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第8話
その夜、午前一時過ぎ。俺は夜霧の部屋の前で正座をし、襖の引手に手を置いて一つ深呼吸をしてから控えめに言った。
「夜霧、入ってもいい?」
「朱月か?」
襖を開ける前に中から夜霧が出てきて、俺は突然のことに驚きながら腰を上げた。
「どうした、自分から慰めてもらいに来たのか」
「ち、違っ……。斗箴のことで、相談したいことがあるんだ」
「なんだ、違うのか。……とにかく入れ」
初めて訪れる夜霧の部屋は隅々まできちんと片付いていて、畳には塵一つ落ちていない。漂う空気の動きも凛としている。背の高い本棚には難しそうな書物がぎっしりと詰まっていた。
部屋の中央にあるテーブルを挟み、夜霧と向かい合った状態で座布団に腰を下ろす。仄かな間接照明と網戸越しに見える月が、目の前に座った彼の顔を妖しく照らしていた。
「……で、こんな時間に斗箴について相談とは一体何だ?」
「斗箴……幼稚園で虐められてるらしいんだ」
斗箴には口止めされたけど言ってしまった。間違っているなんて思わない。俺はこれが最善の道だと信じている。
「膝の他にも怪我してて、カバンも傷付いてた。間近で見たから、間違いないと思う……」
「……それで?」
「一度先生に相談したらしいんだけど、その時親父や夜霧には内緒にしてくれって言われたらしいんだ。……そんなの俺、絶対許せなくて」
夜霧が振り出した煙草を咥え、燐寸 で火を点ける。
「斗箴は何と言っている。お前に助けを求めたのか?」
「斗箴は、夜霧みたいに強くなるんだって。だから何されても我慢するつもりだと思う」
「そうか」
ゆっくりとした動作で、夜霧が紫煙を吐き出す。
「それなら、わざわざ手を貸すこともないな。自分の力で解決させろ」
「えっ……? ど、どうして」
「あいつは自分で何とかするつもりなのだろう? 男が決めたことに口を出すつもりはない、お前も斗箴を甘やかすな」
「夜霧……」
テーブルの下で握った拳が震えた。
「……自分で何とかできる問題じゃない。夜霧は強いからそう思うのかもしれないけど、斗箴はまだ五歳なんだぞ。それに弟がそんな目に遭って、夜霧は腹が立たないのか?」
「お前は俺にどうしろと言うんだ。悪童を一人ずつ捕まえて脅せとでも言うのか?」
「そんなこと言ってない。俺だってどうしたら良いのか分からない。俺一人じゃどうにもならないから、こうして夜霧に知恵を貸してもらおうと思って……」
「生憎だが俺は、子供の喧嘩に首を突っ込むほど暇な身分じゃない」
「子供の喧嘩……?」
眉間に皺を寄せて夜霧を睨む。だけど夜霧は平然と煙草をふかしているだけで、俺の焦りや怒りなんて少しも理解していないみたいだ。きっと、理解する気もないんだろう。
「分かった。……もう夜霧には頼まない」
悔しさを堪えながら、夜霧の顔も見ずに腰を上げて部屋を出た。夜霧がこんな男だったなんて。一瞬でも頼ろうと思った自分が馬鹿だった。
腹の底から重い溜息が出てくる。明日も斗箴は幼稚園に行かなきゃならないのだ。一日でも早く不安を取り除いてやらないと、傷はどんどん深くなる……。
「お呼びでしょうか、朱月様」
夕凪の寝室前で声をかけると、いかにも寝起きといった顔の夕凪がTシャツ姿のままで出てきた。
「夜遅くにごめん。相談したいことがあるんだけど、場所変えて話せるかな」
「勿論です。すぐに着替えて参ります」
「そのままでいいよ。食堂で、コーヒーでも淹れるからさ」
前に夕凪達と晩御飯を食べた食堂へ行き、俺はインスタントコーヒーを注いだカップを二つ、テーブルに置いた。
「相談とは何でしょうか。かなり大きな悩みとお見受けしますが」
俺は夕凪に斗箴のことを打ち明けた。口の堅い夕凪なら、親父や嵐雪達はおろか屋敷の人達にも秘密にしておいてくれるはずだ。
「……なるほど。あの時弟様の表情が曇ったのは、こういうことだったのですね」
「あの時って?」
「以前、幼稚園まで送り迎えをした時です。確か朱月様が弟様に、幼稚園での食事風景についてご質問されて……その時、弟様の表情が僅かですが曇ったのを覚えています」
そうだ。斗箴は幼稚園でも家と同様に食事中の会話はしないとか言ってたっけ。あの時は幼稚園でそういう教育がされているのかと思っていたけど、本当は違ったんだ。
騒がしい教室の中、斗箴は誰とも会話することなく一人で食事している。
「……なんか悔しい」
「ええ、俺も同感です。では具体的にどういった解決法を取りましょうか」
本当に夕凪は頼りになる。いつだって俺が欲しい言葉をくれる。
「俺が虐める側の園児達を一睨みすればすぐに解決するかもしれませんが、それだと却って逆効果になる可能性もありますね」
「親父にも夜霧にも知られたくないみたいだし、斗箴は一人で我慢するつもりなんだよ」
「幼稚園の先生方に相談するのはどうでしょう?」
「それが……」
俺は斗箴が先生に相談した際のことを夕凪に説明した。
「酷い話です。そんな人間が子供に物を教えるなど……」
「酷いけど、よく考えたら先生も必死なんだろうね。親父や夜霧にバレたら間違いなくクビだって思うだろうし。まぁ、夜霧はこのこと言ったって知らん顔してるけどさ」
さっきまでのことを思い出して腹が立ち、俺はマグカップに口を付けながら頬を膨らませた。そんな俺を、夕凪が目を丸くさせて見ている。
「夜霧様にお伝えしたのですか?」
「だけど一蹴されたよ。自分の力で解決させろ、甘やかすなだって」
夕凪の表情が変わった。何だか嫌な予感がする。
「どうしたの、夕凪」
「申し訳ございません。夜霧様がそう仰られた以上、俺もお力になることは出来ません」
「え。なんで……?」
「確かに俺は朱月様にお仕えしている身分ではありますが……それでも、大元の位置に立ってらっしゃる夜霧様の言い付けは守らなければなりませんので」
「ほ、本気で言ってんの? 夕凪……」
「………」
「だって、斗箴が」
「申し訳ございません」
夕凪は辛そうにテーブルの一点をじっと見つめている。俺は茫然と座ったまま、目の前にある世界が崩壊して行く音を聞いた。
十五年間一緒にいた夕凪。晴れの日も雨の日も、ずっと俺の傍で見守り続けてきてくれた夕凪。その夕凪が初めて、俺に対して自分の意思を貫こうとしている。
「夜霧が、そんなに怖いのか……?」
「怖い、怖くないの問題ではありません。身寄りの無かった俺を拾ってくれた矢代会には恩義があるのです」
矢代家、矢代会、次期頭首。……そんなくだらない肩書はもううんざりだ。
「じゃあ夕凪は、その為に斗箴が傷付くのはいいって言うんだ。斗箴だって夜霧と同じ矢代家の息子なのに、次期頭首とその弟とでそんなに差があるってことか」
「………」
言い過ぎたことにハッとして、俺は即座に謝罪した。
「ごめん。……今の、忘れてくれ。本当にごめん……」
「いえ、お気になさらず。俺の方こそ申し訳ございません」
「夕凪も板挟み状態で辛いもんな。俺、何とか考えてみる……」
部屋に戻った俺は、枕に顔を埋めて心の中で自分自身を罵った。
夕凪に八つ当たりしたって仕方ない。夜霧に突っ撥ねられてふて腐れてる場合じゃない。斗箴は俺の前で泣いていた。一番蔑んでいたはずの俺の前で、自分の一番弱い姿を見せてしまうほど追い込まれていたんだ。
――それなのに俺は、誰かの協力が無いと何も出来ないのか?
自分に力が無い上に文句ばかり言っている。こんな奴、夜霧じゃなくても矢代家の人間として認められる訳がない。
「………」
俺は枕から顔を上げて唇を噛みしめ、しばらくの間目の前にある暗闇を睨みつけた。
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