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第5話
急ぎ飛び乗った電車の中で、僕は自身の手を握りしめた。
いつの日にか彼と繋いだそれ。互いの熱がじわりと溶け合って、やがてどちらのものか分からなくなった。
その感覚はとても曖昧だったけれど、僕の心を安心させてくれた。
永遠に、繋いでいたいと思った。
永遠に、繋いでいられると思った。
僕らの行く先に立ちふさがる障害は、余りに重く巨大だ。それでも、この先僕が彼を手放すことはないのだと、そんな未来があるはずは無いのだと。
僕はほんの少しだって未来を疑いはしなかった。
あの日溶け合うことのできた熱こそが運命の証なのだと、そう、信じていたから。
◇
運命の番に出会ったのだと、そう告げた僕に季兄さんは、こんな日がいつかくると思っていたと軽く笑った。
けれどそれは穏やかな笑みなどではなく、底知れぬ闇が漏れ出したかのようだった。
『オメガは運命などではないと、そう言ったのを忘れたのかな?』
『…いいえ』
『ならば、なぜ?』
夜の海のように深く暗い瞳にじっと見つめられ、僕は思わず喉を鳴らす。
怖くてしかたなかった。
逃げ出したくてたまらなかった。
いつだって僕のことを一番に想っていてくれたあの兄が今、敵意にも似た感情を露わにしているのだから。でも、それでも僕は兄に屈することはできないのだ。
『“なぜ”って…? それは運命に出会えば分かることです』
『番になることは許さない』
『彼は運命なのに!?』
『運命などではないと言っているだろう』
頑なな兄の言葉に、僕は畳を引っ掻き唇を噛んだ。口内に鉄臭さが広がる。
『……許されようとした僕が、馬鹿だったんです』
『それで?』
『僕はこの家と縁を切ります。大学だって辞める。僕は彼さえいればそれで良い。彼をこの手で守る事が、今の僕の全てです』
立ち上がり季兄さんに背を向けた。
どうか呼び止めないでくれと、このまま行かせてくれと、そう背中で願う。けれど…
『鶫』
僕が季兄さんを無視する事などできないのを承知の上で、いつもの優しい声でその名を呼んだ。
『証明してくれないか』
『……え?』
僕は思わず振り向いた。
『オメガが運命の番であることを、私に証明して見せてくれ。それができるなら、お前たちの仲を認めてやっても良い』
『……本当ですか? でも、証明なんてどうやったら』
『簡単なことだ。彼がお前だけを選べば良い。そしてお前は、彼を守って見せてくれれば良い。ただそれだけのことだよ』
なんだ、そんなこと。
そうして僕がほっと息を吐きかけた時だった。
『もしも彼が本当に運命のなのだとしたら、彼はお前以外に惑わされるわけがないよね? …例え彼が今、』
ヒートの熱に浮かされている時だとしても。
『ッ!?』
ひゅ、と喉が乾いた音を立てた。全身から血の気が引いていく。
運命の番である彼は今、自身のアパートにひとり篭っているはずだった。なぜなら、オメガのヒートが今日明日にでも始まるからだ。
本来番がいないオメガは、抑制剤で発情を抑えるのが一般的な対処法なのだ。それはほぼ支障をきたすことなく生活を送れるほど性能が高い。
だが、運命の番である僕が側にいる事で周期が狂い、そうして起こす発情は薬では中々抑えきれないほど強いのだと言う。
だからこそ僕は、夜鷹兄さんに、そして季兄さんにも打ち明ける気になったのだ。
彼を苦しみから救えるのは、僕しかいないのだから。
けれど僕は兄達に、彼がいまヒートになりかけていることは話していない。彼もまた、僕以外にその話をしていない。
家族を捨ててでも番になろうと、このヒートで結ばれようと、そう約束したふたりだけの秘密だったのだから。
ではなぜ、彼の早まった発情期を兄が、季兄さんが知っているのだろうか? そう考えて直ぐに、それが愚問だったと気づき思い出した。
この北大路季が、ひと一人の情報を引き出すことなど容易い立場の人間だと言うことを。
呼吸を乱した僕に、季兄さんが更に追い打ちをかける。
『間に合うと良いね、鶫』
彼はちゃんと抗えるかな? そう嘲笑う兄に今度こそ背を向けて、着の身着のまま、財布だけを手に取り僕は家を飛び出した。
彼にまだ、兄の魔の手が届いていないことをひたすらに願って…。
◆
玄関を飛び出して行った鶫を見送るように立つ季の後ろから、少し長めの柔らかな髪を掻き上げながら千鶴が声をかけた。
「兄さんはやる事がえげつないね。ツグちゃん、泣きそうだったじゃない」
そんな千鶴の溜め息にも似た声に、季はただ微笑んだ。
「これは教育であり、愛だよ。雛鳥が殻を破り、広い世界を知る為のね」
期待に満ち溢れた世界の、更にその先を知った雛鳥はその時、一体何を想うだろうか…?
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