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第一章 下げ渡されたオメガの王子

 リーンハルトは、震える指と怯える心を叱咤した。  薄暗い部屋の中。ひとりベッドに腰掛ける。  ギシリ……と尻の下が妙な感じで軋み、ビクリと身を竦めてしまう。  自分が身じろいだから起きた音なのに。  そんな些細な音ですらおののく、自分の心の弱さが嫌になる。  心許ないリーンハルトは、窓の外に視線を移した。  とっくに夜の帳は下りている。窓から見えるのは、黄色い月だけのはず。  なぜだろう。今夜はなぜだか闇空が赤々としている。まるで、街中のいたるところで篝火が灯されているようだ。  城下街で何か特別な催事でもあっただろうか。  リーンハルトは自嘲気味に笑った。  自分は、この美しく傲慢な国ヴェンデルの第四王子だというのに、自国の祭りも催し物も知らないのかと恥ずかしくなる。 「ああ……。もう王子ではないのだから……どうでもいいか……」  そう呟いた瞬間、ゆっくりと扉が開いた。リーンハルトの全身が、石のように固まる。  部屋に入ってきた人影はとても大きかった。縦にも横にも広がっており、リーンハルトの緑の目には悪魔のように映ってしまう。 「待たせましたな」  その影は、のっしのっしと左右に身体を揺らして近づくと、ベッドに座るリーンハルトの前に立つ。  影の主の姿が月明かりに浮かんだ。  髪は全て抜け落ちており、脂ぎった頭部が嫌な光を放っている。  皺だらけの額。たるんだ瞼。落ちくぼんだ目の奥は、腐臭を放つ魚のようだ。  ごつごつとした鷲鼻に、いやらしそうに上がった口角。  ぶよぶよの顎に、見えないほど太く肉が乗った首。  ひとを外見で判断したくはないが、怠惰と飽食を繰り返したらこうなるのだという典型的な醜悪さ。  男は目を糸のように細め、黄色い歯を見せてにっかりと笑った。 「どうですかな。この部屋は。あなたのために用意した部屋ですよ」 「よい……部屋だと思います。でも私には少々きらびやかすぎて……」  嘘ではない。確かに素晴らしいと賞賛できるような部屋だ。  金箔を施した支柱を使った大きな天蓋ベッド。最高級天然シルクを用いたスリーピングカーテン。  滑らかなリネンシーツに、織り模様がきれいな掛けシーツ。ベッドの天井には、珍しい職人技の組み木が見える。  贅沢な仕様はベッドだけではない。  高名な家具デザイナーの作と思わしきサイドテーブルやクローゼット。  外国から取り寄せたモザイクガラスのランタンに、珍しい花が生けられた芸術的な花器。  すべてが贅沢の極みと言える。 「そうですか。今夜から、わしとあなたが一緒に暮らす部屋ですからなあ。これくらい豪奢なほうがいいでしょう。ああ……わしが見立てた夜着も、あなたの美しさを際立たせていますなあ」  リーンハルトは女物のナイトウェア着せられていた。  シフォンのナイトウェアは、恥ずかしいことに上から下まで透けていた。  下着を履くことを禁じられたので、ナイトウェアの上からきっちりとガウンを着込み、腰帯を締めて肌を露出しないようにしている次第だ。 「我が美しい妻よ。さあ、わしにあなたのすべてを見せておくれ」 「私は男です。妻などと……」 「ほお……男と?」  山のように大きな男は、リーンハルトの横に腰掛けた。ベッドがミシミシッと激しい音を立てて軋む。  男はリーンハルトの首筋に鼻を寄せて、何回も息を吸う。  悪寒どころではない。怖気がするほどの嫌悪感だ。 「こんなに良い匂いを放っておいて? あなたからはメスのフェロモンの匂いがしますよ。わしを惑わす香りですな」 「は、離れていただけますか。あの……」 「そんな態度を取ってもよいのかね?」 「あ……」  男が、にひひ……といやらしい笑いを浮かべる。 「あなたはもう王家の人間ではないのですよ。廃籍され、わしに下げ渡されたのです。王子の肩書きもなければ後ろ盾もない。わしを怒らせたら……」  温和な口調が、突然恫喝するようなものに変化する。 「身ぐるみ剥いで、裸のまま屋敷を追い出しますよ。無事にいられますかねえ。あなたは、この国では最下層のオ……」 「言わないでください。わかって……います」  瞼をぎゅっと伏せ、絞り出すような声でそう返す。  男は項垂れるリーンハルトに満足気したのか、嘲るような笑いを落とす。  それから男は馴れ馴れしくリーンハルトの肩に手を置くと、自分の身体に取りこもうとした。  ぶよぶよした下腹の肉があたって、全身の毛が逆立つほど気持ちが悪い。 「賢いあなたが大好きですよ」  男はリーンハルトの肩を強く掴むと、ベッドから強引に下ろさせた。  そのまま自分の足元にひれ伏させるような体勢をとらせようと、頭をつかんで床へと押し下げる。 「さあ。わしに忠誠を誓いなさい。従順な妻となり心から尽くすと宣誓するのです。それがあなたの生きる道ですよ」  あろうことか、男はリーンハルトの額を大理石の冷たい床につけさせようと、頭に足を乗せてきた。 「誓うのです。わしへの愛を」  男の足は従順を促すかのように、ぐいぐいと何回もリーンハルトの頭を押し潰す。  そのたび額が床に当たり、その冷ややかさと非道な仕打ちに泣きそうになる。 「早く言いなさい。いつまで床にひれ伏しているつもりですかな?」  男が求める言葉をリーンハルトが言わない限り、いつまでもその体勢を強いるつもりらしい。  リーンハルトは震える唇を、ゆっくりと開いた。 「あなたの……良き妻になります。どうか……」  リーンハルトの言葉が、ここで詰まる。  心が反対の意思を示しているのに、言葉だけが放たれるわけがない。  焦れた男がぐいぐいと足首を捻り、リーンハルトの頭をこれでもかと床に押しつける。  うなじでひとくくりにしていた長めの金髪が、男の手荒い行為で紐が緩み、はらりと床へ落ちた。 「うっ……」  屈辱と逆しまの感情に、目の奥が熱くなる。  こみ上げる嗚咽と涙に、もう何も言えなくなった。 「早く言えっ! いつまでお高くとまっているんだ! この期に及んで、まだ王子気取りかっ! それともわしがベータだからバカにしてるのかっ! このオメガめっ!」 「そ……そんな……っ……」 「だったら早く言え! わしを愛していますとな!」  リーンハルトは、されるがまま踏まれ続ける。  反逆ではないが、この男に愛の誓いを語ることが、どうしてもできなかった。  無言のリーンハルトに、焦れた男は胸元から取り出した鞭を振り下ろす。  ヒュンッと空を裂く音がして、薄布越しにリーンハルトの背に当たった。 「ひっ……! ぁあっ……」 「痛いかね。強情を張るからだ。さあ、言えっ! わしに服従すると! わしに奉仕するとな!」 「あ……」  男は本性をむき出しにし、愛ではなく暴力で愛を誓わせようとする。  リーンハルトは髪を掴まれて、強引に顔を上向かされた。  壊れた人形のようにだらりと手足を弛緩し、男にされるがまま頭を揺らされる。 「美しい……。本当にあなたは美しい。あの豪傑な王家の人間とは別の意味でそぐわなかった」  男の生臭い息がリーンハルトの顔に当たる。  思わず眉をしかめてしまったが、男は満足気にリーンハルトの顔を眺めた。 「金糸のように艶やかな髪、白磁のように白い肌。エメラルドのような目に、唇は熟れた果物のよう。……ああ。世間の美を全て集約しても、あなたの美しさには敵わない」 「ふっ……」  鞭で打擲された背が燃えるように熱い。  リーンハルトは肩を揺らし荒い息を吐くだけで、男の賞賛など一切耳に入ってこなかった。  外見だけの賛辞など、意味のないことのように思える。 「美しいあなたを鞭打つことですら、まるで神の与えた試練のようだ。きっとあなたは傷跡すら美しいのだろう」  男の仮借ない暴力の言い分けなど、どうでもいい。引き合いに出された神がいい迷惑というものだろう。 「さあ。言っておくれ。あなたの唇から、わしへの愛を語っておくれ。美しい王子リーンハルト」  王家の人間ではないと言いながら、王子と呼称する。  この醜悪な男の嫌がらせなのか。  それともまだリーンハルトに、なけなしとはいえ王族としての威厳が残っているのか。  どちらにしても強情を張る意味などない。  リーンハルトがヴェンデル王国では最下層とされるオメガである限り。  アルファしか生まれないとされるヴェンデル王家の厄介者である限り。  いつかは誰かに孕まされるのだから――。  苦しさをなんとか押しのけ、絞り出すように男の望む言葉を吐こうとする。 「……わ、私はあなたを……」  リーンハルトは最後まで言葉を発することができなかった。  窓の外から野獣のような咆哮が聞こえてきたからだ。 「うるさいな。何ごとだ」  男は悠長にかまえていたが、聞こえてくる叫声がどんどん大きくなると、さすがに異常事態だと察知した。  リーンハルトを床に突き飛ばすと、慌てて窓へと足を向ける。  窓枠に手を掛け、乗り出すようにして外の様子を覗う。 「なっ……なんだ! これは!」  男の驚愕にリーンハルトも何ごとだろうかと、よろよろと立ち上がった。  ヴェンデル王国の最高政治権力者であるこの男の屋敷は、高台の一等地に構えられている。  広大な敷地面積を持つ城塞の中央に属しており、そうそう不審者が入り込めるような構造にはなっていない。  だが今はまったく様相が違っていた。  城下街から城塞の中庭まで、煌々とした篝火の大軍がうねった蛇のように続き、城の玄関まで続いているのだ。 「暴挙を許すなー!」 「悪徳宰相の首を取れ!」  大挙として押し寄せるひとびとが、松明を振りかざし声高に叫んでいる。  これは明らかなる反乱だと思えた。 「どうしたことだ! 城門兵はどうした! なぜこのようなことに……!」 「反乱だとしても、ここまでくるなんて……。まさか王城も落とされた……?」  リーンハルトが呟くと、男……ヴェンデル王国筆頭宰相は何かに弾かれたように身を振るわせる。  それから、あたふたと逃げる用意をし始めた。  クローゼットから外套を取り出し、机の引き出しから宝石類をポケットに詰める。 「誰か! 誰かここにこい! 状況の報告をしろ!」  使用人を呼び寄せるため柏手を打つ。だが誰も現れなかった。  リーンハルトは狼狽える宰相を捨て置き、再度窓の外へ目をやった。  宰相が右往左往しているその間にも、松明を持った人々が城塞内へ流れ込んでくる。  その動きは一糸乱れぬものだ。どう見ても統制が取れている。ただの反乱にしては手際がいい。  宰相がドタドタと足を踏みならし、扉へと向かう。 「逃げるのですか?」  リーンハルトは扉へ向かう宰相に、冷たく声をかけた。 「わしは……ひ、筆頭宰相としてやるべきことがある! あなたは好きにすればよい」  ヴェンデル王国最高政治権力者、筆頭宰相であるこの男が、今まで国のためになるようなことをした記憶がない。  そんな男でも国の災禍には、何か行動を起こすのだろうか。  だが男は言動と行動が伴っていなかった。 「誰か早馬を用意しろ! 隣国へ遣いを出せ!」  瞬間、バタンッとすごい勢いで扉が開いた。 「なっ……何者だっ!」

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