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第9話
「あかつき、行ってきます」
「おう、行ってらっしゃい。春雷の言うことをよく聞いて、車内でも良い子にするんだぞ」
「わ、分かっている。母様みたいなことを言うな、全くあかつきは……」
むっつり頬を膨らませて車に乗り込む斗箴を見て含み笑いをする。あれから五日、俺と斗箴の間で例の話は一切出ていない。
車を見送った後、俺は一度屋敷の中に戻って厨房へ行った。頼んでおいた弁当を受け取るためだ。
「朱月様。お昼のお弁当のご用意ができておりますので、どうぞお持ち下さい」
「いつもありがとう、お凛ちゃん」
「いえいえ。この時期は沢山食べて体力を付けないと暑さに負けてしまいますからね。この村の夏に慣れていない朱月様は、特に注意が必要ですよ」
お凛ちゃんが口元に手をあてて小さく笑い、つられて俺も笑った。
「じゃあ、行って来ます」
屋敷を出た俺は、のんびりとした歩調で青空の下を歩いた。行き先は五日前から通い始めた宮若神社だ。夕凪に車で送ってもらえば十五分ほどで着くけれど、俺は敢えて徒歩で行く。
初めて一人で願をかけに行った五日前、神主の重三郎さんから教えてもらった。
「紫狼様と矢代家には昔から深い繋がりがありますから、朱月様の願いは必ず叶うでしょう」。
その言葉を聞いた俺は、藁をもすがる思いで毎日神社へ出向くことにしたのだ。東京にいた頃は神様なんて全く信じていなかったけれど、この村での紫狼様の扱われ方を目の当たりにしていたら、不思議と俺もそれを受け入れられるようになっていた。
村の人達はよく紫狼様の話題を口にする。丹精込めて作った野菜や果物などの作物を道端の紫狼様に捧げたり、散歩の時には紫狼様にお供えする手作りの握り飯を必ず持って家を出るという。
子供達も、紫狼様の祟りを恐れて神社では絶対に悪戯をしないらしい。神社は神聖な場所だと教えられているから、悪戯どころか遊び場としても滅多に選ばないそうだ。
親父も、飯田村長もだ。襖越しでしか聞いたことはないけれど、会合の時によく紫狼様の名前を出している。
何より、あの夜霧でさえ紫狼様を信じているのだ。
前に夜霧が、黒服を着た矢代会の若い男に「紫狼様に報告はしたのか」とか、「その方角は紫狼様が嫌うから別の場所に」とか言っていたのをちらりと聞いたことがある。その時はいい歳して神様を信じているなんて面白いなと思っただけだったけど、今の俺にとっては「夜霧も気を遣う紫狼様」が、一番心強い味方であることは間違いない。
だからこうして一時間以上かけて神社へ行く。弁当を用意してもらったのはその為だ。
「暑いなぁ……」
相変わらず今日も空は青く、気温も真夏日に近い。少し歩いただけで汗が噴き出てくる。俺は弁当と一緒に渡された水筒の水を少しずつ飲みながら、緑豊かな景色の中をひたすらに歩き続けた。
ようやく神社の石階段が見えてきた頃には汗が尋常でないほどになっていた。水はとっくに飲み干しているから、あの階段を上り切ったところでまず向かうのは売店だ。売り子さんも俺が来るのを知っていて、今では冷えたお茶を予め用意して待ってくれている。
「こんにちは」
「こんにちは朱月様。今日もご参拝して行かれるんですね」
「もう日課に近くなってるかも。ここに来ないと一日が始まった気がしなくって」
当然ながら、どうして俺が毎日参拝しているのかは誰も知らない。
「ご参拝が日課だなんて夜霧様みたいですね。夜霧様は早朝に来られることが多いので、私共は滅多にお目にかかれませんが」
「あれだけ色んな物を持ってるのに毎日願掛けしてるなんて、欲張りだな夜霧は」
俺のその発言に、売り子さんがくすくす笑った。
「夜霧様は願掛けというよりも、紫狼様と対話をしにいらっしゃってるんですよ」
「対話?」
「ええ。前日のご報告や今日一日の流れのご説明、悩み事や感謝の気持ち、それから村のこと、お屋敷のこと……様々なことを紫狼様に語りかけてらっしゃるみたいです。あまり他の人と深い話ができない立場にいるお方ですから、夜霧様にとっての紫狼様は絶好の話し相手なんでしょうね」
「そうだったんだ……」
紫狼様と向き合っている時だけ、「次期頭首の夜霧様」じゃなくて一村民の「矢代夜霧」に戻る訳か。意外な事実だけど、もしかして俺の「教育」についても紫狼様に報告してるのではと思うと急に恥ずかしくなった。
「ああ、生き返る……」
冷たいお茶で水分補給をしてから、俺も拝殿へ向かった。
村の繁栄や本家の未来なんて大それたものじゃない。俺の願いは斗箴に笑って過ごしてもらうこと、ただそれだけだ。
合わせた両手の前で目を閉じ、頭の中で強く祈る。
「………」
この暑さの中で目を閉じていると頭がくらくらしてくる。願い事に集中しているから尚更だ。再び目を開けた時には、シャツが汗でじっとりと濡れていた。
それから俺は拝殿を後にし、ベンチに座って昼食をとることにした。こうして眺めの良い景色と澄んだ空気の中で食事をするなんて東京じゃあり得ないことだ。口一杯に頬張った大きな唐揚げも、いつもより更に美味しく感じる。
境内では夏祭りの準備が着々と進められていた。幾つもの提灯が吊るされていて、屋台の骨組みもあらかた完成している。当日の夜、この場所が村の人達で溢れ返ることになるんだろう。その時までには、何とか斗箴の不安も取り除いてやりたい。
「朱月」
呼ばれてふと顔を上げると、目の前で仁王立ちになった夜霧が俺を見下ろしていた。
「よ、夜霧。いつの間に……?」
「さっきから呼んでいたが。あまりに無反応だから俺を無視しているのかと思ってな」
「ご、ごめん。俺考え事してて、ぼんやりしてたかも……」
溜息をついた夜霧が、俺の膝の上にある弁当に視線を落とす。
「こんな所で何をしている。夕凪はいないのか、その弁当は何だ?」
「外出の許可貰って散歩に来ただけ。弁当はお凛ちゃんが作ってくれた」
「行楽気分で神社に来られると困るんだがな。仮にも矢代家の人間が観光客みたいな真似をするな」
「……ごめん」
縮こまって呟いた俺を尻目に、夜霧が弁当箱の中の唐揚げを摘んで口に入れた。
「ん。美味い」
「美味いだろ。こっちのロールキャベツもお勧め」
「どれ――」
その時、手を伸ばしかけた夜霧の背後で声がした。
「夜霧様、重三郎の準備が整いました。どうぞ社務所にいらして下さい」
この声は飯田村長だ。首を伸ばして軽く頭を下げたが、いつものことながら無視されてしまった。
「ああ。……朱月、この場所にあまり長居はするなよ」
「分かったけど。俺、そんなに観光客っぽいかな」
皮肉っぽく笑って、夜霧が社務所の方へ歩いて行った。それと入れ替わるように飯田村長が近付いて来る。その真っ赤な顔を見れば、俺に何か言いたいことがあるのは明白だ。
「夜霧様の口に平民の食べ物を入れてくれるな」
親父よりも少し年上の飯田村長。彼はいつも真顔でそんなことを言う。よっぽど「矢代家の人間」を大事にしているらしい。
「すいません……」
夜霧が自分から進んで食べたんだと、口応えすれば更にきついことを言われるのは分かっているから素直に謝っておいた。謝ったとしても、きつい言葉が待っているけれど。
「神聖な宮若神社で弁当など、みっともない真似を……」
俺の隣にもし斗箴がいたら、どうなっていたんだろう。村長は斗箴のことを自分の孫のように溺愛してるから、少しは言葉を選んでくれたかもしれない。
ふと、村長にこそ斗箴の相談をするべきなんじゃないかと思った。例え俺の頼みだとしても、斗箴のためならきっとすぐに手を打ってくれるに違いない。
「あの、……」
「何だ」
やっぱり止めておこう。俺の話を冷静に聞いてくれる人じゃないし、何よりこの人の力を借りたくない。それに我を忘れて暴走されても困る。斗箴が虐められているなんて知ったら、虐めてる側の園児の一家を村八分にでもしてしまうかもしれない。
「何でもありません。そろそろ社務所での会合、始まるんじゃないですか?」
「気味の悪い奴だ。貴様に言われんでも分かっている、出来そこないの雑種が!」
――俺が気味の悪い奴なら、あんたはただの嫌な奴だ。
飯田村長の背中に心の中で呟いた。そうしてみて初めて、今まで自分の気持ちをどれほど押さえていたかを実感した。
それから数日が過ぎ、六月も第四週に入っていよいよ丑が原村の夏祭りが始まろうとしていた。
長閑な畦道を子供達が走り回っている。彼らの弾けるような笑い声が吸い込まれてゆく青空を見上げながら、俺は音の無い溜息をついた。
まだ、斗箴の虐め問題を解決してやれていない。
毎日帰宅した斗箴を一番に迎えるようにしているけれど、怪我をしていたのはあの日だけで、それ以来暴力のようなものは受けていないらしい。斗箴から「今日は誰々と遊んだ」とか、「誰々が庇ってくれたから嬉しかった」とか、そういう話も聞くようになって少しだけ安心していた。だけどやっぱり辛いものは辛いだろう。それに、目に見える暴力による傷よりも心に受ける傷の方が深い場合もある。
「こんにちは朱月様」
神社への長い道のりも今では慣れて、神主の重三郎さんとも世間話をするまでの仲になった。
「こんにちは。今日も暑いですね」
「冷たい麦茶をお出ししますので、ご参拝を終えられましたら社務所までいらして下さいな。今日は旦那様や梅吉様がお見えになるのは夕方からですので、鉢合わせすることもありません」
俺の立場を理解してくれている重三郎さんの心遣いに、俺は頭をかいて苦笑した。
「ところで朱月様。紫狼様の御言葉は頂けましたか?」
「いえ、まだです。大きな願い事だから簡単には叶わないのかもしれません」
「そうですか。でも大丈夫、矢代家の方には甘いんですよ、紫狼様は」
「そんなふうに言われると期待しちゃうな……」
「是非、期待して下さい」
口調も動作もゆったりしている重三郎さんが、ふいに真剣な顔をして俺の目を見た。
「必ず叶いますから。――今日か、明日にでも」
「え……」
まるで未来を見て来たかのような、やけにはっきりとした声だった。思わず返す言葉を失った俺の前で、再び重三郎さんの表情がふわりと弛む。
「それでは、私は失礼させて頂きます。社務所でお待ちしていますよ」
「……は、はい……ありがとうございます」
「紫狼様のご加護を」
「………」
一体、今のは何だったんだろう。もしかして重三郎さんは俺の願い事の内容を知っているのか。それとも毎日熱心に参拝する俺を見て、神職の立場から言っただけだろうか。
どちらにしても自信が湧いてきた。必ず叶うと、紫狼様に言われた気分だった。
今日も前の日と同じように拝殿前で二礼する。手を二回叩き、目を閉じる。
頭上では太陽がぎらぎらと照っていた。この村に梅雨というものは無いのだろうか。これではまるで八月の天気だ。今日は三十度を超えているらしい。
「………」
――紫狼様。また来ました、矢代朱月です。これで何度目かはもう分かりません。
確か夜霧は、前日にあった出来事を報告するとか言っていたっけ。
――昨日も斗箴は怪我をしていませんでした。見守って下さり有難うございます。だけど、やっぱり友達と馴染めず寂しそうです。俺に出来ることがあるなら教えて下さい。
じりじりと照る太陽に頭頂部が焼かれる。顎の先からぽたりと汗が落ちる。濡れたシャツが肌に纏わり付き、吸い込む酸素さえも熱を含んでいるようだ。
――これほど誰かのために祈ることなんて今まで一度もありませんでした。あまり欲のない人生を送ってきたつもりです。だからどうか、お願いします……
きつく閉じた瞼。暗闇の中で、ちかちかと激しく点滅する光のようなものが見える。
――俺に、力を。
一瞬、その光が「紫狼様の御言葉」なのかと思った。……思った時にはもう、足元がふらついていた。
「っ……」
頭が揺れる。形容しがたい重いものが腹の底から込み上がってきて、思わずその場で戻しそうになった。同時に、合わせていた両手がだらりと下がる。目を開けても視界は真っ暗だ。
(やばい。倒れる……)
何とか意識を保って賽銭箱に手を置こうとした時、聞き慣れた声が俺の名前を呼んだ。
「朱月……?」
振り返ろうとしてバランスを崩し、地面に背中から倒れてしまう。倒れる途中で意識が遠のいてゆくのを感じた。
「――朱月っ!」
狭まってゆく視界の中で最後に見たもの。
それは、俺の名前を叫びながら走って来る夜霧の姿だった。
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