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第6話 all went well after all

ゲストカードを忘れた客先で熊谷が契約にこぎつけた案件は、順調に進められていよいよ試作品向けのセンサーの輸出を行うことになっていた。 送り先の国と製品の技術内容に合わせて国から輸出許可申請を取りに行った帰り道。熊谷は後輩の橋本と二人、電車に揺られていた。 乗り換え駅についた。 「これでロジに投げてひと段落だな」 「早く終わって助かりましたよ。定時に上がれそうだし」 「へぇ、なんかあんの? デート」 半分冗談で聞いただけだったが、橋本は目を輝かせて話を始めた。楽しそうな顔につられて笑いながら電車を降り、別の階のプラットホームに向かって歩いて行く途中、橋本が急に青い顔をして止まった。自分の持っている鞄に目を走らた。 「あ、あのっ、熊谷さん」 「どうした? なんか忘れ物でも……」 「俺、あの、鞄を......さっきの電車に」 真っ青になっている橋本の手元には鞄がある。ただ、それは通勤用のクラッチバッグで、さっきまで手に提げていた書類の入った鞄ではない。 「っ! マジか! 何やってんだよ!」 役所で確認してもらい、許可をもらったばかりの書類だった。確実に納期に間に合わせるためには今日中に事務所に持ち帰って処理を進める必要がある。普段めったに声を荒げることのない熊谷も、さすがに口調がきつくなった。 「あああ、あの、すいません、追いかけて......電車で、タクシー? ど、どうしましょう、どっちが……」 慌てすぎてもうテンパっている後輩を見て熊谷の方が冷静になった。 まずは駅に連絡。置き引きがないとも言い切れないから並行して追いかける。今いるのは普通電車しか止まらない駅だ。最寄りの大きな駅に行って特急か快特に乗るしかない。 慌ててスマホを出して調べるが、気が高ぶって指が落ち着きなく画面を滑ってしまう。 「くそっ、駅員に伝達してから追い越せる電車を聞いてくる! お前も自分で調べて、分かったらすぐ追いかけろ!」 ホームにいる駅員は別の客につかまっていた。いかにも旅行者然としているから話が長そうだ。 改札の駅員に聞くか? 遠くにある階段まで走って行って駆け下りる。改札横の駅員室には運悪く人が並んで何か揉めていた。 ばっかやろう!と心の中で普段使わないような言葉遣いで毒づきたくもなる。誰かに持ち去られたり中身を抜かれたら大ごとだ。書類も作り直さなければならない。 週末挟んで進めていたら納期遅れになるかもじゃないか。ビジターカードを忘れた上に納期守れないとか、どう考えても信用はがた落ちで取引をこれで終わってしまうかもしれない。 今出たばかりの電車の経路を考えつつ、スマホを出しながら熊谷はホームに駆け戻った。 まずは電車で追いかける。電車は会社の方面行きだ。並行して誰かに先回りしてもらえば確保できる可能性は高まる。 今確実に席にいて、要領よく動いてくれそうなのは……管理部? ぱっと頭に浮かんだのは天羽だった。すぐに話を理解してくれて、あれこれ言わずに走ってくれそうだ。何の根拠もないけれど。 しかもさっきの電車の行き先は天羽の通勤経路じゃないか。 一発で出ろ、いてくれよ!と祈るような気持ちで管理部に電話を掛けた。呼出音が鳴り、すぐに柔らかい声が聞こえた。 「天羽さん? 熊谷です!」 「はい、天羽です。熊谷さん? どうかし......」 「すいません、何も聞かずに定期と身分証明もってすぐに駅に向かってもらえませんか? お願いです、一刻一秒を争うんで」 忘れ物として届けられれば運がいい方だ。もし誰かが持ち去ってしまったら、納期遅延だけでなく会社の技術情報が洩れることになる。 あまりに切羽詰まった声に何かを感じたのか、天羽はそれ以上何も質問せずに熊谷の指示を聞いた。 それから「分かりました。今出ます、車両の位置と鞄の特徴をメッセージで教えてください」とだけ言った後、くぐもった声で「吉本さん、僕ちょっと外します。こっちの管理部のスマホを持って出ます。戻ってくるのでご心配なく」と聞こえた。 ++++  「ほんっとうにありがとうございました! 天羽さんが追いかけてくれたおかげです」 橋本は土下座をする勢いで天羽に頭を下げた。 「運よくその電車に乗れたおかげです。持ち去られてなくてよかったです」 「天羽さんの『ありました』ってメッセージ見た時、腰が抜けそうになりましたよ」 「熊谷さんがすぐに電車を指示してくれたから......でもどうして管理部に? 会社の電話なら営業事務の方がすぐ連絡できたんじゃないですか?」 「あー、それはもう、天羽さんにはご面倒をおかけして申し訳ありません」 今度は熊谷が深くお辞儀をした。  「あの、いやだとか言う訳じゃなくて、どうしてかなって......」 「男物の鞄だから、女性に確認してもらうと周りの乗客に変な目で見られるんじゃないかと思ったんです」 「ああ、 なるほど」 天羽だけでなく橋本も驚いた顔で熊谷を見た。 ごめん、嘘だ。そんなの今思いついた言い訳だ。頭に真っ先に浮かんだのが天羽で、天羽に走ってほしかったのだ。 会社に戻り書類を担当者に提出してから、橋本はデートに間に合いそうだと言って帰っていった。 お礼をしようと晩御飯に誘うと、天羽は二つ返事で応じてくれた。仕事を済ませてから、二人で数駅離れた評判のいい定食屋に行った。 瓶ビールを一本頼んで差し出すと、天羽は素直にグラスで受け取った。 「広報の人に忘れ物対応までさせてしまって失礼しました」 「別にいいよ、慣れてる」 「忘れ物を取りに行くのが?」 「まぁ、取りに行ったり迎えに行ったり、後、届けたりとか」 「まさか子供がいるとかじゃないですわね......妹とか、弟とか?」 子供がいてもおかしくない年齢だけど、そんなうわさは聞いたことがない。 「いや、ルームシェアしていた人に色々頼まれることが多かったので」 過去形だ。一瞬不快そうに顔をしかめたのが気になったけれど、熊谷はつい聞いてしまった。 「天羽さんに忘れ物を取りに行かせるなんて! 恋人ですか?」 怒るかな、と思ったけれど笑われた。 「熊谷さんだって頼んできたじゃないですか」 「ああ、そっか。じゃあ、恋人の面倒を見ていたから慣れてる、と……」 「甘えてたんですよ、甘えられる方はたまったもんじゃありませんけどね」   『恋人』の部分は否定も肯定もしないけれど、悔しそうなその表情が物語っている。 「ふ、あはははは、天羽さんそんな顔するんだ」 天羽はグラスを口につけたまま目を細めて何か考えているようだった。きっとこんな風に、困った顔をしながらもいろいろと世話を焼いていたんだろう。別れた恋人は年下だったのか、甘え上手なタイプだったのか。 「甘えたいんですか?」 「は、誰が?」 「天羽さんですよ。たまったもんじゃない、なんて言ってるから自分が甘えたかったのかと」 天羽の顔が真っ赤になった。その反応に熊谷の胸の中がまた甘いもので満たされる。 「あ、そんな顔されると......まぁいいですけど、じゃあまた酔いつぶれたら俺が優しく甘やかしながら家まで送ります。今回のツケはこのご飯で勘弁してください」 「全然大したことないのでいいです、自分で払いますよ」 そう言って手元に視線を移した天羽の表情はいつもより柔らかく見えた。 ++++ 週末の混雑した車内は、お酒や食べ物の匂いが充満していた。気持ちの緩んだ人たちの会話が、あちこちから聞こえてくる。仕事の愚痴、共通の友達の近況、家族の話。そんなざわめきのこもる電車に詰め込まれ、ドア側に押しつけられた。 反対側のドアから入った乗客が容赦なく身体を捻じ込み、後ろから押され続ける。イモ洗いというより、寿司詰め、むしろへたくそな詰め放題状態だった。 熊谷の前に背中を向けて耐えている天羽の耳があった。ドアと自分の身体で挟む形になり、肩越しにガラスに腕を突っ張って体重をかけないようにしてはいるものの、後ろから押されて密着していた。 「すいません......」 「大丈夫です」 振り返ることなく天羽が答えた。襟元からかすかに香水が香る。酔いつぶれた天羽を送った日に嗅いだものと同じだ。耳の縁に小さなホクロが二つ。首筋にもある。今はシャツの下に隠されている肩のホクロを思い出す。その位置は丁度自分の胸元にあった。 「天羽さん、香水つけてます?」 「あ、はい。匂いきついですか?」 「いえ、いい匂いだなーと思って」 天羽は口ごもった。 「あ、すいません。俺、セクハラしてるみたいですね......」 後ろからでも分かるくらい、首筋の色が赤くした天羽が微かに首を横に振る。狭いから、息苦しいから、そして酔っているからなのだろう。 電車は駅に着くごとに、数人が下り、それよりもたくさんの人が乗り込んでくる。奥に移動できればいいのだが、ドア付近で押しつぶされていると移動する余地もない。 目の前の天羽も苦しくなったのか少し俯いて小さく息を吐いた。その微かな音が、ざわざわとする電車の中でも熊谷の耳に届いた。自分の腕の中に背を向けて天羽が立っている。このまま抱きしめれば、唇が触れそうな位置に白い耳朶がある。身体の奥で不穏な衝動が首をもたげている。 ふと、ベッドの上で無防備に寝転んだ背中が目に浮かんだ。噛み痕を残すほどの……。 「あ......」 小さく声を漏らした熊谷に、天羽が小首を傾げて反応した。 「また忘れ物ですか?」 「いえ、そうじゃなくて......」 あの歯形。どうして気が付かなかったのだろう。あれは、後ろからつけたんじゃないだろうか。位置からするとそう考えるのが妥当だ。つまり誰かが、こうやって後ろから抱きしめながらつけたんだろう。遊びでというにしては、くっきりと残る痕力強く噛まれた証拠だ。しかも女にしては大きな......って、男に? 目の前で腕の中にすっぽりと収まる天羽の首筋は艶やかで、薄赤く色づいている。あながち間違いでないのかもしれない。 下着だけで背中を丸めていたあの日の情景を思い浮かべると、不思議に嫌悪感は感じられなかった。 他人のセックスを想像するなんて、と思いつつその考えは熊谷の頭から離れなかった。

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