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第2話 good omen

カップを片手に席に戻ると、入力作業をしていた営業事務の山下がコーヒーの匂いに顔を上げた。手に持ったマグカップを目ざとく見つけて指さしてくる。   「そのカップ、天羽さんのじゃん」 「山下さん、よく分かったね。コーヒーをたかっちゃった」 「えー! びっくり、そういうことしなさそうな人なのに。熊さんは相手が誰でも懐に飛び込んでくよね」 「それが仕事ですから」 「やだぁ、悪い男だねぇ。でも私も天羽さんと仲良くなってみたいな。あの人、きれいだしいい匂いするよね」   熊谷はさっきの天羽を思い出してみた。すっきりとした目鼻立ち、落ち着いた雰囲気。暑苦しいと自負している自分の顔とは対照的でうらやましい。いや、自分の顔が嫌いというわけではないけれど、こう、理想というか……めちゃくちゃ好みの顔じゃないか? 好み、というか好きなタイプの顔だ。 ふわふわとしていた感情に、輪郭が胸の中で形を持ち始める。同時に、引っかかっていた何かがするりと解けた気がした。   「なーんか気になっていたのはそれかな。近くで見る機会が少なかったから気付かなかったけど、綺麗な顔してるな、あの人」 「でしょ? こっからじゃほぼ部屋の反対側だからあんまり見えないけどさ」   しかし、遠くから見ても目を引く気がする。なぜだろう、バランス? スタイル? 着こなし? さっき見たシャツとスラックス姿を頭の中で再現してみた。細部まで手入れが行き届いそうな整然さがあった。シャツの裾を出したままにするとか、絶対なさそうだな。匂いは、コーヒーの匂いしかしなかった気がする。   「写真撮らせてもらって壁紙にしたら?」 「えー、それ変態じゃん。おねだり上手な熊さんが撮ってきてよ」 「俺も嫌われたくないから無理」   適当に返事をしながら、席に着いてパソコンを開いた。  画面を見ながら、持ち手を指に引っかけてカップを持ち上げる。 ぽってりと艶やかに光る釉薬のかかった部分に唇をつけて一口飲んだ。鼻と口に香りが広がった。嫌みのない苦さが舌を撫でて、すっとひいてゆく。 手元に目をやると口の当たる箇所以外は土の質感を残した不思議なデザインのカップだった。陶芸に造詣のない熊谷にも、大量生産品でないことは分かる。   つか、これ、天羽さんがいつも口付けてるところだよな。あの容赦ない対応する口で『意外とドジなんですね』と言われた瞬間、吹き出しそうになった。コーヒーを持っていたから、どうにかこらえることができただけだ。 あまり話す機会はなかったけれど、会議で同席した時に天羽はずっと指先でボールペンを弄っていた。そういえばさっきも、短く整えられた爪が縁取る指先が、ミルのあちこちを撫でていた。 そういう脆弱性をはらんだアンバランスさがある。でもそれだけじゃない。表情や動きにどこか躊躇いがあるのだ。言いたい事を我慢しているようなあの視線も。   カップを傾けて残った液体を口に流し込む。つるりとした縁に唇が触れると、濃厚なキスをしているような錯覚すらする。 さっき掴んだ手の温かさを思い出した。その途端、やわらかい果実を押しつぶすように、熊谷の心の中に甘いものがじわりと溢れた。      ++++   バックオフィスと営業部門は同じ部屋の中に配置されている。とはいえ、コピー機やミーティング机の並ぶ広い通路を挟んで反対側にあるため、出入り口は別だった。 少し早めに出社した熊谷は、昨日帰り道で買ったクッキーと、さっき書いたばかりのメモを持って広報の席に向かった。 天羽はまだ来ていない。To doリストが置いてあるだけの机の上は、持ち主の几帳面さがにじみ出ている。   邪魔にならない位置にカップとお菓子とメモを置いていると、隣の席の吉本が出社してきた。   「熊谷さん、どうしたの? 管理部門に賄賂?」   机の上に置かれたカップを目ざとく見つけた吉本は、大きな目を見開いて満面の笑顔になった。   「あー、天羽さんのコーヒー取ったの熊谷さんか!  手ぶらで戻ってきたからどうしたのって聞いたら、森の中で大きな熊さんに襲われたのでコーヒーを置いてきたんです、って言ってたから、びっくりしたんだよね」 「森の......熊さん」   間違ってはないけれど、真顔でそんな事を言うところを想像し、つい笑ってしまった。そんな熊谷を尻目に、吉本は忙しなく鞄からいろんなものを出しては、机の上に配置してゆく。スマホ、IDカード、ハンカチ、眼鏡、筆記用具。   「あの人真面目な顔してるけど普通に変だよね。って、あたしが言うなって話だけどさー。熊谷さんって天羽さんと仲いいの? 気が合いそうだよね。甘え上手と世話好きで」   予想外の言葉に熊谷は驚いた。自分は、多分甘え上手でも世話好きでもある。でも天羽はどっちにも見えない。   「天羽さんはどっちなの?」   声が小さくて聞こえなかったのか、吉本は何も答えずにせかせか動いている。鞄からポーチを出して立ち上がって出て行こうとする背中に、声を掛けた。   「吉本さん! IDカード!」 「あー、ありがとう。熊谷さんに言われるとは! 天羽さんに見つかると怒られちゃうところだった。そこの扉から開けてーっていうと、またですかって言われるんだよねー」    天羽の席からはメインの出入り口が見えるから、すぐに気付いて開けてくれるのだろう。 外回りがメインの営業は、通常奥の扉から出入りしていた。営業事務はいつも席にいるけれど、机の向きから気づいてくれないこともある。次からはこちらからでも入れそうだと熊谷は一人考えていた。     今日は隔週の営業報告会で、営業チームが集まっていて社内はにぎやかだった。 夜には季節ごとに開催される会社持ちの宴会もあるため、定時上がりの完全内勤であることもあって浮き足だった雰囲気が漂っている。 電話のフォーローアップと書類を進めながらも、おしゃべりが止まらない。営業同士の情報交換だけでなく、営業事務やロジスティック担当者との雑談に花が咲く。 熊谷も自分のサポート担当である営業事務の山下と客の噂話をしていた。ふと部屋の反対側に目をやるといつの間にか出社した天羽が吉本と何か話をしている。下を向いたあと顔を上げてこちらを見た。メモを読んだのだろうか。目が合った気がしたので手を振ろうかと思ったけれど、すぐに座ってモニターに向かってしまった。   間もなく、ポケットの中でメッセージ受信を知らせる小さな音がした。社内用のメッセージアプリに天羽からメッセージがきていた。   >クッキー、ありがとうございます。   たったそれだけ。天羽の入社以来初めて受け取ったメッセージだった。   あー、らしいわ。めちゃくちゃ天羽さんらしい。最後にちゃんと句点を打つあたりがいかにも。そう思っていると、またメッセージが表示された。   > 綺麗な字を書かれるんですね。    まだ何か続きがあるかと待ってみたけれど、それっきりだった。   >ありがとうございます >「意外と」って思いました?    そう返していると、「おはよう」と声を掛けながら社長が出社してきた。   立ち話していた面々も、それぞれパソコンを開いたり、打ち合わせを始めたりする。熊谷も機嫌よくメールソフトを立ち上げたところで、視線が固まった。 二週間前にプレゼンに赴き、その後何度もやり取りをしていた外資系のメーカーからメールが来ていた。急いで開いて文字を目で追う。   気が焦って冒頭の挨拶文を三回も読み直していた。落ち着け、大きな案件も小さな案件も大事なお客さんだ。 シンプルな英文だが読み間違いがないか、何度も確認してようやく確信が持てた。発注をしたいので契約書を交わそう、とあった。 とれた! 心の中でガッツポーズを決める。本当は大声で叫びたいくらいだった。      |性能《スペック》こそ要件に最適と言われたが、カスタマイズを含めると競合他社より価格が高くなってしまうため、決定を渋られていたのだ。客先要求とこちらの落としどころを見極め、練りに練ったプレゼンで説得した案件が通ったのだ。   アドレナリンが身体じゅうを一気に駆け巡る。   パソコンの電源ケーブルを抜き、小走りで社長席に行った。一瞬フロアが静かになり、何事かと注目が集まった。 遠目にも興奮隠しきれないまま報告する声は、管理部門にも切れ切れに届いていた。   「はい、朝イチでメールを貰って......納期が少し......ですが......ずは向こうが契約書のドラフトを......」 「納期は何とか調整しよう! よくやったな!」   社内の空気がふわっと変わった。社長が立ち上がり、フロア全体を見渡した。すでに全員がよいニュースを期待して待っていた。   「おーい、みんな聞いてくれ! 熊谷君がまさかの輸出案件を取った。知ってる人もいると思うが、客先でビジターカードを置いたままトイレに行って、向こうの社長にエスコートしてもらった案件だ」 ネタとして広まっていただけに、あちこちから笑いが起こる。   「そのお陰で打ち解けてプレゼンもうまくいったのだろうと思う。転んでもただでは起きないのは結構なことだ! 今回はテスト用の出荷だけれど、うまくいけば全製品に使ってくれる。大口につなげてゆきたい案件だ。ポテンシャルは十分ある! 拍手!」   おめでとう、という声と共にオフィスのあちこちから拍手が鳴り響く。営業チーム、ロジスティック担当、管理部門......順番に会釈をして、一番端にいた天羽と目が合った。まっすぐにこちらを見ている。   あ、と思った瞬間心臓が跳ねた。ヤバイ、なんだこれ。じわ、と汗が噴き出るような熱感がして体温が上がる。 気持ちのやわらかい部分を素手で鷲掴みされた気分だった。   そんな熊谷の心の内は当然天羽には伝わっていない。ひとしきり祝福した後、静かに座り、その顔は机の前の資料の陰に隠れてしまった。   さっきまでそこにあった天羽の顔の残像から視線を剥がせないまま、熊谷は突っ立っていた。   「熊谷君、どうした?」   不審に思った社長に声を掛けられて、天羽の席をずっと見ていたことに気が付いた。   「あ、何でもありません。契約関係は法務と連携して進めます。さっきのメールを回すので確認をお願いします」 「うん、あと何かあればすぐに私に上げてくれ」   熊谷は浮足立つ気持ちを押えて仕事モードに戻り、社長に向き直った。

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