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第1話

       1  路地を走り抜け幹線道路に出ると、篤彦はぶつかるようにして自動販売機にもたれかかった。心臓と下半身が同じ速さで脈打っている。梅雨晴れの太陽がびりびりと皮膚を灼き、麻のスーツの下のYシャツが汗で濡れ、不快に肌に貼りついた。 (なんで知っているんだ)  篤彦は営業鞄を投げ捨て、乱暴に頭を抱えた。 (絶対に誰も知らないはずだ。そういう約束だった)  トラックが一台、エンジン音を轟かせながら薄汚れたガードレールの向こうを通り抜けた。朝のラッシュが終わった道路はそれきり静かになる。  篤彦は目をつぶって大きく深呼吸をし、ゆっくり立ち上がった。スーツについた埃を払う。腕時計を見ると時刻はまだ午前十時半を回ったばかりだ。まだ回らなければならない病院が残っている。 (次の約束は二時か)  篤彦はハンカチで額の汗を拭いながらげんなりした。あんなことをされなければまだ商談の途中だったのだ。昼食を取りながらの外回りのつもりが予想外の休憩時間ができてしまった。 (暑い・・・・・・)  空を見上げると雲一つない猟奇的なほど青い夏空が篤彦の眼球に突き刺さる。  あの日も、空はこんな色だった。      ***  篤彦は父の経営する大手の製薬会社で営業職に就いている。父といっても血は繋がっていない。母は篤彦が小学生の頃に離婚し、長いこと独身を通していたが篤彦の成人を期に再婚した。思春期が終わった篤彦は新しい父親を拒否することも歓迎することもなく受け入れた。五十を過ぎたであろうに、頭髪もまだ黒々していて海外ブランドのスーツを補正なしで着られる体躯の持ち主で、穏やかそうな目元からは今までの人生の自信からか色気が滲んでいる。若い頃、街一番の美人と名高かった母に釣り合うだけの男ではある。  三人で暮らすようになって、表面は平穏な日々が過ぎていった。  久しぶりに父と呼べる存在ができたことに篤彦はほのかな喜びを感じていた。一緒に釣りに行ったり、ビールを飲みながら野球観戦をしたり、普通の親子の日常を送れることが予想以上に嬉しかった。しかし、それが段々と苦痛に感じるようになってきた。  篤彦はある日気づいてしまった。義父に恋心を抱いていることに。  しだいに義父を避け始めた。だが、目を背ければ背けるほど思いは膨らんでいく。ある日、義父の名前を呼びながら自慰に耽っていると、後ろから義父に抱きしめられた。  ーーそういうことだったのか。我慢しなくて良かったのに。遊び慣れた甘い大人の男の声だった。ブラインドの向こうの空は安っぽいペンキのように真っ青だった。母が生けた赤紫色の紫陽花が毒々しいほどに映えた。  その日から篤彦は義父と時間さえあれば肌を重ねた。母のことが脳裏を掠めながらも、目の前にいる彼と快感に感情はいつも押し流された。  ただ、そんな日々も長くは続かなかった。篤彦が大学三年生に上がる直前、篤彦の母が事故で急死したのだ。  あの日の引き裂かれるような後悔の念を篤彦は死ぬまで忘れないだろう。母の第二の人生を汚したのは、唯一の家族であった自分だったのだ。やがて篤彦と彼の関係は自然消滅し、住まいも別々にした。  ーー恭子さんへのせめてもの供養に、うちへ就職してくれないか。  義父の提案に、何が供養だと内心毒づいた篤彦だったが就職活動する気力も残っていなかったため承諾した。最初は秘書課に誘われたが断固として断り、義父と会う機会が少ないであろう営業部を志望した。  誰も知らない、義父と自分だけの秘密。それを何故か今日の医者は知っていた。  絶句する篤彦を前に、「誰にも言わない。その代わりーー」とベルトに手をかけられたのを突き飛ばしてきたのだ。 (これは罰なのかもしれない)  篤彦の中には悪夢のような青空がずっとくすぶっている。     ***  見ず知らずの土地を駅の方向だけを頼りに出鱈目に歩いていると小さな児童公園に出た。像を模したベンチに腰掛け、ミネラルウォーターのペットボトルの蓋を開けて半分まで一気に飲み干した。ほんの少しだけ落ち着きを取り戻せた気がする。  さっきまで晴れていた空はすでに厚い雲に覆われ、梅雨空が戻ってきたようだ。忌まわしい思い出とむっとした空気のせいで窒息しそうになるこの季節が篤彦は心底嫌いだった。 (謝るしかないよな・・・・・・)  謝罪はスピードが命。そう教えこまれている。こちらに非がなくとも、すみませんの一言で円滑に仕事が動くことも多い。だが、気が重いことには変わりない。  細い道を挟んだ向こうに、蔦の葉の絡まる古い民家が佇んでいた。今にも崩れそうな茶色の木造の壁に、それを下から支えるように蔦の葉が生えている。玄関口はほぼ緑色に支配され、門扉にも蔦が巻き付いていた。 (紫陽花だ)  塀代わりの植木には、大振りの紫陽花がところ狭しと咲き乱れていた。紫、薄青、それから赤紫色もある。苦々しい気持ちで視線を逸らすと、細身の人影が玄関から現れた。手に枝切り鋏を持ち、はっとするほど整った顔立ちをしている。まだ高校生くらいの年頃で、全身を黒で統一していた。 (誰かに似ている)  篤彦は彼の顔を無遠慮に眺めた。ふと目が合う。彼は紅唇をつり上げて、後ろに咲いている花より艶やかに笑った。篤彦はすぐに目を逸らしたが、次に顔をあげたとき、彼の行動に仰天した。  彼はばちん、と派手に鋏の音を立てながら紫陽花を切り落とした。一つではなく、躊躇いなく次々と花の首を切る。彼の足元はたちまち夥しい紫陽花で見えなくなった。  篤彦は思わず立ち上がり、道路を大股で渡り、少年の細い肩をつかんだ。 「おい!」  黒く挑発的な目が篤彦をとらえる。それが妙に色っぽく、篤彦は一瞬ひるんだ。 「なんですか」  見た目とは違い、やや低いしっかりした声だ。篤彦は負けじと言い返す。 「・・・・・・き、切ることないだろ、せっかく咲いてるのに」 「咲いちゃいけない花なんです」  彼は事も無げに言うと、手にしていた紫陽花を篤彦に投げて寄越した。 「そんな花があるのか」 「ええ」  彼は篤彦をほとんど無視して紫陽花を切り続ける。山となった紫陽花が人間の首のように見えて、篤彦はぞっとした。 「だったら最初から植えなきゃいいのに。切るほうが手間だろう」 「そうは言っても、勝手に咲くんですよ」 「紫陽花だって咲きたくて咲いてるんじゃないんだ。もっと丁寧に切るか、蕾のうちに摘んでおくべきだったんじゃないか」 「・・・・・・やけに肩をもちますね」  彼は作業の手を止めて篤彦を見つめた。苛立ちを隠さない尖った目だ。 「ああ・・・・・・」  少年は手にした挟の刃先を篤彦のYシャツに食い込ませると、篤彦に顔を近づけた。 「貴方も花を咲かせたくちですか?」  感じないはずの鋏の冷たさに篤彦は身震いした。心臓の位置にある刃と彼の妖しく光る目が篤彦の体温を上げる。  純色の鋏がゆっくりと降りていき、臍のあたりで止まった。  少年は篤彦の耳元で囁いた。 「もっと下?」  篤彦はがむしゃらに彼を抱き寄せた。衝動的に唇を重ねる。かしゃん、と鋏の落ちる音がはっきりと聞こえた。  篤彦の青空が赤紫色に塗りつぶされていく。      ***  彼は名前を篠と名乗った。姓か名は分からないが、彼によく似合う名だ。歳は十六で、それ以上のことは必要ないでしょう、と言って教えてくれなかった。 「ん・・・・・・ッ」  暗く長い廊下を通り、古い木造の家には不似合いな非毛氈のように真っ赤な絨毯が敷かれた狭い洋間に通された。八ヶ岳が描かれた油彩画の前に置かれた象牙色の長ソファに横たわるよう促され、言うとおりにすると何の前触れもなく下半身を吸われ始めた。窓が一つしかない部屋に光は射さず、空は見えなかった。  ジャケットもネクタイもそのままに、前だけ開けられている。就職祝いに義父にオーダーメイドで誂えてもらったスーツが快感で身を捩るたびに衣擦れの音を立てる。それがまた篤彦の羞恥心と劣情を煽った。 「すごい・・・・・・真っ赤ですね」  篠の舌はまるで別の生き物のようにぬめぬめと篤彦の陰茎にまとわりつく。まるで魔法のように敏感な箇所を探し当て、執拗にしかし決して達さないように攻め続ける。否が応にも息が上がる。 「はや・・・・・・くッ」 「何が」  篤彦の必死の訴えにも篠は顔色一つ変えない。さっき紫陽花を切り落とした時と同じように淡々とくわえたまま上下させたり濡れた赤い下を覗かせたりする。篤彦はたまらずソファに爪を立てた。 「出したい、出したいから・・・・・・ッ!」  篠の口の中にあるものに全身の血が集まっているようだった。逃げそうになる腰を抱え込まれて、ますます逃げ場がない。汗をかいた全身がびくびくと跳ねた。十近く年下の少年に絶頂を求める惨めさが、篤彦をまた熱くさせる。 「へえ・・・・・・」  篠は赤い舌で先端をなぶりながら篤彦をねっとりと見つめた。 「そんな風にねだるなんて……貴方、馴れてるんですね。誰とでもこういうことを?」  篤彦は必死で首を横に振った。 「そんなこと言えませんよ、ねえ。こんなにぬるぬるにして・・・・・・」 「んッ・・・・・・」  篠の声が耳の奥を焦がすように響く。靄がかかったような意識の中で、ただ解放されたくてのけぞると腰が自然に揺れた。 「お願いだから、もう無理・・・・・・ッ!」 「・・・・・・やっぱり、このままじゃだめだ」  ふと篤彦の根本に冷たい物が触れた。それが何かを認識した時、文字通り篤彦は飛び上がった。 「ひッ・・・・・・!」 「早く切らないと」  

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