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第三章 助け出された王子とふたりの剣士
テオドールに手を引かれ、館の廊下を歩いていく。
リーンハルトはヒートの熱に浮かされた身体が辛くて、ガウンの前がめくれあがっても気にしていられなかった。
逆にテオドールのほうが透けて見える生肌が気になるのか、途中で立ち止まってリーンハルトの前に回るとガウンの紐をぎゅっと縛った。
きっと軟弱な身体が見苦しかったのだろう。胸元もきっちりと閉じられ、解けないよう二重で結ばれてしまった。
彼の指が薄い生地越しに触れるだけで、身がビクビクと震える。
リーンハルトがヒート状態であることなど、テオドールはとっくに察知しているに違いない。
オメガがヒートしているときに香り立つ、特有のフェロモンが鼻腔にまとわりついているはずだ。
当のリーンハルトはというと、自分の意志でヒートを抑えることができない。
頬は蒸気し、唇は半開きで閉じられず、肌は敏感になり、下腹の奥がムズムズと疼いている。
そんなリーンハルトを彼はどう思うのだろう。淫乱なオメガと蔑むのだろうか。
だがテオドールは何も言わず、再び歩き出した。
館の中は、阿鼻叫喚といった状況になっていた。
美しい男女が屈強な男たちによりかかり、よろよろと歩いている姿が視界に入る。
「性根の腐り果てた宰相が飼っていたオメガたちだな。狭い部屋に閉じ込め、一歩も外に出すことなく監禁していたようだ。足の筋肉が落ちてまともに歩けないのだろう」
テオドールの説明に、リーンハルトの心の内がぞわりと粟立つ。
「ひどいことを……。非道な行いだ。彼らをこれ以上辱めないでくれ」
テオドールは喉を震わせるように笑うと、辛辣な言葉を吐く。
「ひとごとじゃないぞ。のんきに同情している場合か」
そう言い捨てると、強く手首を掴まれたままエントランスを抜ける。
中庭では反乱軍と思わしき人々が、みなそれぞれに武器を持ち警備兵と応戦していた。
剣を持っているものはまだいい。中には木の棒や、武器とはとうてい言えない箒の柄で立ち向かっている者もいる。
だが見る限り、勝敗はほとんど決まっているようだ。
警備兵のほとんどは取り押さえられ、敗残兵を狩っている。
「テオドール兄さん! リーン! よかった無事だね」
巻き上がる怒声と埃の中、こちらに向かってひとりの男が駆けてくる。
彼はリーンたちの目の前で立ち止まると、この殺伐とした状況に見合わないほど鮮やかに微笑んだ。
「久しぶりだね、リーン。ぼくのこと忘れた?」
「アルフォンス……」
リーンハルトが小声で呟くと、笑顔の眩しい彼……アルフォンスが、再び嬉しそうに笑った。
「嬉しいな。覚えていてくれたんだ」
感極まったアルフォンスが、リーンハルトの両肩に大きい手をガシリと乗せた。
背中の傷がピキッと引きつり、思わず顔をしかめてしまう。
それを見とがめたテオドールが、アルフォンスを鋭くたしなめた。
「リーンハルトは背中をケガしている。アルフォンス、乱暴にするな」
アルフォンスが慌てた顔で、両手をぱっと上げた。
「ごめん! リーンがぼくのことを覚えていてくれたのが、すごく嬉しくて!」
忘れるはずがない。テオドールの五歳下の弟アルフォンス。
彼とも六年ぶりだ。黒髪、黒い目の硬質的な印象のテオドールとは違い、ブラウンの巻き毛に青い目をした優しい印象の少年。いやもう十六歳だから少年ではないだろう。
体格はテオドールと同じくらい屈強だが、背は少しだけ低かった。手には血のついた剣を携えている。
彼は昔からリーンハルトのことをリーンと呼んだ。姿形は変わっても、リーンハルトへの呼びかたが変わらないことに、切ないまでの懐かしさを覚える。
「待たせたな。アルフォンス。宰相の奴が、見取り図にある自室にいなかったんだ」
見取り図と聞き、この反乱が計画的であることを知る。
おそらく宰相が自室にいなかったのは、リーンハルトのために新しい部屋を用意し、そこで初夜を迎える予定だったからからだろう。
「間に合った? リーンは穢されていない?」
「ああ。なんとかな」
「良かった! 無事で! 急いだ甲斐があったよ!」
もう少しで、あんな男に身体を奪われるところだった。幾人もの男女を、己の欲のために監禁するような奴の……。
そう考えるだけで、リーンハルトの心が怖気で苦しくなる。
自分で自分の身を守るように抱きしめると、テオドールが自分の肩にかけていたマントを取り外し、リーンハルトを守るように被せてきた。
その光景を見たアルフォンスが、慌てて声をかけてくる。
「寒いの? リーン。テオドール兄さんのマントは血で汚れているよ。ぼくのを貸そうか?」
リーンと昔の愛称を呼ばれて目が熱くなる。
テオドールとアルフォンス。リーンハルトがずっと会いたいと心で願っていた、心優しく強い兄弟が、今現実に目の前にいる。
単純に喜んでもいいのだろうか。
だがリーンハルトは、先ほどテオドールが放った言葉が、耳に張りついて離れなかった。
『あなたは今からおれの奴隷だ。大人しくおれに捕らわれてくれ』
それが本気なら、単に宰相からテオドールに相手が代わっただけということになる。
だが肩にかけられたマントは暖かい。たとえ血と埃にまみれていようとも。
「かまわん。おれのマントで十分だ。それにおまえも血で汚れている。一緒だろう」
「それはそうだけど。ぼくがリーンに貸してあげたいんだよ」
テオドールは強固な視線だけでアルフォンスの訴えを退けると、すぐさま話を切り替えた。
「戦況はどうだ。おまえがここにいるということは、王城は落ちたということか」
アルフォンスは肩を竦めると、何か言いたげにリーンハルトを見た。
だがすぐに深刻な面持ちで、テオドールに説明を始める。
「うん。王城にいるヴェンデル王族は全員捕縛した。あっさりしたものだったよ。強大な軍事国家もここ数年戦争がなかったせいか、警備はあまりに緩く衛兵も手応えがなかったね」
「国王のアルヴァンや王妃のヘラは大人しく掴まったのか?」
「まさか」
アルフォンスが困った顔で、両手をひょいとあげる。
「苦労したよ。でも剣技はぼくのほうが上だね。見せつけてやったら降伏して剣を落としたよ。王城にいた王族は全員、王室専用地下牢に入れてある」
「そうか。ここも落ちた。王城で今後の作戦でも立てるか」
「そうだね。一番の要注意人物が戻ってくる前に、守りを固めたいし」
ふたりはリーンハルトを無視して話を進めていくが、どうにもこうにも聞き逃せない内容があった。
「待ってくれ。父と母……兄たちを地下牢だって……?」
訴えるリーンハルトを、ふたりが見返してくる。
テオドールは頭をカリカリと掻くと、アルフォンスの耳元に顔を寄せ何かを囁いた。
アルフォンスは深く頷くと、血まみれの剣を鞘に収める。
「うん。最後のひとりが残ってるけどね」
「最後のひとり……一番上の兄か……」
テオドールが深く頷くと、アルフォンスにこう命じた。
「すぐに動向を調べてくれ。悪いな、休む暇も与えられない」
「いいよ。リーン。あとで会おう。いっぱい話したいことがあるんだ」
「え? 待ってくれ」
リーンハルトは身内の安否が知りたくて、アルフォンスに取りすがる。
アルフォンスはリーンハルトの目をのぞき込むと、おもむろに視線をテオドールに向けた。
「兄さん。リーン、ヒートしちゃったの? ぼくを出し抜いて、不埒な真似しちゃ駄目だよ」
「うるさい。さっさと行け」
リーンハルトは父や母、兄たちがどうなるのか心配で、ヒートを知られたことに気を留める余裕がなかった。
アルフォンスがその場から離れ手近の馬に乗ると、数名の男たちを引き連れて門の外へ行ってしまう。
「アルフォンス。待って……。詳しく教えてくれ……。殺してしまうのか? 私の両親と兄たちを……。さっきの……宰相のように」
リーンハルトの悲しい訴えは、周囲の喧噪にかき消される。
その呟きを拾ったのはテオドールだ。
「そんなつもりはない」
リーンハルトは振り向き、冷静な顔の彼に問いかける。
「でも……さっきはあっさりと宰相の首を刎ねたじゃないか……」
「奴を殺したのは、あなたの背中を鞭で傷つけたからだ」
「え……」
そう言われて意識が背中に向かったのか、急にズキンと傷口が傷んだ。
無意識に羽織っていたコートを、ギュッと掴んでしまう。
「宰相の奴も、捕縛して王城の地下牢に放り込んでもよかった。いや、本当はそうすべきだった。隠し財産や悪行の数々を洗いざらい吐かすためにも、生かしたほうがよかった」
「ならば……なぜ……」
「あなたの背に血が滲んでいるのを見て、我を失って思わず剣を振り下ろしてしまった」
「私の……?」
テオドールは余計なことを言ったという表情をし、それ以上は口を噤んでしまった。
口笛を鳴らすと、どこからか馬が現れ、テオドールの胸元に顔を擦りつける。
彼はその背をひと撫ですると、馬は勇ましく嘶いた。
どうするのだろうと見ていたら、彼が鐙に足をかけ、ひらりと舞うように馬に乗りあげた。
「王城へ行く。あなたも一緒に来るんだ」
「家族に会わせていただけますか?」
「会いたいのか? 仕打ちを忘れたわけではないだろうに」
「それでも……身内ですから」
「わかった。そのうち会わせてやる。だから早く乗れ」
「あ、ああ……」
リーンハルトは馬に乗ったことがない。幼少の頃から貧弱で、更には運動神経もいまひとつのリーンハルトは、幼い頃落馬して以来馬に乗ることを禁じられていた。
まごついていると仕方ないといった風に両手を差し出され、脇下を持ちあげられる。
「手間がかかるな」
「私は小さい頃から、あまり身体が強いほうではなくて……乗馬は苦手というか……」
リーンハルトのどうでもいい言い分けに、彼は返答しなかった。
ひょいと馬の背に横のりする体勢になり、彼の筋肉質な二の腕で囲うようにして手綱を持たれる。
リーンハルトはそっと見上げて、感情の読めない彼を見つめた。
「馬を走らせるぞ。しっかり掴まっていろ」
「どこに掴まればいいんだ?」
テオドールがリーンハルトの肩に手を置くと、自分の身体に引きよせる。
「おれの身体だ」
瞬間、リーンハルトの体温が上昇する。一旦収まりかけたヒートが、再び熱を伴って身体中を駆け巡った。
「あ……」
身体を小刻みに震わせるリーンハルトに、彼が耳元で名を呼ぶ。
「リーン。落ち着くんだ」
「テオ……苦しい……」
はぁはぁと荒い息を吐き、肩口を震わせるリーンハルトを労るように、彼の手が髪を撫でる。
そんな行為ですら、リーンハルトを欲情させるのに十分な威力を持っていると、彼は知っているのだろうか。
なぜだかわからないが、テオドールに愛称で「リーン」と呼ばれると、背筋がゾクゾクと震えてしまう。
なるべく彼と接近しないようにしたとき、馬がゆっくりと走り出した。
結局のところ振動が辛くて、彼の逞しい胸にもたれかかることになる。
するとテオドールから香る汗とフェロモンに、ますます身体が燃え上がった。
こんなとき、本当に自分はオメガなのだと思い知らされる。
男なのに身体の内部がムズムズと蠢き、子宮とおぼしき部位が何かを求めているのだから。
「あ……駄目だ。駄目……」
「わかっている。しっかりおれに掴まっておくんだ」
だから、それができないから困っているのに。
テオドールは躊躇することなく、リーンハルトを抱きしめると大きな声を張り上げた。
「皆のもの! ヴェンデルの悪はすべて取り払った! 悪辣宰相の首は落ち、ヴェンデル王家の連中は地下牢だ! これから城へと凱旋する! 既存兵は事後処理を任せる。あとで報告してくれ! 義勇兵はおれについて来い! 報償をたんまり出すぞ!」
地鳴りかと疑うくらいの咆哮が、闇夜に巻き上がる。
狼煙を上げ、手に持つ武器や金属をぶつけ合い、勝利の雄叫びがあちこちで上がった。
「宰相の汚い首を拾って、主塔ベルクリートのてっぺんに飾ってやれ!」
「テオドール様! 万歳!」
「ヴェンデルの悪はすべて焼き尽くせ!」
「これで人並みの暮らしができるぞ!」
ヴェンデル王家と、それにかかわるものは、これほどまで民に嫌われていたのか。
これでは廃嫡されたとはいえ、ヴェンデル王国第四王子であった自分もさぞかし嫌われているのだろうと俯く。
「面を上げろ」
頭上からそう命令され、リーンハルトは顔を下に向けたまま首を振った。
「大丈夫だ。ゆっくりと面を上げて、あなたの国民たちに無事な姿を見せるといい」
促され、リーンハルトは先に目線だけで周囲を窺う。
テオドールの腕に抱かれているのがリーンハルトだと気付いた誰かが、大きな声を張り上げた。
「リーンハルト様だ! ご無事だったんですね!」
「本当だ! リーンハルト様!」
歓喜に満ちた声が、あちこちから聞こえてくる。
てっきり罵倒されるものだとばかり思っていたのに。
「どうして……」
「悪辣宰相に手込めにされる、心優しく美しい王子リーンハルト。国民たちは、あなたが苦しい立場に追い込まれたことを憂いていた。おれの扇動に乗ってきたのも、あなたを助けたいという気持ちがあったからだろう」
「でも私はオメガです。この国では最下層とされる……」
「誰が決めた? アルファが最上層でオメガが最下層だと」
「あ……」
この世には三種類の人種が存在する。
知能も高く行動的。リーダー的素質を持つアルファ。
特になんの変哲もなく普通の外見と資質を持つ平凡なベータ。
そして、繁殖のためだけに存在している性の奴隷オメガ。
オメガは性別を問わず子宮を持ち、妊娠を可能とする。
子供の生める身体に成長したところで、ヒート:(発情期)をむかえ、独特のフェロモンを放出しアルファに種付けをされる運命にある。
それがヴェンデル王家が強いた不文律。
いつからかわからないが、アルファの生まれることの多いヴェンデル王家が取り決めた、勝手な戒律。
そう、国民が憎んでいるヴェンデル王家が取り決めた……。
「民の中にはオメガとして生まれたばかりに、アルファの慰み者として一生をめちゃくちゃにされた者もいる。悪法を強いたヴェンデル王家は憎しみの的だ」
「そうだったのですね……」
「おれはアルファにとって都合がいいだけの世界を認めない。権力や地位はそれぞれあるだろうが、人権は平等であるべきだ」
そのヴェンデル王家でただひとりオメガとして生を受けたリーンハルトは、テオドールの力強いその言葉が胸に迫ってくる。
「でも……テオドール。あなたも、そのアル……」
アルファではないのですか? と、問おうとしたが――
彼の節くれだった指がリーンハルトの指に触れる。
武骨なはずのテオドールだが、その仕草は繊細なものだった。
「関係ない。おれもあなたも同じ人間だ」
強い意思を込めた口調で言われ、リーンハルトは何も言えなくなる。
リーンハルトは、自分が置かれた状況と立場を反芻した。
どうなるのかなんて、さっぱりわからない。
ただ今は、ヒートで滾る身体を持て余し、彼の逞しい胸に寄りかかるしかなかった。
義勇兵は凱歌を奏しながら、テオドールの馬のあとをついてくる。
そのさまは異様といえば異様だが、逆に壮観ともいえた。
リーンハルトはテオドールの肩越しに、宰相の館を見上げる。
闇夜の中、火を放たれたのかオレンジ色の炎が周囲を照らし、木やその他のものがパチパチと爆ぜる音が響く。
主塔の先端に、何か丸いものが突き刺さっていた。よく見るとそれはひとの頭だが、すでに原型を留めていなかった。
ひとびとにはそれが、この反乱が成功したという旗幟に見え、炎の中でよりいっそう燃えさかっているのを感慨深げに見つめている。
圧政で国民を苦しめたヴェンデル王国の落陽に、運命を感じた。
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