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第7話

「おや。朱月様、いつの間に参拝の仕方を覚えられたのです」  あれから数日後。再び訪れた宮若神社で得意げに「二礼二拍手一礼」をしてみせた俺に、夕凪が目を丸くして言った。 「図書館で色々調べたんだよ。手水場での清め方だって完璧」  身に付けたのは参拝の作法だけじゃない。  神社でも駐車場でも道端でも、すれ違う村の人達皆に笑顔で挨拶をすることもできた。返事が返ってくるのは約半分といったところだけど、中にはわざわざ足を止めて俺と話してくれる人もいた。  一度会った人の顔と名前を忘れないようにして毎日挨拶を続けているうちに、初めは返事をくれなかった人達もやがて向こうから話しかけてくれるようになった。  時々は笹上町にも顔を出して町内会長とお茶を飲んだり、村の子供達と田圃でカエルやザリガニを釣ったり、自分でも確信が持てるほど俺はこの村に溶け込み始めていた。  そうなると、俄然毎日が楽しくなってくる。 「夕凪、ただいま」  その日も汗だくになって帰宅した俺を、玄関で夕凪が迎えてくれた。 「お帰りなさいませ朱月様、今日も図書館での勉強お疲れ様でした」 「今日は郷土資料館に行ってきたんだ。丑が原で出土した遺物とか、昔の神社の写真とか展示されてて結構面白かった」 「有意義な時間をお過ごし頂けて何よりです。すぐに冷たいお茶を用意致します、お荷物をどうぞ」 「ありがとう」  俺は資料館の小冊子を入れておいた鞄と一緒に、屋敷を出る時には持っていなかった風呂敷を夕凪に渡した。案の定夕凪はそれを見て首を傾げている。 「この包みは何です? 中身は随分重いですが」 「途中で村の婆ちゃん達が大福をくれたんだ。是非本家の皆で食べてくれって」 「そうでしたか、村のご老人が……」 「今度お礼にお茶でもご馳走してくるよ。――そうだ、どうせ今日も広間に大勢集まるんだろ? この大福出したら皆喜んでくれるんじゃないかな」 「………」  風呂敷を抱えた夕凪が、俺をじっと見つめている。 「な、なに?」 「村の方々からこうしてお菓子を頂くことなど、今まで一度としてありませんでした」 「そうなんだ。俺、子供扱いされてるのかな……」 「いえ。単純に皆さんの矢代家を見る目が変わってきたのだと思います。近寄りがたく雲の上の存在だった矢代家が、朱月様のお陰で親しみを感じられるようになったのでしょう」  大福を届けに厨房へ向かいながら、俺は頭をかいて苦笑した。 「俺、本家の人間に見えないから。庶民出身はどこにいても庶民の匂いがするんだよ」 「村のご老人から見れば朱月様は立派な矢代家の人間です。同時に、オヤジや夜霧様と村民達を繋ぐ、大切な架け橋のような存在なんだと思います」 「架け橋?」 「考えてみて下さい。一村民がオヤジや夜霧様に自ら声をかけ、風呂敷に詰まった大福の差し入れなんてできますでしょうか」 「うーん……話しかけるだけでも怖いと思う。いや、目を合わせるだけでも……」 「でしょう。ですが朱月様がいることによって、こうして屋敷に差し入れをお届けできるようになったのです。いくら本家が近寄りがたくともお年寄りの皆様方は昔から、村を守る矢代家を心から慕ってらっしゃいます。常日頃から矢代家へ恩返しをしたいと思ってらして、朱月様を通してその夢が叶ったということです」  そこまで言われると流石に照れ臭くなってくる。俺は普段通り接しているだけなのに、向こうは長年の夢を俺に託していたなんて。 「ですので朱月様、これからも村の架け橋としての仕事を宜しくお願い致します」 「仕事か……。分かった、俺に出来ることなら頑張ってみる」 「普段通りでいいんですよ」  厨房に大福を届けた後、俺は夕凪と並んで縁側に腰かけ、麦茶を飲みながら庭の景色を眺めた。こうして中庭が見渡せる縁側に座っていると、時折風にざわめく葉っぱの音や池の中で鯉が跳ねる音がして心が落ち着く。ただ座っているだけの暇なひと時も、今の俺にとっては大切な休息時間だ。 「しかし最近の朱月様は以前よりずっと生き生きしてらっしゃいますね。このまま行けば、村長の梅吉様に認められる日も近いのではないでしょうか」  俺は飯田村長のおっかない顔を思い出して眉を顰めた。 「そうかな。あの人だけは未だに俺と目も合わせてくれないけど。村長の取り巻きみたいな重役の人達も皆そうだし」 「焦らずじっくり取り組んで行きましょう」  六月に入ったというのに雨が降る気配は無く、空は今日も晴れている。  もうすぐ村の夏祭りだ。 「朱月」  ふいに呼ばれて後ろを向くと、そこには神社から帰って来たばかりの夜霧の姿があった。  夕凪に軽く頷き、コップを置いて立ち上がる。 「………」  廊下を歩く夜霧の背中を追いかけながら、俺は頭をフル回転させた。今日は何も失敗していない。昨日も、一昨日も……夜霧を怒らせるようなことはしていないはずだ。  人がいないのを確認し、夜霧が薄暗い廊下の壁に背を預けて腕組みをした。 「そんなに怯えた顔をするな。やましいことが無いなら堂々としていろ」  言われて、背筋を伸ばした。どうも夜霧を前にすると、途端に自信が無くなってしまう。 「嵐雪に聞いたぞ。お前、最近俺から罰を受けないために努力しているらしいな」  今となっては罰を受けないためというよりも、自分の今後のためにと言った方が合っているけれど……俺は静かにそれに頷いてみせた。 「どうせ嵐雪に言われたんだろう。俺に迷惑をかけるなとか、頭首交代に集中させろとか」 「確かに初めは嵐雪に言われたからってのもあったけど……ここ最近になって俺自身、純粋に村や矢代家の役に立ちたいって思い始めたんだ。引き取って貰ったからには少しでも恩を返したいし。……まぁ勿論、夜霧にも迷惑かけたくないけど」 「……お前、……」  夜霧が虚を衝かれたような顔で何かを言いかけ、だけどすぐに首を振った。 「……余計なことを考えなくていい」 「余計じゃないだろ。だって俺のせいで何かあったら、俺だって後悔する」 「見くびるな。お前ごときに俺の未来が左右される訳がない」  確かに夜霧の言う通りだけど、それでも万が一という場合もある。俺は夜霧にとっても良いことをしているはずなのに、何をそんなにピリピリしてるんだろう。 「……夜霧は、何か気に入らないことがあるのか」  訊ねてみると、眉間に皺を寄せていた夜霧の表情がふっと柔らかくなった。微笑んでくれたのかと思ってホッとした俺の目の前が、突然、暗くなる。 「んっ……」  何の前触れもなく俺の唇を塞いだ夜霧が、力強く肩を抱き寄せて俺の身体を壁に押し付けた。久々に与えられる「罰」――しかもこんな場所で。 「……夜霧っ。俺、今日は何もしてないって……」  身を捩って夜霧の唇から逃れると、そのまま頬や顎に舌を這わされて身体中がゾクゾクした。 「何もしてない、か」  耳元で低く、囁かれる。 「そんなものは関係ない。何度も言ったはずだ、お前は俺の犬だと」 「え……」 「お前が幾ら努力しようと、何もしてなかろうと、俺はお前を矢代家の次男として認めない。この先もずっとお前は俺の犬だ。……忘れるな。俺の気分次第ではこの場でお前が失神するほど嬲ってやることもできる」  夜霧の目は真剣だ。いつもみたいに威張ってるとか、怯える俺の反応を見て楽しんでいるとか、決してそんな軽い気持ちで言っている様子ではなかった。  認めない。この先も、ずっと――。全て夜霧の本心から出た言葉なのか。  突き付けられた現実に、体の力が抜けて行く。俺がどんなに努力をしようとも、それは夜霧の前では絶対に報われない……。予想以上にショックで、切なくて、悔しかった。 「残念だったな」 「………」 「努力など何もしなくていい……お前は屋敷に居るだけで価値がある」  勿論それは夜霧にとっての「利用価値」という意味だ。俺はもはや言葉を発することさえ出来ず、夜霧が俺の肌に唇を押し付けているのをどこか他人事のように見ていた。 「印が消えかかっているな。新しい物を付けてやろう」  夜霧が俺のシャツを捲り上げてその場に屈み、脇腹に唇を寄せてくる。俺は伸ばした手で夜霧の髪を掴んで、何度も首を横に振った。 「嫌……夜霧。嫌だ……」  構わず肌を強く吸われ、俺は目を瞑って歯を食いしばった。背後の壁を力の入らない拳で何度も叩く。こんなにも拒絶を露わにしているのに、夜霧は一向に止める気配がない。  ――一体、俺が何をしたって言うんだ?  この屋敷に来てから理不尽なことばかりだ。衣食住を提供してくれたことには感謝しているけど、親父は俺に関心なんて少しも持っていないし、村長達からは汚い物を見るかのような目で見られ、夜霧にはこうして意思とは関係なく気まぐれに身体を弄ばれている。  夜霧のために努力したい。村の皆の役に立ちたい。そんな俺の想いなんて親父や夜霧の前ではあまりにちっぽけで、きっと何の意味も持たないんだ。  そう考えると更に切なくなって、俺は夜霧に問いかけた。 「どうして俺を、引き取った……?」 「………」  俺の脇腹から顔を上げた夜霧が、眉根を寄せて俺を見ている。 「夜霧は俺を自分の玩具として引き取った、って言ってたけど……。ただでさえ忙しい今、あの親父がわざわざ新しい玩具を用意するなんて思えない。身寄りがなくなった俺を親父が哀れんだ訳でもないし、村長達からは嫌われてる。……俺、ここに来た意味が分からない」  夜霧が立ち上がり、俺の肩へ手を伸ばした。 「東京に、戻りたい……!」 「………」  肩に触れようとしていた夜霧の手が止まる。  ほんの一瞬、目を伏せた夜霧が小さく笑ったように見えた。それはいつもみたいな底意地の悪い笑顔じゃなくて、どこか寂しそうな、弱々しい微笑だった。 「……ごめん」  罪悪感に駆られて呟くと、夜霧が我に返ったように普段のつまらなそうな顔をして言った。 「東京に戻るのは勝手だが、夕凪はここに留まらせるぞ。お前一人で生きて行けるのか?」  人を馬鹿にしたような、意地悪な口調。さっき見た寂しそうな表情はもうどこにも感じられない。俺の見間違いだったんだろうか?  ……分からない。夜霧は何を思っているのか。 「受け入れろ、朱月。……足掻いてもお前の現状は変わらない」  夜霧が言ったその時、廊下の角から斗箴がやって来るのが見えた。慌てて服を元に戻し、何事もなかったかのように呼吸と心を落ち着かせる。 「兄様、只今戻りました」 「斗箴か。朱月が大福を貰ったそうだ、お凛に言ってお前も貰って来い」 「はい……」  いつもの元気が無い。普段は俺が夜霧と一緒にいるのを見ただけで、顔を真っ赤にさせて怒るのに。 「斗箴、どうした?」  ふと視線を落とすと、斗箴の右膝が赤くなっているのに気付いた。どうやら擦り剥いているようだ。血が出た痕もある。 「膝、怪我してる。絆創膏もらって来ようか」 「大丈夫だ、あかつき。何でもない」 「斗箴」  俺を押しのけて斗箴の方へ歩み寄って行った夜霧が、腰を屈めて斗箴と視線を合わせた。 「正直に言え。何があった」  至近距離で夜霧に睨まれた斗箴は、首を振りながら今にも泣きそうになっている。 「よ、幼稚園で、運動の時間に転んでしまって……。大した怪我じゃありません」 「………」 「本当です、兄様」  斗箴の目をじっと覗き込んでいた夜霧が、やがて腰を上げて「そうか」と呟いた。 「そろそろ今日の会合が始まる。朱月、斗箴のことは任せたぞ」  俺達に背を向けて歩き出す夜霧。その背中を見つめる斗箴の寂しそうな目を見れば、今言った怪我の理由が嘘であることくらい容易に分かった。 「……本当はどうしたのさ、斗箴」 「どうもこうも無い。ただ転んで擦り剥いただけだ」 「幼稚園では手当てしてもらえなかった?」 「大した傷じゃないから、先生には言っていない」 「運動の時間てことは、その場に先生もいたんだろ。それでも何もしてくれなかったのか?」 「うるさいぞ、あかつき……。おれが大丈夫と言ったら大丈夫なんだ!」  ついに斗箴の大きな目から涙が溢れ出した。 「おれは強くなるんだから……。兄様みたいに、なるんだから……!」 「………」  俺は斗箴の前に膝をついて、彼が肩から下げている通園カバンを手に取った。よく見ると靴で踏まれたような跡や、ハサミか何かで傷付けられた跡もある。  それに、怪我をしているのは膝だけじゃなかった。前髪に隠れた額の部分も赤くなっているし、細い腕には引っ掻き傷のようなものまで付いている。 「親父か夜霧に言った方がいい。言えないなら、俺から言ってやる」 「駄目だ」 「どうして」 「……前に先生に言った時、『父様や兄様に内緒にしていてね』って、言ってたから」 「………」  腸が煮えくり返る思いだった。保身のために子供の口封じをするなんて。 「先生の言うことなんか守る必要無い。俺が親父に言う」 「や、やめてっ。幼稚園で意地悪されたなんて父様に知られたら、おれが怒られる……!」 「だってこのままにしておく訳にはいかないだろ。取り返しのつかないことになったらどうするんだ?」 「……ひ、……う」  泣きじゃくる斗箴の頭を優しく撫で、抱きしめる。その姿に俺は幼い頃の自分を重ねた。 「………」  貧乏だった。父親がいなかった。そんな自分ではどうにもならない現実に立ち向かう勇気が無く、ただひたすら我慢していた少年時代の俺。幸いあの頃の俺には夕凪がいたけれど、一人我慢することで強くなろうとしている斗箴には誰もいない。  沢山いるようで、一人もいない……。 「……斗箴。俺と一緒に大福食べよう。皆に食べられて無くならないうちにさ」 「うん……」  斗箴と手を繋いで廊下を歩きながら、俺は強く決心した。

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