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第二章 再会は血にまみれ
宰相の語尾が震えていた。予測できない謎の事態に怯えている。
リーンハルトの父であるヴェンデル国王アルヴァンの庇護をいいことに、周囲に対し不遜な態度で好き放題に振る舞う男が、今は情けなくガタガタと狼狽えていた。
そのさまは、実に情けないとしか言いようがない。
扉を開け、悠々と部屋へ入ってきたのは長躯な男。
獅子を象った兜軽 を被り、左胸にあたる部分のみをガードする胸甲、腰には長剣の柄を装備していた。
それ以外はシャツとブリーチズ、マントだけという軽装で、それが逆に男の強さを物語っている。
どこからどう見ても剣士と思われる男が、宰相とリーンハルトの前に立ちはだかった。
「何者だと? 私は反乱軍……いや」
低くくぐもった声が、部屋中に響く。
兜軽越しでもわかる、人を導き従わせる力を持つ強者の声。
「この国のすべてを奪う簒奪者だ」
「何っ!」
背の高い剣士は宰相の逃げ道を塞ぐように、まっすぐこちらへと向かってきた。
間近で見れば見るほど、その剣士が屈強な体つきをしていることがわかる。
筋肉で盛り上がった二の腕、厚い胸板。ひとを圧倒するオーラ。
剣闘士のような格好も、宰相を戦慄させるのに十分な役目を持っていた。
男が長剣をヒュンと薙ぐと、大理石の床に真っ赤な鮮血が散らばる。すでに何人も屠ったのだろう、剣には流れるような血がまとわりついていた。
「うわぁぁあっ……」
宰相は驚きで、重い尻から床に倒れ込んだ。腰が抜けたのか、四つん這いになって逃げ出そうとする。
太りすぎて足が上手く動かせないらしい。何回も無駄に足を掻くだけで、まったく前へと進まない。
剣士は無様な姿の宰相を一瞥すると、興味を失ったようにリーンハルトへと向き直った。
剣先をすっとリーンハルトの喉元にあてる。
剣士は反乱軍、簒奪者と口にした。であればリーンハルトがヴェンデル国王の第四王子と知ったら直ぐさま命を奪うかもしれない。
それもいいだろう。リーンハルトはこの国にも、自分の命にも執着がないのだから。
そう。
憧れの彼が故郷へと戻ってしまってから、リーンハルトは抜け殻のような状態といっていい。
リーンハルトは狼狽えることなく、落ち着いた態度で剣士に向かいあう。
「私はすでに廃籍の身となりましたが、昨日までこの国の第四王子でした。私の首が欲しければどうぞ。できれば……」
そのまま膝をつくと、両手を合わせ指を絡ませる。
「苦しまないよう、ひと思いに殺してください。お願いします」
剣士は大股で歩き出すと、リーンハルトの背後に回った。
彼が仕事をしやすいようにと、頭を下げ前屈みになる。
時間にしたらほんの数秒。
てっきり剣が振り下ろされるとばかり思っていたのに。
剣士が剣呑な声でこう問うてきた。
「この傷はどうした」
月明かりの中、血の滲んだリーンハルトのほっそりした背が浮かぶ。
ベッドの脇に落ちている鞭を見て、誰によってつけられた傷なのかを悟った剣士が舌打ちする。
「よくも……」
背中越しに剣士の気が昂ぶるのを感じた。
剣が空を薙ぐ音に、リーンハルトは身を強ばらせる。
ズチュッと鈍い音が部屋中に響く。肉と骨を断つ、嫌な音だ。
ゴロリ……と何かが自分のほうへ転がってくる。膝に当たり、うっすらと目を開けた。
そこには……。
「ひっ……!」
宰相が、だらりと舌を出し血走った目でリーンハルトを見ていた。
宰相の生首がそこにあったのである。
「いやぁああああっ……!」
恐怖のあまり、堰が切れたように悲鳴をあげる。
小刻みに震えるリーンハルトに剣士が声をかけた。
「おれと一緒に来るんだ。リーンハルト」
剣士は、慄然とするリーンハルトの腕を掴むと強引に立ち上がらせる。
力強く引っ張られ、引きずられるようにして歩く。
部屋を出ると、いたるところで叫声と怒声が飛びかっていた。
これほどの騒ぎになっているのに、まったく気がつかなかったなんて。
剣士は大股でどんどんと歩いて行く。
足に力の入らないリーンハルトは、途中で波打った絨毯に足を取られ、倒れ込みそうになる。
見かねた剣士がリーンハルトの腰を掴むと、ひょいと荷物を担ぐように肩に乗せてしまった。
なんと屈強で豪腕なのだろう。
「お、下ろしてください」
「落とされたくなければ暴れるな」
地面を見て背筋がぞっとした。
男の肩の上は思いの外高く、落とされたら全身をしたたかに打つだろうと容易に想像がつく。
リーンハルトは無駄な抵抗をやめ、落とされないよう彼の太い首にしがみつく。
すると不思議なことに、血と汗の匂い以外にも不思議な芳香が彼から漂った。
不快感ではない。なぜか、リーンハルトを落ち着かせるような香りだ。
ようやくまわりに注意を払えるようになったリーンハルトは、せめて今の現状を知りたくて、背を反らして周囲に目を向けた。
宰相は金や宝石をしこたま溜め込んでいたのだろう。次々と兵士が戦利品を持って剣士のもとへ報告に来る。
どうやら剣士は反乱軍のリーダーらしい。
「地下に監禁されているオメガの男女がいます。どうしますか」
「どんな様子だ」
「衰弱しているものが多数です。おそらく性奴隷として飼われていたのでしょう。どれも美しい若者たちです」
「全員、保護しろ」
「はいっ!」
兵は力強く返事をし、他の者へそう指示を出した。
命令系統がしっかりとできているのだろうか。金目の物を懐にしまう姑息な者もいないし、無意味に屋敷を汚す者もいない。
どちらかというと統率された兵士に見える。
「彼らをどうするつもりですか……。ひどいことをするのではないでしょうね?」
そう問うと、彼は目を細めて見返してきた。
「おれがこの屋敷を落とさなければ、明日は我が身だというのがわからないのか」
「えっ……」
「筆頭宰相という地位を利用し、あの愚劣な男は何人ものオメガを監禁し慰み者にしていた。そうなりたいのか、リーンハルト」
そう聞き全身がぶるぶると震える。
地位あるものが何人ものオメガを地下に監禁し、性奴隷として慰み者に……。なんということだろう。この国はそこまで腐敗していたのだ。
リーンハルトは、大事なことに気がついた。
「なぜ、あなたは私の名を……」
男が腰を屈めると、リーンハルトの足を床につけさせた。
正面から向かい合う体勢になる。
「おれを忘れたのか」
剣士が軽兜を外す。ファサリと黒い髪がなびくと、一緒に汗が舞った。
「……あなたは、まさか……そんな……。あなたが……」
意思の強そうな太い眉に、くっきりとした切れ長の目。
瞳も磨かれた黒曜石みたいな黒で、今はリーンハルトだけを映している。
高い鼻梁に、ふっくらとした唇。面長の顔はとても男らしい。
数年ぶりに見る彼は、思い出の中の少年とは違い、見事な体躯をしていた。
リーンハルトは彼を知っている。
「まさかと思うが、おれの名を忘れたのか?」
リーンハルトは首を振る。
この六年間、一時だって忘れたことはない。ずっと彼のことが気がかりだった。
「忘れるものか……」
「じゃあ呼んでくれよ。おれの名を」
リーンハルトの目に熱いものが溜まる。ちょっとした身じろぎで、目から雫が流れ落ちそうだ。
掠れた声で、懸命に彼の名を口にした。
「テオ……。テオドール……。私の……大事な……友……」
そう言うと、彼の目に少しだけ翳りが灯った。
「友? いや……」
テオドールはリーンハルトの細腰に手を回し、自分の広い胸に引きよせた。強い力でぎゅっと抱きしめられる。
生々しい血の匂いと汗に混じって、爽やかな森林と肉感的なムスクの香りがした。
それらが混じり合い彼独特のフェロモンとなって、リーンハルトの鼻腔をくすぐる。
その瞬間。
リーンハルトの全身に鈍い痺れが行き渡る。
まずい。これは発情 だ。
抑制剤を毎日欠かさず飲んでいるはずなのに、突然身に起こった現象にリーンハルトは狼狽えるしかない。
焦るあまり汗がどっと噴き出し、手足がぶるぶると震えた。
そんなリーンハルトの恐慌を知らないテオドールの低い声が、頭上に落ちる。
「残念だが、あなたは今からおれの奴隷だ。大人しくおれに捕らわれてくれ」
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