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第3話 a night kiss
そんな幸先のいい出来事を受けて、その夜の飲み会はいつも以上に盛り上がった。
駅近くの居酒屋を貸し切りにした気楽さから、宴会は乾杯後三十分もしないうちにピッチャーが行き交う混とんとした空間になっていた。
お行儀良く並んで座っていたはずの参加者も、小腹が満たされると自然と小さなグループに分かれていく。熊谷も、客先であった話を面白おかしく披露したり、近況を報告しながら席を移動していた。
開始から一時間たったころ、早く帰宅したい人たちが遠慮なく抜けれらるように中締めがあった。一旦落ち着いた隙に空いた皿をざっと下げ、追加オーダーのためにカウンターに行っていた熊谷は、料理や飲み物が足りていない席がないか、様子を見ながら戻ってきた。
ひときわ高い笑い声につられて見ると、営業事務の女性に囲まれた天羽がにこにこ笑っている。笑顔だけれど、妙に姿勢がいい。なんというか、緊張感漂う背中に吹き出しそうになる。いやいや、ここは助け船を出すべき所か。
「天羽さんが中締めの後もいる! 山下さん、無理に飲ませてないよね?」
「失礼な、合コンでお持ち帰りしようとしてる人みたいに言わないでよ」
「え、したことあんの? あらー怖いわー」
「お持ち帰りしたくなるような男前を揃えてよ、女子四人いるからね」
「ここに二人いるでしょ?」
いつもの冗談のような会話をしながら熊谷が隣に座ると、笑顔を浮かべていた天羽が素に戻った。「ね?」と笑いかけるとふっと肩の力が抜けたように見えた。あー、頑張って笑ってた?
「熊谷さん、お疲れ様です。あと、契約おめでとうございます」
「ありがとうございます、天羽さんも押しの強い女性陣のお相手お疲れ様です」
腕を伸ばし、テーブルの真ん中にぽつんと置かれたままになっていた枝豆の皿を引き寄せて天羽に進めると、会釈して鞘を一つ手に取った。枝豆を唇に挟んだ天羽が熊谷を見た。お酒のせいで血色の良い唇が、つやつやと光っている。指先に力が加わり、中から押し出された張りのある緑の豆が唇の隙間を通って口の中に滑り込む。それを受け止める舌の生々しさを想像し、熊谷は唾を飲んだ。男の癖に、その仕草が色っぽいと感じてしまった。
当の本人は熊谷の顔を見て、空になった鞘を皿の上に置いた。潤んだ目を泳がせながら視線は顔から下がり、机の上に置いた手に移動した。合コンならば品定めのような視線だが、どちらも男だ。戸惑いながら見つめ返すと、くしゃっと相好を崩されて面食らった。自分とは全くタイプの違う、まじめで落ち着いた人という印象だったが、酔っているせいかふにゃふにゃしている。すっきりとした顔立ちは、今日は随分と緩んでいる。
天羽はおちつかなげに指先をすり合わせながら、おしぼりを手元に引き寄せてたたみ直た。そして、親指と人差し指と中指を丁寧に拭った。その仕草がスローモーションのように熊谷の脳裏に刻み込まれ、鼓動を少しだけ乱した。
誰がしても大差ない当たり前の動作なのに、生まれて初めて見せられたかのように映像が頭の中でリフレインしている。なんだろう、この感覚。全てが他の人とまるで違って見える。
自分の中の違和感が表に出ないように、熊谷は正面に座っていた山下にビールを注いだ。
「どうもー、熊さんは?」
ピッチャーがこっちに向かって差し出される。冷酒を頼んでいたので断ると、矛先が天羽に向いた。戸惑いながらも持ち上げたジョッキに、なみなみとビールが注がれる。
「あ、もうそのくらいで……ありがとうございます」
「はーい、乾杯!」
分厚いガラス同士がカチンとあたり、二人がビールを流し込んだ。
「天羽さんもくる? 合コン来ちゃう?」
「山下さん、天羽さんは持ち帰らないでよ。社内でくっついた後に痴話喧嘩されたら営業フォロー大変だから」
「熊フォローなんかされたら余計こじれるわ! じゃあ社外の子もくるなら合コンする?」
酔っぱらった勢いでガンガン来る山下に、天羽は曖昧に微笑みながら目を泳がせた。いや、目が泳いでいるのは酔っているせいか?
「僕、山下さんよりかなり年上なので、熊谷さんのお友達の方がいいですよ」
「あーあ、体良く断られた。つかほとんど年変わんないよね? もしかして年下はいや? 天羽さんの歴代彼女っていくつ?」
「んー、えーと、年齢はバラバラだったかな......」
瞬きをして言い淀んでいる様子に熊谷は助け舟を出した。
「天羽さん結構酔ってない? ソフトドリンクもありますから注文してくださいね」
年上の社会人相手に言う必要もないことだったけれど、熊谷の言葉に天羽はふっと表情を緩めた。
店員が持ってきた冷酒を受け取りながら、ドリンクを選んでいる天羽を見ると、俯いているせいで目元が前髪で隠れ、紅潮した頬しか見えない。外回りのせいで健康的に日焼けしている熊谷と違い、天羽の肌は無機質に整っている。その分、顔のパーツが際立って見える。
穏やかそうな唇、熊谷の手なら簡単に包んでしまうことができそうなするりとした顎。なんだか繊細な機能がありそうな耳。
注文を決めたのか、天羽が顔を上げた。横顔に緩やかな曲線を描く黒目がちな瞳。その斜め下に小さな黒子 がある。泣きぼくろだ。上唇の近くにも。何か名前があったっけ? 美人黒子?
色が白い分、その小さな点によって顔のパーツが印象に残る。なるほどなぁ、そういう効果があるのか。そう一人で納得しながら見とれていると、正面から冷酒の徳利を突き出された。
「おっ、ありがと。山下さんはずっとビール?」
「うん、天羽さんピッチャーも一緒にお願いできますか?」
「はーい、後はいいですか? ちょっと頼んできます」
立ち上がり、どうやら店員に直接注文に行く様だ。座敷から降りるところでもたついているから結構回っているのだろう。飲み会が始まってかなり時間がたっているのに、細い腰にたくし込まれているシャツが無駄なく整っているのが不思議だ。そんな背中を見ていたら、山下が何か言いたげな目でこっちを見ている。
「えっろい目してぇ、天羽さんの腰見てんの? ね、天羽さんって顔よし、スタイルよし、頭もよさそうなのに、女慣れしてなさそうじゃない?」
いなくなった途端に噂話が始まるのは世の常だ。
「なに、山下さんは天羽さんが童貞だとでも言いたいの?」
「そこまで言ってない! むしろ熊さんが言ってんじゃん」
「まじで、ほんとに狙ってる?」
「うーん、興味はあるし仲良くなりたいけど、付き合いたいとか、そういうのはないかもなぁ。って微妙に失礼か、本人には絶対言わないでね!」
ふうん、と適当に相槌を打ちながら冷酒を舐めた。興味があって仲良くなりたいのに付き合いたくないって何なんだ? 恋愛じゃなかったら何をしたいんだろう。
男の目から見ても、天羽は優良物件だ。見た目はいいし、意外と面白そうな人だとは思う。付き合ったらギャップがありそう。
例えば……実はすごいセックスがうまいとか。
「熊谷さん、やっぱり天羽さんと仲良くなってるじゃん」
いつの間にか山下の隣に吉本が移動してきていた。グラスには透明な何かが入っている。
「仲良くなろうとしてるとこだよ。吉本さん、何飲んでるの?」
「えーっと、八海山? は飲み終わって、これ何だっけ?」
「そんなんなら飲み放題の適当なやつでいいじゃん~」
「おほほほ、おいしいのが好きなのよー」
「会社のお金だとなおさらですよね!」
「そ、山下さん分かってる!」
天羽がなかなか帰ってこないのが気になる。いい年して、まさかトイレで倒れたとかないよな。
気になり出すとどうにも落ち着かなくなってきたけれど、会話は盛り上がっている。
日本酒談議が始まったところで熊谷は腰を浮かせた。
「ちょっとトイレ......」
「はーい、いっといれ~」
お決まりのギャグに見送られ、熊谷は店の奥に向かった。暗い通路の奥、トイレの手前に椅子があり、誰かが座っている。くったりしているからすぐにわからなかったけれど、天羽だった。
「大丈夫ですか? 飲み過ぎましたね」
「いえいえ、ちょっと休んでるだけ......」
とろとろと緩む瞼が今にも寝てしまいそうな気配を醸し出している。
「そんな風にしてると山下さんにお持ち帰りされちゃいますよ」
冗談めかして言うと、目を細めて少し考えてから熊谷を見上げた。
「お持ち帰り? ふふふ、僕が女の子にお持ち帰りされるんですか? やだなぁ。どうせ持ち帰られるなら別の人がいいや」
酔っているせいか言葉の輪郭も緩んでいる。ダウンライトに自分を見上げる天羽の濡れた瞳が光って見える。吸い込まれそうな黒目だった。きれいだなぁ、と見ていると天羽も目を逸らすことなく熊谷を見ていた。
なんだろう、この皮膚がひりつくような感じ。思わず唾を飲んでいた自分に驚いた。
身じろぎした熊谷に向かって、天羽の唇が動いた。あまりに小さな声で何も聞こえない。
「え、何ですか?」
顔を近づけると、ほのかにムスクの混じった香水のラストノートが熊谷の鼻をくすぐった。気怠そうに天羽は首を傾げた。キスをするような角度で再び目が合った。
本当は何も言わなかったのかもしれない。それとも、わざと聞こえないように言ったのだろうか。
トクン、トクンと脈動が同調したような気がする。距離を縮めたのはどちらからでもなかった、と思う。
気が付けば唇が触れていた。触れるだけのキスよりももう少しこなれた、ゆったりと愛情を確認するような優しいキスだった。緩く合わさった唇を、自然と舌で割っていた。性欲にたきつけられて焦ることのない、柔らかい口づけ。
目が閉じられてしまったせいで、天羽の瞳が見えないのが残念だった。
こんなキスできるんだから、女に慣れてないなんてありえないだろ。
宴会の喧騒は遠ざかり、ただただ唇に縁どられた生暖かい咥内をお互いに確認する。少しずつ下半身に血液が集まって行く感じがした。
手のひらで頬を包み、唇を軽く吸うと二人だけにしか聞こえない小さな水音がする。我を忘れて二人だけの静かな交歓にのめりこんでいく。
「......んっ」
指先が耳に触れた瞬間、天羽が声を漏らした。その瞬間、熊谷は現実に引き戻された。
何してるんだ、俺は。そこに残る気持ちを振り切るように、いったん離した唇でもう一度触れるだけのキスをした。こんなところでこれ以上しちゃだめだ。いや、それ以前に相手は天羽さんだ。
引力を断ち切るように顔を引く。かすかに食んだ唇が名残惜しく離れると、天羽はゆっくりと目を開いた。
「天羽さんが倒れてるんじゃないかと思って……大丈夫そうですね」
締まらない言い訳が届いているのかいないのか、ぼんやりとした瞳はまだ揺らいでいる。視線の先にいるのは自分なのに、更にその向こうを見られているみたいだ。そう気づいた。
さっきのキスに驚きや嫌悪感がなかった。なのに天羽は自分を見てすらいない。一人で混乱していることにいたたまれなくなった。
全部、天羽さんが酔っているせいだ。
「......俺、トイレに来たんでした」
目を逸らして脇をすり抜け、トイレに身体を滑り込ませた。気持ちが落ち着かない。
とりあえず用を足して、時間を掛けて手を洗った。洗面台の周りはすでにびしゃびしゃに濡れている。ペーパータオルを多めにとってざっと拭き、顔を上げた。そこにいたのは、衝動と困惑の入り交じった思春期のような表情をした自分だった。なんなんだよ、一体……。
ゆっくりと息を吐く。ここは居酒屋で、今は会社の飲み会だ。天羽さんは酔っ払ってて、俺はトイレに来ただけ。どうにか言葉に落とし込んで頭の中を整えた。
トイレを出ると、通路にはもう誰もいなかった。
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