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第3話
◇
生活環境の変化というものは、案外簡単にそれまでの常識を覆していく。
「季兄さん、あの…夜鷹兄さんに会いたいのですが」
「今日は木曜ではないだろう? お前が夜鷹に会うのは木曜の夜だけだ」
「ですが…」
「鶫」
季兄さんの凛とした声に、僅かに怒気が孕んだ。
「あれは千鶴に任せてある。いいね?」
「……はい」
血の繋がった実の兄に会うのに許可がいることに疑問を持ったことはなかった。それが当たり前だと、そう育てられて来たからだ。けれど、そんな偏った北大路家の“常識”にいま、僕は疑問を持ち始めている。
どうして自身の兄に会うのに許可がいるのだろうか。
どうして千鶴兄さんしか、夜鷹兄さんに会えないのだろうか。
どうして同じアルファなのに、千鶴兄さんは許されるのだろうか。
今まで気にならなかった決まりごとが、僕の胸中に小さなしこりを残した。
ヒヤヒヤとさせられた受験が終わり、僕は無事、この春から千鶴兄さんと同じ大学に通い始めた。
矢張り周りにはアルファが多く、千鶴兄さんはその中でも特別有能なアルファとして有名だった。けれど、大学内には少数勢ではあるがベータも、そしてオメガも存在した。
優秀だと言われるアルファに落ちこぼれが存在するように、平凡だと言われるベータやオメガの中にも優秀な者は存在するのだ。
高等部までの人間関係は、どこかアルファ性とその他の性との間に一線を引かれたものしか築いてこられなかった。だが、ここは違う。
皆が高い能力を持ち、それは勿論ベータやオメガも同じ事で、アルファに縋らずとも上を目指せる者たちばかりが集っている。みな自身の足で立とうと必死だ。
だからこそ僕らは同じ土俵に立ち、同等の会話をする。お互いを認め、意識を高め合っている。
お陰で僕は生まれて初めて北大路の名に振り回されることなく、兄さん達と比べられることも比較的少ない世界の中を歩み始めていた。
『ベータやオメガは、アルファを利用しようとする脳しか無い』
そう父や兄に聞かされ生きてきた為、一線を引き生活することは当たり前のことだった。疑いもしなかった。そんな僕にとってこの環境は非常に興味深く、そして、見たことのない新しい世界を見せてくれた。
しかしそうして日に日に変わりゆく価値観に、一番に悲鳴を上げたのは僕の心だった。
今まで疑いもしなかったものに疑問を持ち、信じていた存在に反発心を抱くことは想像していたよりもずっと辛く、少しずつ溜まっていくしこりは気付けば大きな腫瘍となっていた。
「に、兄さん…あの、擽ったい…から」
「どうした? いつものことなのに」
季兄さんがくすりと笑う。その顔は相変わらず優しく綺麗なのに、どうしてか躰に悪寒が走った。
兄が自分に触れる。腕に、肩に、鎖骨に、首に、髪に、頬に…そっと指を滑らせて、誰かの痕跡が残っていないかを調べる。
それは僕の物心がついた頃からのことで、初めは父が、そしていつからか兄がその代わりをするようになった。家族とはこうして触れ合うものなのだと信じて疑わなかった。けれど、いざ視野が広がってみたらどうだろうか。
今まで見えなかったものがよく見えるようになって、僕は季兄さんに疑心を抱く。
父は僕を溺愛し、オメガを遠ざけ厳しく監視していたけれど、それは他の兄さん達にも同じだった。けれど、季兄さんは違う。
季兄さんは僕以外に何も言わない、触れない。千鶴兄さんも、夜鷹兄さんだって同じ弟なのに、こうして触れるのは僕にだけ。その触れ方も、矢張り父とは少し違っていた。
季兄さんに触れられるたび、僕の躰はぶるりと震える。これは、本当に兄弟としての触れ合いなのだろうか…?
この疑問は、ひとりで抱えるには余りに重すぎるものだった。
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