りなので、細かい事は今データがないので分からないんです……なので一旦持ち帰って、社内の担当さんに御社用の提案を作らせて、で、またプレゼンさせていただければ」 半分意識を持って行かれていた天羽の耳に、神経質そうな声が刺さった。 敬語も丁寧語も無茶苦茶な話を逆ギレ気味になって口にしている男を見て吹っ切れた。天羽は泰然と微笑んだ。 「弊社のウェブサイトはご覧いただいてますか? 取り扱い製品がまとめてあります。簡単なものから、試作用のカスタマイズまで概要が書いてあります。弊社は業界の媒体にも定期的にプレスリリースを寄稿しております。まずはそれらをご一読いただければと思います。申し訳ありませんが、次の予定が入っておりますので申し訳ありませんがこれで失礼します。エレベータまでお送りします」 有無を言わさず会話を終わらせた。退出を促すように立ち上がると、相手は「へっ?」と素に戻り、悔しそうに睨み返してきた。そんな顔されたって仕方がない。これ以上話しても時間の無駄だ。 エレベータの扉が閉まるのを確認してから自分の席に戻ると、隣でデザイナーの吉本が大きなモニターとにらめっこしながらポスターを作っていた。集中している時に声をかけると嫌がられるので、天羽は黙って椅子に腰掛けた。 吉本は美大出身で、よく言えば天然キャラ、社内でもエキセントリックな社交家として通っている。天羽より二歳年長の彼女は、広報の経験もこの会社での在籍期間も長い。初対面からタメ口で話しかけられたのには面食らったが、年齢も性別も気にせずに話ができる相手だった。天羽がゲイであることも感づいているようだが、不用意に踏み込むことなく接してくれるので気が楽だった。 外回りの多い営業メンバー全員が出社する今日は、社内がいつもより賑わっている。 天羽はいつも通り仕事をしていた。産業関連の展示会は春秋に開催されることが多い。暑さのピークを過ぎたこの時期は、間もなく始まる展示会の準備に向けて忙しくなっていた。だからなおさら、飛び込みの営業で実のない話をされるのは苦痛だった。 先ほどの売り込みで渡された資料のうち、会社案内を残して後はゴミ箱に捨てた。男の名刺を付けて、業者ファイルホルダーに挟み込んだ。時計を見ると三時を過ぎていた。天羽は静かに立ち上がると給湯室に向かった。 コーヒーを淹れ、空いた応接スペースでガス抜きをしよう。そう思いながらふわふわと歩いていった。 カリカリカリ......ミルの中で豆が砕ける軽い音が響く。給湯室の狭い空間にコーヒーの匂いが広がってゆく。 ここで働き始めてもうすぐ半年になる。仕事は順調だし、人間関係も特に問題ない。ボロボロの精神状態で逃げるように辞めた以前の職場からは想像できない程健全だ。でも、生活が落ち着くと人恋しさが募ってきた。性的指向を公表するつもりはもちろんないから、気兼ねなく遊びに行ける相手はごく少ないゲイの友人に限定される。と言っても、この数年恋愛に振り回されていた天羽は友達も少なかった。 そろそろ新しい出会いを求めて行動した方がいいのだろうか。このまま何もしなければ、休みの日も一人で過ごさなきゃならないんだろうな。そんな事を漠然と考えていたら、薄暗い給湯室に影が射した。 入口に人が立っている。天羽も決して背が低い方ではないけれど、更に頭半分程背が高い男がそこにいた。熊谷(くまがや)(たすく)だ。 「あ、どうぞ」 お茶でも淹れに来たのかと思った天羽は、柔らかく微笑んで狭い空間から出ようとしたが、熊谷は出入り口から退く気配を見せなかった。その代わり、クンクンと鼻をならしながら天羽の手元を見た。 「お疲れ様です。いい匂いですね」 「お疲れ......様です」 口を開いたまま言葉をつづけることができない天羽を促すように、熊谷は小首を傾げて微笑み返した。彫りの深い顔立ち。全てのパーツが際立って見えるけれど、笑顔はやわらかい。何より、天羽にとっては見覚えのある顔だった。 黙ったままの天羽が自分の名前を思い出そうとしていると勘違いしたのか、熊谷は冗談めかして胸に手を当て、恭しく名乗った。 「営業の熊谷です、天羽さん」 知っている。さっきくしゃみしたのもあなたでしょう? あの意地悪な対応を聞かれていたのだろうか。あれは向こうの営業の提案が的外れだったんです、いつもはちゃんと話を聞いているんです。と説明するのもなんだか言い訳がましいし。 「すいません、度忘れしてしまって」 名前を忘れていた振りをして微笑み返すと、大きな瞳が人懐っこそうに細められた。ああ、やっぱり似ている。喜びと不安が同時にかき立てられて渦を巻く。持て余すしかない感情に囚われないようにぐっとこらえた。似ているけど、違う。そもそもこの人が醸し出す空気はとは正反対だ。 「わざわざ会社で挽いているんですか?」 そんな風に話しかけられると、手が、指先が所在なく遊んでしまう。天羽の親指は無意味にミルの縁を撫でていた。 この人はノンケだ。どんなに自分に言い聞かせても、一緒の空間にいると心が勘違いをして脈が早くなる。そんな気持ちを気取られないように、できるだけ平坦な声で答えた。 「挽くのも楽しいんですよ。カリカリやってると無心になれるから疲れた時にいいんです。それに挽きたては香りが違います」 熊谷はくっきりとした眉を大げさに上げて目を見開いた。楽しい発見をした子供のような無邪気さで笑っている。眩しすぎる。 「分かります、分かるけど俺はそこまではできないな。おいしいものは飲みたいけど、まずミルを持ってないし。どうしても飲みたいときは専門店にいっちゃうんですよ」 そういえば、共同の冷蔵庫の中には熊谷の名前が書いてあるインスタントコーヒーの瓶があったっけ。それを思い出したら緊張がちょっとほぐれた。 「淹れるところ、見せてもらってもいいですか」 「もちろん」 挽き終わった豆をフレンチプレスにセットし、二度に分けてお湯を注ぐ。その様子を、熊谷は壁にもたれながら興味深々と言った様子で見ていた。 「紅茶を淹れるやつでコーヒーもできるんだ」 「飲んでみる?」 「え、それ二人分ですか?」 「一人分ですけど、名前忘れてたお詫びです。どうぞ」 話をしている間に出来上がったコーヒーをマグカップに満たして手渡した。しまった、彼のカップに入れるべきだったか。引っ込みがつかないまま立っていると、湯気の立つカップと自分の顔を交互に見比べて、熊谷はまた屈託なく笑った。無条件の笑顔に、思わずつられて顔が緩んでいた。そんな天羽に熊谷は何度か瞬きして眉根を下げてさらに口角をあげた。 「俺、強請っちゃいましたね。すいません、遠慮なくごちになります」 節の目立つ大きな手がカップを掴む。今度は天羽がカップから熊谷の顔へと視線を動かした。 「どうぞ......」 コーヒーも渡してしまったので、手ぶらでデスクに戻るしかない。出入り口に立っている熊谷に天羽が近づくと、半身で避けた熊谷も後ろについてくる。立ち止まると向こうも立ち止まり、歩き出すとまた後ろを歩いてくる。扉の前まで来ると、隣に並んだ。 何のいたずらだろうかと視線を送ると、横目で微笑みながらとんと肘で突いてきた。 「カード忘れてしまったんで、一緒に入れてください」 「熊谷さん結構それやってますよね」 「ははっ、そうでしたっけ?」 「客先で会議室に入れなくなって、先方の社長に開けてもらったと聞きました」 「あー、プレゼン前に急いでトイレ行った時だな。外人のおっさんと目が合ったから、オレ ワルイヤツ チガウ ココ ハイリタイってジェスチャーしたら開けてくれたんですよ」 カードリーダーにかざしかけた手が止まる。驚くべきか呆れるべきなのか、天羽は目を丸くして口を開いた。 「営業チームのリーダーなんですよね? 意外とドジなんですね」 「やだ、酷い……天羽さんにそんなこと言われるとは思いませんでした」 熊谷は女言葉で冗談めかして鷹揚に笑い、宙に浮いたままの天羽の手を取ってスワイプさせた。ピッと音を立てて解錠された扉を押し開き、そのまま天羽が通るのを待っている。 「そこも含めて、みなさまに可愛がってもらってるんすよ」 天羽に続いて中に入ると、熊谷はにっこりと微笑んだ。あいている方の手を軽く上げて営業の席に歩いて行く背中は自信に満ちている。 熊谷のスラックスのポケットにIDカードが入っていることに、天羽はもちろん気付いていなかった。

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