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第5話 stigma

「あー、頭痛い……」 ベッドに寝転んだまま手で顔をこすった。服は脱いだみたいだけれど、シャワーは浴びてない。 さっさと起きて水を飲み、汚れを落としたいけれど身体がまだ覚醒していないのか起きる気分にならない。 シーツの上でゴロゴロしながら天羽は昨晩の記憶をつなぎ合わせていた。 中締めの後も残って、最後までいたのは失敗だった。酒の飲み方すら覚えていないほど久しぶりだったのにちゃんぽんするとか、あり得ない。しかも熊谷が近くに来たせいで、浮かれてしまった自覚はある。 そして、その張本人が送ってくれるなんて想像もしていなかった。 もちろん同僚としてなのは分かっているし、感謝しているし、何より嬉しかった。でも、普通、タクシーに突っ込むとかじゃないのか。まさか玄関まで送り届けてくれるなんて。 ただ、記憶が飛び飛びなのが恐ろしい。自分が笑ってふらふらしていたのはうっすら覚えているけれど、何をしたのかは曖昧だ。 変なことを口走ってなければいいけど、と天羽はぎゅっと目を閉じた。 いい年こいて酒の飲み方も知らない人間だと思われただろうか。それより、しがみついたことを変に誤解されていないといい。折角いい会社に転職したのに、気持ちが悪いとか、なんとなく変なやつだといって避けられるのはもう二度とゴメンだ。 「天羽さん」と自分を呼ぶ声が頭の中によみがえる。隣に座っていた熊谷の顔とともに。 やっぱり似てるようで違う。熊谷は慶太(けいた)と違って五歳も年下だ。外見が似ていると思ったのは初対面の時だけで、持っている雰囲気も真逆。『だから』というべきか、『なのに』というべきなのか、会うと身体が勝手に反応してしまう。動悸、挙動不審、言葉が上手く紡ぎだせない。 幸い仕事上の接点は少ない。引き返せなくなる前に、自分の中でねじれた気持ちを整理しなければ、と思っていたのにこれだ。  二つ年上だった慶太とは、転職前の職場で知り合い同棲までしていた。製品開発部の販促課にいたのが天羽、慶太はプロダクトデザイナーだった。 誰にも知られてはならない関係は刺激的で、盛り上がった。でもそれも最初だけだった。 浮気現場に遭遇したのだった。好みだったし、好きだったし、正直自分にはもったいないほど魅力がある、と思っていた。 強引なところもあったけれど、それをひっくるめて好きだった。でも、恋愛においては最初からルーズだった。自分の魅力を試すかのように、手当たり次第口説いては寝ていた。それでも、結局自分のもとに帰ってくる。気まぐれも強い自惚れも、才能とのトレードオフだと勘違いしていたのだ。尊敬と愛情がごちゃ混ぜになって、喧嘩をするたびに、これが最後だと思いながらずるずると続いていた。 社内でのトラブルも天羽を疲弊させていた。慶太は仕事でも強引なところがあった。波に乗っている時は多少のトラブルも黙認されていたけれど、一旦つまづくと目も当てられない状況になってゆく。ごり押しした案を、土壇場で客先に突き返されて激高することもあった。自分の考えに固執しすぎで衝突することが増えていった。 イライラのはけ口は、プライベートでも職場でも天羽に向けられるようになった。 同情して寄り添えば調子に乗り、否定すれば反撃する。うまくいかないのを天羽のせいにするくせ、離れようとすると、寂しい、愛していると甘えた。 許しても何の解決にもならないと分かっていたのに、疲れすぎて考えることを放棄してしまった。 そんな天羽の我慢が臨界点を越えたのは、慶太の浮気だった。自分と同じ部署の女性と浮気されていた。もう全てが受け入れられなくなった。バイだと分かっていても、女との浮気は吐き気を催すほど気分が悪かったし、そんな自分にも嫌気がさした。  この部屋は天羽のものだった。喧嘩の後二週間の猶予をもって慶太は出てゆくことになっていた。その二週間、彼がこの部屋で見ることはなかった。日中に少しずつ荷物が減っていった。会社も有休をとっていたのでどこにいるのか分からない。 慶太の相手の女性にも自分の存在を知られた。噂はすぐに広まって当然のように好奇の的にさらされた。会社での生活は針のむしろだった。知らない社員にじろじろ見られたり、つまらない嫌がらせもされて、もう限界だった。 猶予期間の最後日、一緒に外で晩御飯を食べようと慶太から連絡があった。会社を辞めて、しばらく旅行に行くという。珍しく穏やかに話をして、これでいよいよ別れるのかと思っていたら、部屋に帰ってくるなり玄関で押し倒された。シャワーを浴びることもなく、最後の最後まで一方的に抱かれた。ただ性欲をぶつけられるだけのセックスは、今までで一番不愉快であったのに記憶が飛ぶほどの快楽を残していった。 「比呂、お前、俺を追い出したことを後悔するなよ!」 身体中を噛まれていたことは、翌朝一人で目覚めた後に気が付いた。脱衣場には使った後のタオルが投げ捨てられていた。手紙も何もない。テーブルの上にあったのは鍵だけ。 「最悪......死ねよ。ばか......」 文句を言う相手はもうどこにいるかすら分からない。 翌朝、靴箱を開けて自分の靴しかないのを見た途端、ようやくいなくなったんだと実感した。 混乱する気持ちに蓋をして転職し、ようやく生活も落ち着いた。もう前を向いてゆこうと思って参加した飲み会だったのに。 思い出しちゃだめだ、早く忘れよう。気持ちを沈ませる重しのような記憶に蓋をした。遠く曖昧になった慶太の顔だけが心の中に漂っている。 ぼんやりとしたイメージは昨晩の熊谷と重なってくる。 似ているなぁ。もしかしたらあの顔が鬼門なのかもしれない。 振ると痛む頭を抱えながら水を求めてキッチンに向かった。目の前のダイニングテーブルの上に小さな紙片があった。 何だろう、テーブルの上にはものを置かないようにしてるのに。昨日酔っ払って捨て忘れたレシートかもしれない。 そう思いながら手に取って開くと、手書きのメモだった。 行間をたっぷり取りながら、のびのびとした字がバランスよく配置されている。 二日酔いの天羽さんへ おはようございます、熊谷です。 びっくりさせていたらすいません。 一応お知らせしますと、酔っていたのでポケットから鍵を出して開けました。 脱がせたシャツとスラックスは洗濯機のところに掛けてあります。 部屋を出る時は、鍵を閉めて郵便受けに入れておきます。 お大事に 読みながら顔がかっと熱くなる。二日酔いのせいじゃなくても頭がガンガンと痛くなってくる。 大失態だ。外部の人に冷たい対応をしているところを見られるどころの比じゃない。最悪だ。部屋まで上がって世話をされたなんて、どれだけ酔っ払ってたんだ。間抜けすぎる。 きっとお礼もちゃんと言ってないだろう。 なのに、同時に世話をしてもらったことを考えると身体の奥がくすぐったくなってくる。 ちがう、彼は誰に対しても親切で面倒見のいい、ただの同僚だ。そう否定しても、心が勝手に喜んでいる。 メモを読み直して、眉を寄せた。 脱がせたシャツ? とスラックス? 熊谷の顔が浮かんできた。気がつくと笑顔で距離を詰めてくる、憎めない図々しさ。 その温かさはすぐに恥ずかしさでかき消され、身体中が熱くなった。 だめだ、何も期待してはいけない。 彼は普通の人だから、部屋の中まで入ってきたし服だって脱がせてくれたんだ。もしも僕が女だったら、そんなことはしないだろう。つまりそういうことだ。 別れた恋人に似ているからって、僕が意識しても、どんなに望んでも、手に入る訳はない。そもそも恋愛対象の選択肢に入らないし、僕みたいな面白みのない人間は友達にすらなれないだろう。 酒に酔って送らされた迷惑な同僚、それがせいぜいだ。 強く自分に言い聞かせてもう一度目を閉じた。ねっとりとした気持ちを断ち切るように頭を振ると、がつんと殴られたような痛みが走る。 二日酔いだ、飲み過ぎたんだ。全部、自分が悪いんだ。そう考えて気分がますます落ち込んでいく。 落ち着いて、深呼吸を繰り返し意識して肩の力を抜いた。頭の痛みも気分も、いくらか楽になった。 冷蔵庫から水を出し、まだ起動しきっていない胃に流し込む。透明で混ざり気のない液体が身体に浸み込んで少し頭が働きだした。 「まずはシャワー、かな。出かけよう」 間延びした欠伸と独り言が、誰もいない部屋に響く。 脱衣所においてあったスラックスはきちんと折り目に沿ってたたまれていた。 下着を脱いで、横にあった昨晩のシャツと一緒に洗濯機に放り込む。 それにしても、男同士だからって、シャツもスラックスも脱がすとかするかな? 男友達同士ってそういうものなのか? 恋愛感情抜きの男同士の距離はいまでもよく分からないし、苦手意識がある。だから、吉本のようによほど安全な相手以外とは、できるだけ距離を置くようにしていた。 今回は自分が酔い過ぎたことが原因だから熊谷に文句を言うつもりは勿論ない。でももし自分がノンケで、同僚の男が同じようになっていたら脱がせるだろうか? そんなことはしない気がするけど。 思い出してみると、頭を撫でられた気がする。それから、後ろに人の気配がして、背中に柔らかくて温かいものが触れた感触。指先にしては柔らかい感じがした。ふと唇じゃないかと想像した。まさかキスなんてしないよな。でも考えれば考えるほど、熊谷が眠っている自分の背中に唇を当てたイメージとその感触がよみがえる。大分前に確認しただけなので曖昧だけれど、噛み痕の残っている辺りだ。 酩酊して都合よくでっち上げた妄想なのか、本物の記憶の断片なのか。 見られた可能性はあるだろう。まあでも、男に噛まれた痕だなんて想像もしないだろうから構わないか。 熱めのシャワーで、肌に纏わりつく落ち着かない記憶を洗い流した。ボディーソープを泡立てた手を身体に滑らせていると、背後に人がいる感じがよみがえってきた。 別れた恋人も、眠りかけた自分の背中に優しくキスを落としてくれたことがあった。優しかった、最初の頃だけは。 最後の朝、一人で目を覚ましたのに、身体の中にまだ慶太の余韻がくすぶっていた。洗っても洗ってもぬぐえなかった感覚。それからずっと、このベッドで一人で目を覚まし続けている。新しい相手を探す気持ちにすらなれなかったけれど、今なら他人を求められる気がする。 慰めを欲しがっている身体に、天羽は自分の手を滑らせた。 ぬるつく掌で扱くと、すぐに熱がこみ上げてくる。後ろから強く抱きしめられながら触れられる想像をしていた。大きな、節のある指が優しく絡みついて、吐精を促してくれる。 「ふっ......ん......」 かたく閉じた瞼の裏に浮かんでいたのは、IDカードをごと自分の手を掴んでいた熊谷の指だった。大きな手で後ろから包み込まれる想像をした。ぴったりと身体を押し付けられて、肩越しに名前を呼ばれる。低い声と荒い息が耳元にかかる。手の中で欲望がぐっと固くなる。 でも、ここにいるのは僕だけだ。彼がこの部屋に来ることはもうないし、僕の服を脱がすことなんてありえない。 「学習しろよ、ばかだな......」 早く済ませたくて上下する手を早めた。大きな波はないけれど、細い管を抜ける生理的な快感の兆しがあった。気持ちよさなんて二の次で、力を入れて激しくこすってやる。 「あっ......ん、……」ため息の延長のような声を漏らして達していた。快感とすら言えないほどの、おざなりな行為だった。鼻の奥がつんと痛くなる。 何に対してなのかはよく分からない。 それでも、吐き出してしまうと少し気持ちが落ち着いた。先端から出た白濁は、そのままシャワーの湯に紛れて排水溝へと吸い込まれてもう跡形もない。 トーストとコーヒーで簡単な朝食を済ませて天羽は家を出た。 翌週を乗り切るために、コーヒー豆を買いに行くのが週末の習慣だった。 次の月曜日、今度は偶然じゃなく、熊谷に飲ませるためのコーヒーを選ぼう。 そう思うと二日酔いも少しだけましになる気がした。

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