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第4話
翌朝目が覚めた俺は、視界に映った見慣れない天井にハッとしてベッドから飛び起きた。
初夏だというのに何だか肌寒い。いつのまにか夕凪が着せてくれていたシャツの袖から、朝の冷えた空気が入り込んでくる。
剥き出しの腕を摩りながらベッドを下りると、襖の向こうから夕凪の声がした。
「朱月様。朝食の準備ができましたのでお迎えに来ました」
もちろん腹は減っている。けど……
どんな顔をして夜霧や夕凪に会えばいいんだろう。どうしても昨日の風呂場でのことがちらついて、まともに顔なんか見られそうもない。本家に来て初めての朝だというのに、心底憂鬱だ。
「……お、おはよう。夕凪……」
「おはようございます、朱月様」
赤面する俺とは反対に、夕凪の無表情の中には昨夜の出来事を引きずっているような気配は少しも見受けられない。普段から何を考えているのか分からない男だけど、却って気まずくなるよりはその無機質さが有難かった。
洗面所を出て昨日の食事の部屋に入ると、既に俺以外の三人が席についていた。
「おはようございます……」
自分の席に腰を下ろしながら視界の端で夜霧を盗み見る。夜霧は平然とした顔で斗箴と談笑していて、俺のことなど見ようともしない。まるで存在自体を無視されている気分だ。
「全員揃ったか。では頂くとしよう」
親父の号令で両手を合わせ、昨夜と同じ沈黙の食事が始まった。だけど視界に入る夜霧の姿が気になってなかなか箸が進まない。夜霧はそんな俺のことなんて全く気にせず、黙々と料理を口に運んでいる。
昨日、俺はあの口で――。
「っ……」
一瞬思い出しただけで腰の一点が疼き、俺は正座した足をもぞもぞと動かした。赤くなった顔を気付かれないようなるべく無表情を保ちながら味噌汁の椀に手を伸ばしたその時、
「ごちそうさまでした。父様、兄様。行ってきます!」
斗箴が両手を合わせて席を立った。そうか、幼稚園に行く時間か。
朝食前から既に制服に着替えていた斗箴は女中に渡された黄色い帽子をかぶり、肩に通園カバンを下げて部屋を出て行った。それを見て俺も残りの白飯を一気にかきこみ、「ごちそうさまでした」と素早く手を合わせてから急いで斗箴の後を追った。この場から逃げるチャンスだと思ったからだ。
「斗箴!」
「あかつきか。おれはもう幼稚園に行く時間なのだ、お前の相手をしている暇などない」
相変わらず高飛車な五歳児だ。斗箴は俺を見もせず、上り框に腰掛けて靴を履いている。
「幼稚園まで送ってくよ。ここからどのくらいかかる?」
「送り迎えは世話役の春雷 がしてくれるから、あかつきの力なんて必要ない」
俺は二、三秒考えてから提案した。
「じゃあ今日は夕凪に送ってもらう、てのは? どうせ今日は夕凪と車で村を回る予定だったから、そのついでにさ」
「夕凪に?」
振り向いた斗箴の目が輝いている。よっぽど夕凪のことが好きらしい。
庭で待機していた夕凪に事情を話すと、快く了承して車のドアを開けてくれた。
「ちょうど弟様の幼稚園も案内コースに入れていましたので」
俺は後部席から身を乗り出し、助手席で嬉しそうに笑っている斗箴のほっぺたを指でつついて言った。
「大好きな夕凪に送ってもらえて良かったな」
「邪魔な奴もついてきているけどな」
のんびりとした畦道を黒塗りの高級車が走って行く。目に映る景色は田圃ばかりで、遠くの方には真っ黒い山々が連なっているのが見えた。山に囲まれた小さな田舎の村。街灯が殆ど無いから夜は不気味だろうけど、昼間のうちは緑が多くて眺めているだけで癒されるし、村自体はとてもいい所だと思う。
「あのさ、斗箴。食事中って俺が来る前からずっと会話禁止なのか? あれだけ広い部屋で料理も美味しいのに、黙って食べるだけなんて寂しくないか?」
斗箴には邪魔者扱いされてしまったけど、俺にとってこの時間は斗箴から夜霧や屋敷のことを聞くまたとない機会だと思った。
「父様は、食事は余計な会話をせず味わって食べるものだと言っているぞ。食事の前後は兄様もおれと話してくれるし、別に寂しくなどないが」
「でも、幼稚園ではみんなで騒ぎながら食べてるんだろ?」
「別に……幼稚園でだって同じだ」
「ふうん。屋敷同様、ハイレベルな幼稚園なんだ……」
「………」
斗箴の表情が微かに曇ったのを見て、何かまずいことでも訊いてしまったのかと思った。それならばと話題を変えて再び話しかける。
「それにしても昨日今日と見てて思ったけど、斗箴って本当に夜霧のことが好きなんだな」
「当然だ。何か問題があるのか?」
「別にいいんだけど、夜霧のどこが好きなのかなって。俺にはただの、その……変わった奴にしか思えなくて」
俺のその発言に、ハンドルを握る夕凪が咳払いをした。
「兄様は強い人だし、丑が原村のことを誰よりも大切に思っている。かっこいいし頭も良いし……父様には内緒だが、おれは父様よりも兄様をこの世で一番尊敬してるのだ」
「へえ……」
「だからおれもたくさん勉強して、早く兄様みたいな大人になるのだ!」
あんな男に見習うところなんて少しもないように思える。斗箴には悪いけど、今のところ俺の中の夜霧は性格が悪い好色家の暴君という最悪な印象しかない。
そんなことを考えていると、いつの間にか外の風景が田圃や畦道でなくなっているのに気付いた。
「商店街?」
新鮮な野菜が並べられた八百屋、その隣には肉屋に魚屋。本屋に喫茶店まで、様々な店がぎっしりと軒を連ねている。中には美容院やコンビニ、百円ショップまであった。村と違って活気に溢れ、行き交う人の数も多い。
「丑が原村の隣にある笹上 町です。後で町内会長に挨拶をしに行きましょう」
それから程なくして斗箴が通う笹上幼稚園が見えてきた。可愛らしくて大きな黄色い建物だ。グラウンドには珍しい遊具がたくさんあり、見ているだけで楽しくなってくる。
「到着です、斗箴様。気を付けて行ってらっしゃいませ」
「ありがとう夕凪。行ってきます!」
車から降りた斗箴が勢いよく園の中へ走って行く。それを見届けてから、俺達は笹上の商店街へ戻って様々な店を見て回った。
「おっ、夕凪久し振りだな! どうした、今日は休暇か?」
突然、精肉店の店主が声をかけてきた。
「お久し振りです、池上さん。昨日から村に戻りました。また宜しくお願い致します」
店主の視線が俺に向けられ、俺は縮こまって頭を下げた。
「ひづ……朱月です、初めまして」
「ああ、よろしく! 都会に比べたら退屈な所だけど、丑が原はいい村だ、きっと気に入るよ」
「は、はいっ……」
てっきりまた冷たい目で見られると思っていたのに。意外にも温かい言葉をかけてもらえて、無意識のうちに頬が弛むのを感じた。
「夕凪、久し振り!」「夕凪、戻ってたのか」「矢代の旦那様によろしく言っといてくれよ」
商店街を歩くだけで夕凪はあちこちから声をかけられている。その度に俺も会釈や挨拶をしてもらえて、すっかりこの町が好きになってしまった。
「みんな夕凪のこと知ってるんだな。笹上町と丑が原村って、何か交流があるとか?」
「この辺りの店は殆どが矢代会に属しているんですよ。例えば県知事や他の市町村と争うことになった時、矢代会が町の代表として闘う訳です。俺も幹部候補生の頃に何店か管理していましたから、今でも町の方々とは懇意な間柄なんですよ」
「村の重役達と違って、ここの人達は余所者の俺にも優しいんだな」
「笹上の人達にとっては矢代会が第一ですから、本家の隠し子問題などは気にならないのでしょう。丑が原村は矢代家を、笹上町は矢代会を、それぞれ重んじているという訳です」
「ややこしいなぁ、矢代会と矢代家は別物で考えていいってこと?」
「根元では繋がっていますけどね。朱月様の父上が全ての頂点にいるということだけを知っていればよろしいかと」
せっかくこの町の人達に優しくしてもらえても、背後に親父がいるんじゃ完全に安心はできない訳か。少しがっかりしてしまった。
その後に行った町内会館では、矢代家の新しい家族として盛大に迎えられた。昼間から酒を飲んでいる役員達は村の重役達と比べると随分開けっぴろげでおおらかで、何よりも優しかった。
「こんな立派な男子が本家に加わったんだ、夏祭りと村長選が終われば新頭首様も誕生する訳だし、益々矢代家は安泰だな!」
酔っ払って夕凪の肩を抱いた町内会長がそう言った。夕凪は会長の酒臭さに眉を顰めていたけど、俺は今にも震え出しそうなほど感激してしまった。
俺、受け入れられてる。ここに来て初めて人間扱いしてもらった気分だった。
「嬉しそうですね、朱月様」
村へ戻る途中の車の中で夕凪にそう言われ、俺は窓の外に顔を向けたまま笑った。
「そりゃ嬉しいよ。皆いい人達だったし、良い息抜きになったし」
相変わらず村の方は民家と畦道、田圃ばかりだ。村民の歩調はのんびりしていて、その横を飛ぶ蜻蛉の動きも、吹く風も雲の流れも全てがスローに見える。
「次は、紫狼様を祀っている宮若神社へご案内致します」
「シロウ様?」
「丑が原の守り神と言われている狼様です。信仰が始まったのは明治の頃だとか」
言われてみれば確かに、この村には至る所に大小様々な狼の形をした石が置いてある。通りかかった村人がその前で手を合わせている光景も何度も目にしたし、供えられていた花や食物も結構な量だった。狼を祀るなんて初めて聞いた。神社と言えば狐じゃないのか?
車で走ること十数分、やがて前方に巨大な鳥居と立派な石階段が見えてきた。
相当長い階段だ。駐車場を出てそれを目の前にした瞬間、まだ一段も上っていないというのに既に足がだるくなってきた。
「それでは参りましょう」
平然と階段を上がってゆく夕凪の背中を慌てて追う。一段上がったらもう後戻りはできない。ただひたすら頂上を目指すのみだ。
「け、結構な急傾斜だな……」
「頂上まで百段近くありますから、転ばないようご注意下さい」
「何もそんな高い場所に造らなくてもいいのに」
「ちなみに夜霧様は毎日神社へ通ってらっしゃいます。炎天下でも大雪の日でも、子供の頃からずっと、です」
「夜霧が? 鉢合わせしたら嫌だな」
「鉢合わせも何も、これから神社で夜霧様と合流することになっていますが」
危うく階段を踏み外しそうになり、慌てて中央の太い手摺りにしがみ付く。
「な、何でっ? え、どういうこと?」
「矢代家の人間と宮若神社には特別な繋がりがありまして。朱月様の初参拝ということで、夜霧様が直々に出向いて下さるそうです」
更に足が重くなる。石階段を上がり切った所に夜霧がいると思うと、今からでも背を向けて逃げ出したくなった。……勿論、それが出来ないのは重々承知しているけど。
「朱月様、後少しですので頑張って下さい」
「……分かったよ、もう」
残り十数段となった忌々しい石階段を、半ば自棄になって一気に駆け上がる。
頂上に立って額の汗を拭った後、まず初めに視界に飛び込んできたのは階段下にあったものと同じくらい大きな鳥居、そしてその両脇にある二体の巨大な狼像だった。
「でかい……」
二体とも前身を低くしてこちらを威嚇している。顔も怖いし、とても村を守ってくれているとは思えない。どちらかと言えば村民に恐怖を植え付けることで崇められているような印象を受けた。……まるで屋敷内での夜霧そのものじゃないか。
鳥居をくぐると石畳の広い道があり、それが奥の拝殿まで繋がっていた。流造の立派な拝殿の前にも二体の狼がいて、こちらは遠吠えのポーズをとっていた。その左側に手水舎と神楽殿、右側の奥まった場所には社務所らしき建物と祈祷殿がある。
「立派な神社だな。明治時代からって言うから、古ぼけたのを想像してたけど」
「丑が原村の最大の名所です。夏祭りの時は境内と階段の下にも沢山の屋台が出て、とても賑やかになりますよ」
懸命に上ってきた石階段を振り返ると、眼下に丑が原村の壮大な景色が広がっていた。遠くの方に見えるのが本家の屋敷だ。離れた場所から見ると敷地の広さがよく分かる。
「如何です。絶景でしょう」
「凄いけど……」
どこからか爽やかな風が吹いてきて、俺の前髪と汗をかいた額を撫でてゆく。
「どうせなら観光で来たかったよ」
夕凪が少しだけ笑って、スーツのポケットから煙草と財布を取り出した。
「夜霧様もまだいらしてませんし、少し休憩にしましょうか。あちらに売店がありますのでよろしければお好きな物を」
夕凪から財布を受け取って売店に行くと、巫女の格好をした売り子さんがにこやかにお辞儀をしてくれた。「いらっしゃいませ。ようこそ、宮若神社へ」
お守りや木のお札が並んでいる中で、団子や煎餅、鼈甲飴などのお菓子も売られている。俺は売り子さんの明るい笑顔に惹き付けられるまま団子とお茶を購入した。
その他にも紫狼様関係の沢山の土産物が並んでいる。灰色の毛並みと吊り上がった目。瞬間的に昨夜の夜霧を思い出し、顔が赤くなった。
「……あと、これも」
俺は無意識のうちに、一番手前にあったお守りを握り締めていた。
夕凪の元へ戻り、ベンチに座って景色を眺めながら楊枝に刺した団子を頬張る。黄粉と黒蜜がたっぷり付いた一口サイズの団子は中に胡麻風味の餡子が詰まっていて、甘党の俺に打って付けの味だった。
「夜霧、いつ来るんだろ」
「昼過ぎにはいらっしゃるみたいですが……」
その時、正面の石階段を上って来る男の姿が視界に入った。確か夜霧が飯田の爺さんと呼んでいた――丑が原村の飯田村長だ。昨日の顔合わせでは、重役達の中でも一番鋭い目で俺を睨んでいた気がする。
「梅吉様、お疲れ様でございます。夏祭りの打ち合わせですか」
夕凪が即座に挨拶をしたのを見て、俺も慌てて立ち上がった。
「夕凪。旦那様と夜霧様もおいでか?」
「夜霧様は後ほどいらっしゃいますが、オヤジは午後から笹上に行かれるそうです」
飯田村長がちらりと俺を見た。爺さんと呼ばれている割には背が高くて、俺なんて軽く見下ろされてしまう。
「あ、あの。選挙があるんですよね。頑張って下さい」
媚びるつもりは無いけれど……この村に住む限りは村長である彼と親しくならないといけない気がして、俺はなるべく自然に笑顔を作りながら言った。が――
「夕凪、今朝はお前が斗箴様をお送りしたと春雷から聞いたぞ。何かあったのか」
見事に無視されてしまった。正直腹が立ったけど、仕方なく顔を下げて沈黙する。
「今日は朱月様と村を回る予定がありまして。弟様の幼稚園も見学コースの内に入っておりましたので」
「斗箴様はお前に懐いてらっしゃるからな。出来れば春雷との信頼関係を早い内に築いてもらいたいのだが……」
恐らく飯田村長は、あまり夕凪に斗箴と接してもらいたくないんだろう。夕凪は俺の世話役だから、斗箴と接する際には必然的に俺もそこにいることになる。それが嫌なんだ。
「宮若は村にとって神聖な場所だ。犬にはしっかりと鎖を付けて連れ歩けよ」
だから俺の目の前で平気でそんなことも言ってのける。言い返せないのが悔しくて、俺は俯いたまま足元の石畳をじっと睨み付けた。
「あまりお気になさらず」
飯田村長が社務所の方へ消えたのを確認してから夕凪が言った。
「でもこうも嫌われると、俺この村に来ない方が良かったんじゃないかって思えてくる」
「母親が違えど朱月様は間違いなくオヤジの息子ですから。誰が何と言おうとこの村で暮らす権利があるのです、自信を持って下さい」
「ん……」
「なんだ、自信喪失したのか?」
「わっ!」
突然夜霧の声がして驚き、俺はその場で飛び上がるようにして背後を振り返った。
「よ、夜霧……」
「夜霧様、ご足労有難うございます」
「待たせたな。夕凪、神主の重三郎には話を通してあるんだよな?」
「ええ、昨日のうちにお伺いしておきました」
夜霧が歩き出し、一歩下がって夕凪がそれについて行く。俺もその後に続きながら高鳴る心臓を宥めようとお守りを握りしめ、気付かれないように深呼吸を繰り返した。
昨日の夜あんなことがあったのに、どうして夜霧は自然にしていられるんだろう。夜霧にとって昨夜の出来事はそれほど大したことじゃなかったんだろうか? 俺は何度深呼吸をしても、赤くなった顔が戻らないというのに……。
「夜霧様、お待ちしておりました」
宮若神社の祈祷殿に上がり、事務員の案内で控室のような場所に通される。その間ずっと俺は黙りこくっていた。夜霧と顔を合わせるのが気まずい理由もあったけど、神社の祈祷殿という粛々とした雰囲気に怖気づいてしまったからだ。
太陽が室内を照らしているというのに、どういう訳か寒気がする。それは夜霧が傍にいるからか、それとも俺のような雑種が紫狼様の領域に入り込んでしまったからか。
「……ああ、そうだ。名前は矢代朱月。歳は十八……」
夜霧が事務員と何やら話し、封筒を渡しているのを横目に見ながら夕凪に耳打ちする。
「これから何するの?」
「参拝とお祓いです。朱月様が加わったことで矢代家に新たな風が吹き始めましたので、紫狼様へのご挨拶を兼ねて、改めて本家の繁栄をお願いするんですよ」
「ふうん。結構面倒なことを真面目にやってるんだな……」
「誰のせいだと思っている。さっさと行くぞ」
「わっ」
また背後から驚かされて、ようやく落ち着いてきていたはずの心拍数が再び一気に上昇する。俺は先を行く夜霧の背中を軽く睨みながら、手の中のお守りをぎゅっと握りしめた。効果なんて、これっぽっちも期待できそうにないけれど。
「それでは朱月様。まず初めに手を清めます」
当然ながら俺には手水場での作法なんて全く身に付いていない。失敗は許されないという思いが更に焦りを呼び、あちこちに水を跳ねさせて自分の服も濡らした挙句、口を濯ぐための水を柄杓から含もうとして慌てて夕凪に止められた。
「朱月様。左手に水を受け、それを口に含んで下さい」
夜霧が不愉快そうに眉を顰めている。恥ずかしくて仕方なくて、俺は何とか無事に口を濯いでから、震える手で柄杓を元の位置に戻した。
それから宮司服を着た宮若神社の神主の前で修祓の儀式を受けた。思っていたよりも若い神主で、夜霧とはまた違った迫力のある人だった。
「紫狼様のご加護を」
「………」
この村の狼様は俺のことも護ってくれるんだろうか。
祈祷殿を出た後、夜霧が額に手をあてながら溜息をついた。
「手水場の時からおかしいと思っていたが、最後にお前の参拝の仕方を見て急激に頭が痛くなってきた。……親父がいなくて助かったぜ」
「……す、すいません」
参拝の作法と言われている「二礼、二拍手」の前にいきなり賽銭を放り投げてしまった俺は、夜霧の言葉に委縮しながら顔を赤らめた。
「どうやらお前は、一から教育しないと駄目なようだな」
「う……」
もしかしたらこれで今夜も「罰」を与えられてしまうんじゃないだろうか――石階段を下りて行く夜霧の背中を見つめながら、俺はそんな不安を胸の奥に抱いていた。
「あかつき?」
幼稚園から出て来た斗箴が、落ち込んだ俺の表情を見て目を丸くさせている。
「お帰り、斗箴……。幼稚園楽しかったか?」
「今日は音楽の時間にピアニカを使ったぞ。上手だと先生に褒められた。当然だけどな」
つんと鼻を高くさせて車に乗り込む斗箴。そう遠くない将来、斗箴も夜霧みたいな男になってしまうのだろうかと思うと遣る瀬無くなってくる。
「もうすぐ斗箴様の誕生日ですね。今年は選挙もあって、夜霧様が頭首になられて、一段と賑やかな夏になりそうです」
ハンドルを握って言った夕凪に、斗箴が嬉しそうに笑いかけた。
「誕生日に何か欲しい物がございましたら、遠慮なく仰って下さい」
「ありがとう夕凪。あのな、父様からは来年小学校で使う辞書を頂く予定なのだ」
「そうですか。夜霧様からは何を?」
俺は後部席に座って、ぼんやりとその会話を聞いていた。
「兄様は毎年父様に内緒でオモチャを買ってくれるけど……今年は忙しいから、無理だ」
「本当は何が欲しいんですか」
「……デビルライダーの変身ベルト。音が鳴って、光るんだ」
それを聞いて思い切り噴き出してしまった。あの斗箴がオモチャの変身ベルトを欲しがっているなんて、全く予想していなかったのだ。
「わ、笑うな、あかつき!」
「ご、ごめん。だってまさか、そんなこと言うと思わなかったからさ」
俺は目尻に溜まった涙を拭い、助手席に身を乗り出して斗箴に言った。
「じゃあさ。夜霧が忙しくて無理なら、俺がそれプレゼントするよ」
「えっ?」
斗箴の瞳が一瞬、期待に輝いた。だけどすぐに視線を逸らして俯いてしまう。
「……駄目だ。父様にバレたら怒られる」
「今までバレてなかったなら大丈夫だって」
「そ、そうかな……」
不安げに肩を揺らす斗箴の頭を撫でてやるも、あっさり払われてしまった。
「頭を触るな。触っていいのは兄様と夕凪だけだっ」
「ご、ごめん」
「まったく、あかつきは無礼なことばかりする……」
むくれながら正面を見つめる斗箴の顔はさっきまでよりずっと明るくなっている。俺は苦笑して、再びシートに寄りかかった。
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