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第3話
一輪挿しが篤彦の手からこぼれる。ごとり、と不気味な音がした。
揉み合っているうちに正面から押し倒された。お互いの息がかかるほどに顔が近い。
「離してください!僕はもう母さんを裏切りたくない!」
「愛しているんだ」
絞り出すような声に篤彦ははっとした。
「恭子さんも君も愛しているんだ。どうしようもないんだ」
「そんな・・・・・・」
「なぜ先に逝ってしまったんだ、恭子さん・・・・・・!」
洋次の涙が篤彦の頬に落ちる。強く抱きしめられると洋次の悲しみの濁流の中に飲み込まれた。
抗えないと悟った篤彦はつま先に当たる一輪挿しを蹴飛ばし、洋次の背中に手を回した。
***
一歩先が見えないほどの土砂降りの中を、篤彦は俯いて歩いている。水を吸ったスーツを引きずるようにして、あやふやな記憶を頼りに篠の家へたどり着いた。
「風呂を立ててあります」
玄関で待ち構えていたように篠が迎えた。上着とネクタイを器用に脱がされ、篠に手を引かれて暗い廊下を歩きだす。みしみしと古い板が鳴き、涙の代わりに滴が落ちた。着替えを用意すると言って篠は脱衣所から出ていった。
水色のタイルが床と壁に張られた風呂場で篤彦は一段低くなった石の浴槽に浸かった。懐かしい感じのする昔ながらの造りだ。体温より少し高い湯の匂いが冷えきった篤彦の心と体を包み込んだ。
「篠」
ガラス戸の向こうに呼びかける。
「はい」
くぐもった声ですぐに返答があった。
「こっちに来てくれないか」
やや間があって、ガラス戸が遠慮がちに開いた。困惑を隠した無表情で篠は浴槽の側にひざまずき、両手で篤彦の頬を挟みキスをした。篤彦がすぐさま篠の背中に腕を回すと、もつれ合うようにして篠は着衣のまま湯船に落ちた。
篠は何も言わない。篤彦は篠の肩に顔を埋めた。
「・・・・・・って、ほしい」
「え?」
「切ってほしい。咲いては、いけない花を・・・・・・」
それはまるで懇願だった。もう一度篠に自分の過ちを消してほしかった。篠の手を取り、自分の陰茎を握らせる。
「ん・・・・・・」
さっき洋次にさんざんいたぶられた部分がまたすぐに熱く猛る。
「あっ、あっ、篠・・・・・・ッ!」
じゃぶじゃぶと水面を波立たせながら、篤彦は夢中で自分と篠の手を動かした。
全て忘れたい。母のこと。義父との異常な関係。再び結んでしまった糸。
「うあ・・・・・・ッ」
あともう少しというところで篠に強く根本を握られた。堰止められた熱と快感で、篤彦の腰が電流を流されたように痙攣した。
「篠・・・・・・ッ!」
恨みをこめて睨むと、奈落の底のように真っ黒な目が篤彦を見ている。湯の中にいるのにも関わらず篤彦の背筋が凍った。
「無理です」
篠は口の両端を上げて微笑んだ。それが戦慄するほど美しい。
「だって、貴方は苦痛とか後悔で気持ちよくなる人間なんです。今だって絶望しながらここを勃起させてるじゃないですか」
篠の指が篤彦の窄まりに這わされると、一本の指が急に侵入して篤彦の中をかき回す。
「ひ・・・・・・ッ!」
「ほら、痛いのにこんなに悦んで・・・・・・。強欲ですよね、あの花も貴方も。誘惑に負けた小さい花を寄せ集めて咲いて、綺麗になったつもりでしょうか。一つ花が腐ればあっと言う間に枯れていくのに」
篠の歌うような声が篤彦の脳をとろけさせる。痛い。気持ちいい。痛い。でも気持ちいい。
「もはや男であることが貴方の罪です」
篤彦から指を引き抜くと、篠はまるで罪人のように前髪を掴んで持ち上げた。明らかな侮蔑の眼差しが降ってくる。
「ただの淫乱のくせに」
篠のその言葉に、篤彦の体がかっと熱くなった。
「ふざけるな!」
篤彦は力のままに篠の黒いシャツを引き裂くと、タイルの上に篠を組み敷いた。下も全て剥がし、自分が今までされたように、否、それ以上に篠の体を弄んだ。
薄い色の乳首を吸い、前をしごきながら挿入する部分を手荒くほぐす。
「あ・・・・・・っ」
篠の淡雪のような肌が紅く色づいていく。初めて見る篠の狼狽する様子がたまらなく興奮する。一刻も早く貫きたい。
「ーーッ!」
篤彦の怒張したことをねじ込むと、篠は声にならない悲鳴をあげた。篤彦は半分狂ったようにあらゆる体勢で篠を攻め続けた。篠は拒むどころか四肢を篤彦に絡ませてくる。湯煙の中で何度も交わって、もはやどちらがどちらなのか分からない。お互い意識が遠のきかけたとき、篤彦は篠が母に似ていることにようやく気が付いた。
***
三回忌の法要が終わり、親戚が全員帰ると篤彦は一人母の墓の前にいた。真夏の黄昏は思いの外強く、篤彦の目に突き刺さる。まだ何回も着ていない喪服が馴染むように感じるのは三年という月日のせいだろうか。
篤彦はあの一輪挿しを線香の横に立て手を合わせた。仏花と並べて見ると、一輪挿しのほうが凛と華やかでこちらのほうが花のように見える。
「篤彦」
砂利を踏む音に振り返ると、洋次がばつの悪そうな顔で佇んでいた。やはり、なかったことにできなかったのだなと篤彦は苦笑した。
「お呼び立てしてすみません」
「いや、なんとなくそんな気はしていた。それより話とはなんだ」
「僕、貴方の会社から離れようと思います」
洋次は眉をひそめた。
「なぜだ」
「母によく似た人に教えられたんです。このままずっと梅雨を送っていても仕方ない。もうそろそろ自分から晴れ間を探していかなければならない。・・・・・・きっと母も生きていたらそう言うと思うんです」
篤彦は一輪挿しを掴んで洋次に差し出した。
「お返しします。まだ僕には資格がない」
「いや」
洋次は篤彦の手をやんわりと制した。
「君はもう分かっている。挿す花がないからと言って、器に価値がないわけではない。・・・・・・君が持っているべきだ」
洋次の目は潤んでいた。精悍な顔の肌が夕陽に晒され、爛れているように見える。
篤彦は自分の中の空が同じ色に染まっていくのが分かった。どうしようもなく渦巻く洋次の気持ちが痛いほど分かる。そして、これで二人の関係も本当の意味で終わるのだと。
「ありがとうございます」
篤彦は一輪挿しを引き取り、洋次の両目をまっすぐ見た。
「愛してました」
洋次は顔を歪めると無言で篤彦に背を向けて歩きだした。ざく、ざく、と砂利を踏む音が風のように篤彦の胸の中を通り抜ける。洋次の長い影が見えなくなったころ、篤彦も歩きだした。
空は藍色に染まり始めている。母の思いを受け取ったいま、きっともう篠には会えない。しかし、独り言になっても良いから彼にお礼が言いたかった。
タクシーを飛ばして彼の家にたどり着くと篤彦は絶句した。そこは向日葵の咲く真新しい一軒家になっていたのだ。呆然と立ち尽くしていると、足元でにゃあと鳴き声がした。見下ろすと真っ白な猫が夜の闇の中を駆け抜けていった。
気が付くと、一輪挿しには大輪の向日葵が差し込まれていた。
篤彦は向日葵を胸に当てた。もう自分の空は何色でもない。新しい花を持って、篤彦は元来た道を自分の足で歩き始めた。
END
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