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第2話

それは篠が使っていた花鋏だった。篠が握っているそれの黒い両刃がだらしなく濡れた篤彦自身を挟む。  篠は優しく篤彦の陰毛を撫でながら、上目遣いで篤彦を一瞥すると口だけで笑った。 「綺麗に切りますね」 「やめ・・・・・・ッ!」  ゆっくりと鋭い刃が熱いものに食い込んでくる。 「やぁ・・・・・・ッ!」  今まで感じたことのない快感に、篤彦は高い声を上げた。     ***  目が覚めるとそこはさっきの児童公園だった。一雨過ぎたあとの土と草の匂いが立ちこめ遠くで小鳥が鳴いている。象のベンチの上で篤彦はしばらく太陽の見えない真っ白な空を眺めていた。 (どうやってここへ・・・・・・?)  篤彦は呆然と目の前の蔦の葉の民家を見つめた。山になった紫陽花の亡骸は見あたらない。スーツもきちんと元通りになっている。  篤彦ははっとして腕時計を見た。十二時前。謝罪してから次の取引先まで移動するのにぎりぎりの時間だ。篤彦は携帯電話を取り出し、さっきのクリニックにダイヤルする。 「はい、坂本医院です」  若い女性の声が応じた。 「もしもし、私、白鷺製薬の田崎です。いつもお世話になっております。坂本院長先生をお願いします」 「恐れ入ります。院長は午前中は学会で、午後からの診療の予定です」 「えっ」  篤彦は思わず声を漏らした。 「そんな。つい一時間前、先生にお会いしたんです」 「・・・・・・少々お待ちください、あ、いま代わりますね」 「おお、田崎くん。久しぶり」  ややあって聞き慣れた院長の声が聞こえてきた。いつも通りの大らかな響きに何の陰りも感じない。 「あの、院長先生・・・・・・」 「君、今朝うちに来たんだって?アポしてたっけ?」 「い、いえ、あの・・・・・・」  篤彦は唾を飲み込んだ。 「……おそらく、こちらの勘違いです。ご心配おかけしてすみませんでした」 「やあ、早くも夏バテじゃないか?季節の変わり目だからねえ、気をつけて。今度、鰻でも食いに行こう」 「はい・・・・・・ありがとうございます・・・・・・」  院長との通話を切ると、篤彦は急いで社に電話した。同僚に今日の予定を確認してもらうと午前は半休で、午後から外回りになっているという。訪問先は同じだった。 (いったいどうなってるんだ)  篤彦は必死で頭の中を整理した。何故か午前中に起きたことが全てなかったことになっている。頭が混乱して鼓動が早くなる。何が起きているのか全く分からない。 (夢だったのか?)  空を見上げると相変わらずの曇天である。 境界も分からないような雲の塊の中で太陽が薄く見えた。 (違う)  篤彦は目をつぶった。 (あれは夢なんかじゃない)  紫陽花。赤い絨毯。黒い鋏。  篠の舌の感触を思い出して、篤彦の吐く息が震えた。       2  東京の梅雨明けが発表された翌日、篤彦は昼休みに義父に呼び出された。会社の近くにある老舗ホテルのラウンジで待ち合わせ、最上階にある和食レストランに連れだった。 「どうだ、最近は」  運ばれてきた天ぷらに箸を伸ばすと義父は余裕に遠慮が混じった声で尋ねた。義父と二人で食事するのもだいぶ久しぶりだ。 「特に問題ないです、おかげさまで。洋次さんのほうが大変なんじゃないですか」  篤彦は義父のことをずっと名前で呼んでいた。お父さんと口にするのも躊躇われたし、何より昔の恋心の名残がそうさせている。洋次と同じものを注文した篤彦も箸を手に取り、汁物をすすった。 「社長なんて大した仕事じゃないよ。現場の頑張りがあってこそだからね」 「それは何よりです」  篤彦はあくまで一社員と社長という態度を崩さない。そうしないと、一度引いた白い線があっという間に汚されていく気がした。 「・・・・・・もうすぐ恭子さんの三回忌だな」  二つ目の天ぷらを口にしようとしたとき、洋次の低い声が篤彦の動きを止めた。 「・・・・・・そうですね。そういえば祖母から連絡がありました」 「他人行儀な態度はやめてくれないか」  いささか怒気を含んだ声で言われて篤彦は嫌々顔を上げた。 「法律上だけとはいえ私たちは家族だ。もちろん君のことも息子だと思っている」  洋次は箸を置くと篤彦を見つめた。篤彦は内心驚き、呆れていた。あんなことをしておいて、いまさら親子だとどの面で言うのだろうか。 「・・・・・・それで、三回忌がなに?」  篤彦は折れてくだけた口調に改めた。 「恭子さんから君へ、預かっているものがある」 「・・・・・・え?」 「君が一人立ちしたら渡そうと二人で話していたんだ。もうその時期だと思う。食事が済んだら部屋に来て欲しい」  洋次はそう言い放つと食事を再開した。  篤彦はまるで自分の死を予感していたかのような母の行動に驚いた。アパレル会社の役員として世界中を飛び回り、篤彦はあまり構ってもらった記憶がない。しかし、思えば誕生日は必ず一緒に過ごしてくれたり、食事はいつも手作りだったり愛情深い母親だった。長い間独身だったのも人見知りの激しい篤彦の性格を考えて慎重になった結果だったのだろう。洋次が会計をしている間、篤彦は命じられるがままに急な商談が入ったと会社に嘘の電話をした。  広くはないが格調高い家具に落ち着いた色の絨毯が敷かれた上品な部屋に篤彦は通された。大きな窓からは皇居と丸の内のオフィス街が一望でき、初夏の陽射しがさんさんと降り注いでいる。 「開けてみてくれ」  洋次は円卓に置かれた細長い桐の箱を指さした。恐る恐る蓋を開けると、そこにはガラスでできた真っ青な一輪挿しが入っていた。茎を挿す部分が僅かに婉曲し、まるで本物の弦のように生命が宿っているように思える。 「これは・・・・・・」 「恭子さんが創った物だ。結婚前に旅行したイタリアの工房で造らせてもらった」  篤彦は無言で一輪挿しを強く握った。冷たいガラスがその部分だけ熱を帯びる。  ーー篤彦も一輪だったら生けるでしょうから、花の本当の美しさに気づく歳になったらあげたいの。あの子、何も言わないけど本当は父親が欲しくてたまらなかったのよ。だから洋次さん、貴方から篤彦に渡してね。  涙が一筋頬を伝った。青い一輪挿しを胸に抱くと母親の声と温もりがはっきりと蘇る。  もっともっと生きて欲しかった。何一つ親孝行できないうちに死なせてしまった。しかも人生の最後に掴んであろう幸せを、息子である自分に踏みにじられて。 「篤彦・・・・・・ッ!」  背中から掻き抱かれて篤彦は飛び上がった。洋次の熱い息が耳元にかかる。それにあからさまな欲を感じ取り、篤彦は力の限り身を捩った。 「やめてください!」 「好きだ・・・・・・好きなんだ・・・・・・ッ」

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