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前編

 見合いの席で、僕は彼に恋をした。  会社同士を繋ぐための、政略的な結婚。そのための見合いだ。今どきそんな、時代錯誤にもほどがあると内心憤慨していたけれど、彼を見た瞬間そんな考えは吹き飛んだ。  スラリとした長身に、無駄のない肉体。ワイシャツから覗く腕を見て、その肉体が程よく鍛えられているであろうことも伺えた。  甘いマスクに仄かに香る麝香のフェロモン。  アルファらしいアルファが僕に向かって微笑みかける。  見合いは形式通り進み「後はお若い二人で」なんて常套句を告げられて、僕らは二人きりで庭の散策をすることになった。  彼は僕を振り返って 「君さえよかったら、このまま話を進めたい」  そう言った。  拒否するつもりは毛頭ない。 「僕でいいんですか?」  恐る恐る聞いてみると、彼は笑顔で首肯した。  トントン拍子に話は進み、華燭の典が行われたのは一年後のこと。  列席者に暖かく祝福されて、僕は涙を流しながら幸せに酔いしれた。  真面目で誠実な彼とは新婚旅行で初めて肌を合わせ、同時に(うなじ)を噛まれた。  僕の肌を突き破る犬歯の感触。  ガリリと噛まれた瞬間に沸き上がった高揚感と多幸感。  一気に沸き上がった僕のフェロモンと、それに呼応するように吹き出した彼のフェロモンが混じり合い、一つになって僕らを包んだ。  こうして僕らは、名実ともに番になったのだった。  新婚生活は順風満帆に進み、やがて長男が生まれた。  彼はもちろん両家の親も喜んでくれた。  真面目で優しい彼は、僕のことも子どものことも大切にしてくれた。  僕はまさに幸せの絶頂にいた。  しかしそんな生活は長くは続かなかった。  彼の“運命の番”が現れたのだ。 「……すまない」  そう言って彼は家を出て行った。  僕にも子どもにも、一度も目を合わせることはないまま、ボストンバッグ一つを手に、愛しい『運命』の元へと去って行く夫。  数日後、彼から届いた手紙には、『俺の荷物は全て処分してくれ』と書かれた一筆箋と、離婚届が同封されていた。  僕は人を雇って彼の現状を調べさせた。 『運命』のアパートに転がり込んで、蜜月を過ごしているらしい。  彼の父親が経営する会社には出社しておらず、親には退職の意向を示したメールが届いたそうだ。 「不出来な息子ですまない!」  彼の両親は、僕と僕の両親に向かって頭を下げた。  しかし激高した僕の父は、彼の親に向かって今後の取引を一切やめると宣言。その言葉に彼の両親は大いに焦った。  そんなことをすれば、会社の経営が危なくなってしまうからだ。 「なんとかして連れ戻しますから!」  そう土下座する彼の両親に 「無理強いはいけません……だって彼らは『運命』だから……」  そう伝えると、僕は子どもを連れてその場を後にした。  夫は未だ『運命』とは番になっていないようだ。  本来は義理堅いあの人のこと。僕との離婚が成立するまでは、番の契約をしないつもりなんだろう。  一刻も早く、離婚届を出してくれ――そんなふうに書かれたメールを読んで、僕はため息をついた。 「早く、番になればいいのに……」  後は僕の決断次第……と言うことか。  僕なんて気にせずに、番契約を結べばいいだろうに。  それをしないあなたは、どこまでも……。 **********  離婚のための準備を始めて数週間。  やることは山のようにあった。  財産分与、子どもの親権、慰謝料や養育費の問題……その一つ一つを弁護士を交え、僕の両親と夫の両親に確認を取りながら、作業を進めていく。  忙しさに忙殺されていたある日、不意に玄関のドアを開く音がした。  リビングにフラリと入ってきたのは、窶れきった姿の彼だった。  柔和な顔からは笑みが消え、血の気が失せて真っ白な顔をしている。 「どうしたの? 離婚の手続きはまだ終わっていなくて……もう少し待っていて」 「……『運命』が、死んだ」  夫はポツリとそう漏らした。  聞けば彼の『運命』は、通勤途中に駅のホームで足を滑らせて命を落としたらしい。  憔悴しきった彼はそこまで話すと、僕の前で咽び泣いた。  運命の番に出会ったことのない僕に、彼の絶望に深さはわからない。  けれど絶望しきった彼を放っておくことは出来ず、キュッと抱きしめ背中をずっとさすり続けた。  彼はそのまま家に留まり、暫く外へは出なかった。 『運命』と共に過ごしたアパートに帰るつもりはないらしい。そこにいるだけで相手を思い出して辛くなるそうだ。  自室に篭って悲嘆にくれる夫を、僕は献身的に支えた。  廃人のようだった彼は、やがて少しずつ元気を取り戻していき、会話も徐々にできるようになった。  そして半年後には以前のような生活ができるまでに回復したのだった。  それを見届けた僕は、子どもを連れて家を出た。  番を失ったオメガのシェルターに行くためだ。  なんらかの理由で番をなくしたオメガは通常、次第に狂っていくという。  正気をなくすまでの時間は個人差があるが、どのオメガも例外なく狂気の中に沈んでいくのだ。  そうなったオメガを隔離するための施設。それがシェルターだ。  子どもはシェルターに向かう前、実家に預けた。  両親は泣いていた。  シェルターに入らずに、ずっと家にいればいいと言ってくれた。  けれど僕は断った。  番を失って理性をなくしたオメガは、何をするかわからない。  これ以上両親に迷惑をかけられないからと言うと、二人は咽び泣きながらも「子どものことは任せてくれ」と言ってくれた。  母の腕の中で眠る子どもに最後のキスをして、僕は実家を後にした。  タクシーを使い、郊外に建つシェルターに向かう。  初めて目にするシェルターは高い塀に囲まれて、中を窺い知ることはできない。  まるで刑務所みたいだなと思った。  一度ここに入ったオメガは、二度と外に出ることはない。  両親とも、子どもとも、そして夫とも……本当にお別れだ。 「さようなら……」  ここにいない夫に向けて、別れの言葉を呟いたその時、突然腕を引かれてたたらを踏んだ。  振り向くと、そこに夫がいた。 「なぜ……?」 「どうしてこんなところにいるんだ」  夫は激しい怒りを顕わにして、僕に詰め寄った。  普段の柔和な表情からは考えられないほど恐ろしい顔をした夫に、僕は震え上がった。  夫は僕を車に乗せると、自宅へと連れ帰った。 「なぜシェルターなんかに入ろうとしたんだ!!」  怒りに満ちた怒鳴り声。  けれどその声色には、絶望の音が混じっていた。 「あんな所に入ったら、一生出てこられないんだぞ! お前は俺を捨てるのか!?」 「だって、僕らは離婚するんだよ。番を失ったオメガは、シェルターに入るのが常識でしょう?」 「……っ! でもお前は俺を見捨てず、ずっと側にいてくれただろう?」 「それは絶望するあなたを放っておけなかったから……。だけどあなたはもう大丈夫。しっかり立ち直ったでしょう? だから僕は家を出たんだ」 「嫌だ! 離婚は取り消す! だからシェルターに行くなんて言わないでくれ!!」  彼は半狂乱になって僕に縋った。 「だけどあなたは僕を捨てて『運命』を選んだじゃないか」 「俺が本当に悪かった! なんでもする、お前を絶対に幸せにするから、俺の前から消えないでくれ!!」  彼は必死になって懇願し続けた。  僕はそもそも夫が嫌いになったわけじゃない。むしろ彼が『運命』の元に走った後も、彼を愛し続けていた。  だから夫のその言葉が何よりも嬉しくて、涙がホロリと零れた。 「けれど一度壊れた絆は、二度と元には戻らない。だから今別れた方が、きっとお互いのためだよ」 「いやだ、お前のいない未来なんて、俺には考えられない!」  そう言って譲らない彼に絆された僕は、その後も彼との結婚生活を続けることにしたのだった。 **********  その後、二人の間に波風が立つことはなく、穏やかで優しい時間が過ぎて行った。  僕らは共に歳を重ねて、しわくちゃのおじいちゃんになった。  けれど彼の魅力は変わらない。それどころか若いころにはなかった貫禄も充分に付いて、いつまでも僕を魅了し続けてくれる。  金婚式の晩、彼は僕にこう言った。 「あのとき『運命』の手を取った馬鹿な俺を見捨てなかったお前には、本当に感謝している。いくら『運命』だったとは言え、少しの間でも誠実で一途なお前を捨てたなんて、本当に馬鹿げたことをした。こんな俺をずっと愛してくれたお前を、俺も心から愛している。今まで本当にありがとう」 「過去のことはもう忘れて。僕も愛してる」  彼は僕をギュッと抱きしめて、触れるだけのキスをした。  その背中に腕を回して、唇を受け止める。  あの日から変わらない愛の言葉。熱い抱擁。  全てが思い描いていたとおりに進み、僕は最上の幸せを手に入れたのだ。 ――あのとき上手く立ち回ることができて、本当によかった。  そうほくそ笑んだ僕に、彼は全く気付かない。

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