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後編

 あのときの僕は、たかが『運命』ごときで離婚する気なんてさらさらなかった。  けれど彼に追い縋り「絶対に離婚しない」なんて宣言したら、きっと夫はすぐにでも『運命』と番になったことだろう。  僕と離婚するために。  そんな強硬手段を取られたら、僕はもう本当にどうすることもできない。  だから、敢えて縋らなかった。  夫が望むとおりに離婚の手続きを粛々と進めて、彼を安心させることにしたのだ。  僕の読みは当たり、元来真面目な彼は僕の姿を見て、最後までを夫として誠意溢れる態度を取り続けてくれた。  離婚が成立するまでは、『運命』と決して番契約を結ばなかったのだ。  そして僕のこの行動は、両家の親にも覿面だった。  すっかり諦めきって離婚の準備を進める息子(ぼく)を不憫がった父は、夫の実家に圧力を掛け始めた。  それは業務に多大な影響を及ぼすもので、圧に耐えかねた彼の親は僕の元に日参して、許しを乞うたのだ。 「息子はなんとしてでもこの家に連れ戻すから、離婚は思いとどまって欲しい!」 「そうは申されましても……『運命』の絆は、普通の番よりも強固なものと聞きます。あの人にそんな相手が見つかった以上、僕たちは別れるよりほかないんです」 「しかし」 「たとえば『運命』が急に消えていなくならない限り、彼はこの家には戻ることはないでしょう。でもそんなこと、起こるはずがないですよね? だから僕らは離婚するしかないんです。ご期待に添えず、申し訳ありません」 「消えて、いなくなる……」  彼の父は何か深く考え込むような顔をして帰って行った。  夫の『運命』が死んだのは、それから間もなくのこと。 『運命』の死の真相を僕は知らないし、知ろうとも思わない。  肝心なのは、その後なのだから。  夫の『運命』が死んだことを彼の父から告げられた僕だけど、身の回りの整理は引き続き行っていた。  けれど内心、彼は僕の元に戻ってくると確信していた。  予想通り、夫は家に戻ってきた。  憔悴した彼を慰め、支える日々が続く。  そんなときでも、家を出る準備は怠らない。  すぐにでも出て行けるように身の回りを整理し、この家から僕と子どもの痕跡を少しずつ消していったのだ。  半年後。  ようやく立ち直って正気に戻った彼は、家の中の様子が以前と変わっていることに気付いて、愕然としただろう。  僕の私物や子どもの物が消え失せて、ガランとしたマイホーム。家中どこを探しても僕と子どもの姿はない。  極め付けはテーブルの上に置いた結婚指輪と記入済みの離婚届。  連絡が取れないようにスマートフォンも置いて出た。  再び一人取り残された彼は驚愕し、恐怖したはずだ。  両方の実家や友人知人に連絡しても、誰も行方を知らないと言う。  彼の実家や友人たちには何も告げていないし、僕の実家には黙秘するようお願いをしていた。もっとも口止めしなくても、夫のことを激怒している両親は、彼に何も伝えなかっただろうけれど。  そしてスマートフォンの最後に登録されてあった友人から、僕がオメガのシェルターに向かったことを聞かされた彼は、大急ぎで駆け付けて僕を捕まえたのだ。  もちろんこれも、僕のシナリオ通り。  僕の友人たちに連絡を取りやすくするため、わざと残したスマートフォン。その一番最後に登録した人物だけに、行き先を告げていたのだ。  時間稼ぎの甲斐もあり、夫はシェルターに入る寸前の僕を捕まえてくれた。  実際にシェルターなんかに入る気はなかったけれど、あのときはこう言うパフォーマンスが必要不可欠。  僕の目論見は当たり、愛する『運命』に先立たれたうえに、打ちひしがれる自分を献身的に支えた僕まで失いかけた夫は、半狂乱に陥った。  別れたくない、側にいてくれ、お前がいないとダメなんだ。  号泣しながらそう言って僕に縋る。 『運命』を亡くして一番辛い時期を支えた僕まで失うのは、身を切るくらい辛かったんだろう。  その姿は本当に愚かで滑稽で、実に愛おしかった。  渋々と言った(てい)で夫と共に家に戻った僕を、彼は本当に離そうとはしなかった。 『運命』が現れる前の幸せだったころのように……ううん、あのころ以上に溢れんばかりの愛情で僕を包み込み、常にいい夫、いい父親であろうと精一杯努力し続けたのだ。  それほどまでに愛する者との別れは辛かったのだろう。……『運命』に出会ったことのない僕には、全くもって理解できない話だけれど。  そしてもう一つ、『運命』が現れる前と決定的に変わったことがあった。  夫は僕に運命の番が現れることを、恐れるようになったのだ。  どれだけ愛情を持っている夫婦でも、『運命』に出会ってしまえば全てが狂う。それは自分の経験上、よく理解していたらしい。  だから一度は手元に戻った僕が、再び自分の元から離れることを、彼は恐怖したのだ。  夫は僕を外に出そうとはせず、家中に監視カメラを付けて、外出先でもスマートフォンで僕の様子をチェックできるようにした。  僕が一歩でも家から出ると、すぐにスマートフォンが着信を告げる。 『どこに行くんだ!?』 「ポストに郵便物が入ってないか、確認しに行ったんだよ」 『そんなものは俺が帰ってから見るから、お前は家から出ないでくれ!!』  夫が悲しむから、僕は家から全く出ない。子どもが幼稚園に行った後は、目の前の端末を弄って暇を潰す日々。そんな姿は監視カメラに写っているはずなのに、それでも夫の不安は消えない。  日に何度も連絡を入れてきては、僕が何をやっているか聞き取りをして、帰宅後はパソコンやスマートフォンの履歴を見て、他人と不用意に接触を図ろうとしなかったかを確認しすると、ようやく安堵の息を漏らすのだ。  全くもって常軌を逸した行動。  けれど僕には、それが心地よかった。  束縛され、死ぬまで離してもらえない状況に、夫の愛の深さを実感することができたから。 **********  あれから数十年の月日が流れて、僕らは無事に金婚式を迎えることができた。  これも全て、僕の行動による成果。  あのとき夫は僕に遠慮なんかせず、躊躇うことなく『運命』の(うなじ)を噛んでいたら、もっと穏やかな愛で包まれた日々が待っていただろうに。  それをしなかったあなたは、どこまでもツメの甘い人だ。  おかげで狂気の渦に囚われてしまったね。  その代わり僕は、愛するあなたを失わずに済んだわけだけれど。 『運命』を見事退(しりぞ)けた僕は、人生の半分以上の時間を彼の隣で過ごすことができた。  彼の『運命』は草葉の陰で、さぞ悔しがっていることだろう。  お生憎さま。  一介の番だって、ちょっと策を(ろう)すれば『運命』から愛を取り戻すことは簡単だというわけさ。 『運命』なんて不確かで曖昧なものに胡座(あぐら)をかいて、努力を怠った己を呪うがいい。 「愛してる。本当にお前だけだ。死ぬまで絶対離さないから」  あの日から何千、何万と繰り返し囁かれてきた愛の言葉。  麝香のフェロモンが僕を包む。彼もまた、立ち上る僕のフェロモンを感じていることだろう。 「僕も愛してる。死ぬまでずっと、一緒だよ」  絡みあい、一つに溶ける互いの香りに酔いしれながら、僕らはソッと唇を重ね合わせたのだった。 【サザンカの花言葉:困難に打ち克つ】

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