1 / 4
佳月01
――いい天気だな。
空を見上げて、藤田尚樹 は心の中でそうつぶやいた。
猛暑が続いていた九月が終わり、十月も数日が過ぎていた。日射しにはもう肌を焦がすような強さはなく、涼やかな風が頬を撫でる。
こういう日は、室内で講義を受けるより、どこかへ出かけたくなる。二限目と三限目の中休みも終わろうかという大学の中庭で、尚樹は動かずにぼうっと空を見上げたままでいた。
その時。ふわりと甘い香りが鼻をくすぐった。
嫌な匂いじゃない。むしろ、官能を擽るような香り。
――金? いや、銀木犀だな。
まだ花の咲く季節には早すぎる。不思議に思いながら、匂いをたどるように周りを見回すと、少し離れたところで先程の自分と同様に空をじっと見上げている人がいた。
――ミツケタ。
ドクリ、と心臓が激しく脈打って、自分の中の何かが確信めいたことを告げていた。
尚樹は、幻を見たかのように自分の目をこすると、もう一度その人物を見つめ直した。
その人の容姿は、一見だけでは男性か女性か区別がつかなかった。
ただ一つだけ云えるのは、横顔だけでも十分に美しいと分かることだけだった。
透けるように白い肌。
全体的にほっそりとした体躯。
手足はすらりと長かったが、身長はさほど高くはない。一八五センチの尚樹より頭ひとつ分以上は低そうだから、もしかしたら一七〇センチもないかもしれない。
髪の色は――地毛なのか染めているのかわからないが――きれいな栗色で、さらさらと風になびくそれは、とても柔らかそうだ。
ふと、瞳の色も同じなのかどうか、確かめたい衝動に駆られる。
すっと通った鼻筋や、その白い肌によく似合う赤い唇を、正面から見てみたい。
そんな欲望ににた強い想いが通じたのか――おそらくは、尚樹が不躾にじっと見つめていたせいだろうが――その人がこちらに顔を向けてきた。そこで、初めてお互いの視線がぴたりと合わさる。
じっと見つめられて、尚樹はますますその人から目が離せなくなっていた。
――ミツケタ。
――ウン。ミツケタ。
自分とその人が同じことを思っているのが、手に取るようにわかるのに、手を伸ばすことができない。
尚樹はその人を見つめ続ける。
その人も、尚樹を見つめ続ける。
近づきたいけれど、惹き込まれて動けないでいる。もどかしい空気が、何ともいえず心地良かった。
その人の大きな瞳は、黒ではなく榛色だ。儚げな容姿に反して、以外にも意思の強そうな光を放っていた。まぶたの周りを長いまつ毛がびっしりと縁取っているのが、この距離でもわかる。
言葉を発そうとしない尚樹に「なにか言って」というように、彼が小首を傾げてみせた。
そう。『彼』だ。
その人は、自分と同じ男性だった。
でも、そんなことは今の尚樹には関係なかった。
だって、自分を誘うように彼のフェロモンが語りかけてくる。
――ミツケタ。オレノ『ウンメイ』。
オレ、という一人称で、彼が男性だとわかっていた。
なぜ、それがわかるのか、尚樹は少しも不思議に思わなかった。
そう思うよりも、体が、心が、魂が理解していた。
見つけてしまった。
この人は、自分のものだ。自分だけの『番』だ。
その証拠に、彼はずっと黙ったままなのに、自分のフェロモンで雄弁に誘っている。
――ナニカ、ハナシテ。コエヲキカセテ。
銀木犀が、ふわふわと甘えるようにまとわりついてくる。
こんなにはっきりと『誘惑されている』と感じるのは、初めてのことだった。
尚樹はα だが、Ω のフェロモンをあまり感じない性質だった。
自分自身でも、この第二の性別を嫌悪しているところがあるので、そういったことに惑わされずに、自分なりの感覚で恋愛をしてきたつもりだ。
ところが、どうだろう。
無自覚にフェロモンで誘っている『番』に対して、嫌悪していたはずのαの本能が牙を剥きそうになっている。
自分の言葉を待っているだろう彼の仕草は、自分より年かさであるだろうに、とても可憐でそっと抱きしめて守りたくなる。その反面、全てを暴いて引き裂いて、無茶苦茶にしたくもなる。
――ああ、なんかヤバいな。
これだから、嫌なんだ。『α』って性 は。
「何を見ていたの?」
さり気なく言葉にしたつもりだったが、緊張して声が掠れてしまった。もしかしたら、多少上ずっていたかもしれない。
かっこ悪いけど、音になってしまったものは、もう取り戻せない。
尚樹の問いかけに、目の前の彼はただでさえ大きな目をさらに見開いた。
変なこと聞いただろうか。
いや、普通だよな。おかしくなかったよな?
尚樹が内心で焦っていると、彼はふいに微笑んだ。
優しげで、柔らかい。けれど、どこか悲しげで寂しそうな――そんな笑顔を。
「月を、ね」
「は?」
ぼそっとしたつぶやきがうまく聞き取れず、間髪入れずに尚樹が聞き返すと、今度は柔らかなテノールがはっきりと耳に入ってきた。
「月を見ていたんだ」
そう言うと、微笑んだまま尚樹の横を通り過ぎていく。だけど、銀木犀の香りは名残惜しそうに尚樹にまとわりついていた。
――マタ、アエル?
――ツガエル?
濃密ではないけれど、誘われていると感じる香り。それがわざとではなく、無意識でやっていると分かるのは、通り過ぎる際に彼が一度も尚樹を見ようとしていなかったからだ。
「月?」
つぶやいて見上げてみれば、確かに白い半月が青い空にぺったりと貼り付いていた。
「あれを見てたって? ねえ、おい!」
尚樹が振り向いた時、その人の背中は中庭を通り抜けて校舎へと向かっているところだった。銀木犀の香りも、遠くなってく。尚樹の呼びかけにも振り返るということもない。
いったい、何者なんだろう。
あれだけ、強烈に『番いたい』という欲求が高まる人はいなかった。
ただ、彼がΩだということだけは、確信していた。
尚樹の通う大学は、国が認定している『バース混在校』だ。
尚樹のようなαだけでなく、βもΩも、すべてのバースが通える大学だ。それでも、大学へ進学するΩは多くはない。
小さくなっていく彼の後ろ姿をぼんやり見送りながら、尚樹は考え込む。
学生に見えなくもないが、年上だと分かるくらいには大人だという雰囲気があった。だからといって、講師にしては若すぎるように見えた。
「よお、藤田。次の講義、行かねーの?」
ふいに肩を叩かれて、直樹の思考はそこで中断された。振り返ると、同じ学科で友人の一人である辻 がいた。
「おい」
尚樹は、辻に問いかけた。
「さっきのヤツ、誰かわかるか?」
「さっきのって?」
辻がきょとんとした表情になる。尚樹は焦れて、さらに言い募る。
「さっき、俺とすれ違ってったやつ。見てたんだろ?」
「あ? ああ、神崎さんのことか」
『彼』が消えた方向を見て、辻がうなずく。
「知ってんのか?」
「同じサークル」
「じゃあ、学生なんだ。やっぱり」
「うん。英文の四年」
「四年? ふーん……」
「四年生っていっても、あの人、一年のときに二年くらい留学してっから、今は二十四か五くらいだったかな? フルネームは神埼三春っていうんだ」
「みはる?」
「三つの春って書くんだよ」
三つの春。それは、とても彼に似合っている名前だと思った。
だが、そんな本音を軽々しく口にしたくなくてそのまま黙り込んでいると、辻がニヤニヤしながらこちらを見ている。
「なんだ、藤田。ホレたか?」
辻がそんな表情をする理由はわかっている。自分でも不本意だと思っているあのあだ名のせいだ。
「そんなんじゃねーよ」
否定してみせるが、辻の表情からニヤニヤは消えてくれない。
それに、今回は――今度だけはちがうのだ。
本能が、魂が、自分自身のすべてが『彼が欲しい』といっている。
出会った時に、心に、頭に響いた言葉。
――ミツケタ。
そう。見つけてしまったのだ。他の誰とも代わりのきかない唯一絶対の。
『運命の番』。
「まあ、あの人だったら、藤田のストライクゾーンど真ん中だよなぁ」
「だから、ちげーって!」
ムキになればなるほど、墓穴を掘っていることに尚樹は気づかない。その証拠に、辻がますます顔をニヤけさせて話しかけてくる。
「なんなら、俺らのサークルに入る? あの人とちょっとはお近づきになれるかもよ」
辻の提案に、尚樹は言葉をつまらせた。それに調子づいて、勧誘の絶好の機会とばかりに辻はサークルのアピールをする。
「見学も自由だよー。月に一回は必ず宴会があって楽しいぞー」
「ただの飲みサーだろ、それ」
「ちがうんだよなー、これが。変なコールもやんないし、無理やり後輩に飲ませるとかのアルハラも皆無。あと、出てくる酒がそこらへんの居酒屋じゃ扱ってないほどのいい酒ばかり」
「やっぱ、飲みサーじゃねーかよ」
「ちがうって。詳しい話は、次の講義でじっくり……」
「いや、辻。俺、入るって言ってねーし」
尚樹の言うことなど耳に入っていないのか、辻は次の講義がある教室へ向かいながら、話を進めてくる。
「そっか、そっか。藤田がサークルに興味持ってくれたか。嬉しいなぁー」
「お前、人の話聞いてる? 一度も言ってねーから!」
尚樹がそう怒鳴ると、辻はおやっというように眉を上げる。
「あれ、知りたくないの? 神崎さんのこと」
「そ、れは……」
辻の問いかけに、尚樹は正直に反応する。それを見て、辻はニヤリと笑った。
「なんなら、色々教えてもいいぜ。サークルに入るって前提でな」
ご機嫌な様子でポンポンと尚樹の方を叩くと、辻は先に廊下をさっさと歩いていく。その後ろ姿を、尚樹は複雑な気持ちで見ていた。
以前から、しつこく勧誘されていたのだが、彼――神埼三春のことをいい口実にされてしまった。
だが、今回ばかりは逃げられない。
名前も何も語らず、その場を去ってしまった彼に少しでも近づけるのなら、サークルに入るのも致し方ない。
ため息を一つつくと、尚樹は歩くスピードを上げて辻の後を追った。
ともだちにシェアしよう!