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ここはどこ僕は誰?
いつも通りだ。
7時55分。
ノーブルハリー通りのバス停。
新作映画の広告が貼られた青色のバスが到着する。
灰色の空は薄っすらと太陽の光を届ける。
真っ白な霧に包まれた通りはひんやりと肌を撫でる。
鳥の鳴き声?
そんなもの、ここ5年ほど聞いていない。
懐かしいようで、人間慣れれば忘れるものだ。
鳥も、カエルも、コオロギも、かつて背景で音を奏でていた動物たちは存在しない。
あと10年すれば、動物の存在を忘れるだろう。
1、2、3と数えれば革靴の重い足音が僕から2メートルほど離れた位置で鳴る。
「おはよう」
いつも通りの挨拶。
革靴を軽快に鳴らし、金色の髪を揺らした男がニコリと微笑んだ。
「おはようございます、カイルさん」
この短いやり取りを僕たちは毎日繰り返す。
ただそれだけ。名前しか知らない僕らは朝の挨拶をするだけ。
「バスが発車します。お近くの席にお座りください」
いつものアナウンスが流れ、いつもの席に座る。
先にバスに乗っていた人間たちもいつもと同じ席に座っている。
毎日、毎日、一秒も一ミリも変わることなく、僕たちは同じ毎日を送る。
「カイル、さん……?」
いつもと違う。
いつもは後ろから3列目左側の窓側に座る美丈夫な男が今、僕の隣に腰を掛けた。
「どうした、ジェシー?」
「ぼくの、な、まえ……」
「ん?なんて?」
「いえ、なんで、僕の名前を……」
「朝からジョークか?今日も面白いことするな、お前は。どうだ?今日はこのまま海へ行かないか?」
「え、でも、僕、仕事に行かないと。それにカイルさんも仕事ですよね。いつもみたいに」
「仕事……?何のことだ?仕事なんて、何十年も前に廃止された事を今更」
「廃止……?」
体のすべてが血を失うような、そんな気分になり僕は言葉をなくして椅子の背に寄り掛かった。
かみ合わない会話は、冗談だろうか。
いや、僕たちは毎日毎晩同じ行動を取る人間。
冗談など、いきなり言うわけがない。
「大丈夫か、ジェシー?大切なお前が青い顔をしていると心配でしょうがないよ」
肩まで伸びた金髪はふわふわとエメラルドの瞳を隠す。
優しい手つきで僕のおでこに添えられた左手は大きくて温かかった。
「熱はないみたいだな」
忘れてた何かを呼び起こすような笑顔が僕を見つめる。
何が起きているんだ……
「次はイーストビレッジ、イーストビレッジです」
はっと顔を上げると窓の向こうに映るのは小さな町だった。
逞しい指が髪を撫で、優しく僕の手を包む。
「降りるぞ」
「え、待って、でも」
「…?ここはお前のお気に入りだろ? いつもみたいにイヴァンさんとこのカフェでコーヒーを飲んでから買い物でもしよう」
投げかけられる言葉の意味が分からない。
何年も何年も毎日欠かさず同じ行動を取ってきた僕はここに来たことがない。
他の人間だってそうだ。この町に来る役目がない人がここに来ることはないはずだ。
「ジェシー、おいで」
僕の腰を包む手から心地よい体温が伝わる。
イーストビレッジは霧に包まれていなかった。
晴天だ。灰色でない空を見たのはいつぶりだろう。
いつもと違う。
何かが違う。
ここはどこ僕は誰?
Fin.
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