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第10話
体が重い。手足が言うことを聞いてくれない。頭の奥がずきずきと痛む。脳天に釘を刺されたみたいだ。
起きなきゃ……。
意思とは裏腹に力が全く入らない。頭の中で葛藤を続けているうち、何か巨大な力に引き寄せられるようにして再び意識が遠のいてゆく。まるで泥水の中で喘ぎ泳いでいる金魚になった気分だ。息苦しいのにどこか心地好い。
――――。
スッと落ちるような感覚があって、俺は目を覚ました。
「………」
見たことのない天井。頬に当たる涼しい風。森の中にいるような、青々とした爽やかな匂い……。
「気が付かれましたか、朱月様」
畳の上に仰向けになった俺の顔を、重三郎さんが団扇で扇ぎながら覗き込んでいる。
「ここは……」
「社務所の休憩室です。どうやら熱中症で倒れてしまったようですね」
そうか、俺は倒れたんだ。熱中症になるなんて初めてだったから、あの時は本気で死を覚悟した。誰がここまで運んで来てくれたんだろう。夜霧の姿を見たのは覚えているけど……。
「そ、そうだ。夜霧は……?」
「先ほど部屋を出て行かれました。夕凪さんをお呼びするため、別室へ電話をかけに」
「……夜霧が、俺をここに?」
重三郎さんがニッコリと笑った。
「ええそうです。夜霧様が朱月様を抱きかかえてらしたのを見た時は、驚きましたよ」
恥ずかしい。夜霧に抱っこされてここまで来たなんて。
「………」
「あ、大丈夫ですか。もう少し寝てらして……」
「平気です、だいぶ気分も良くなってるから。夜霧の所、行って来ます」
体を起こし、そのまま立ち上がって休憩室を出た。
隣の部屋から夜霧の声がする。
「……ああ、大至急頼む。それから、くれぐれも親父の耳には入れるなよ」
そっとドアを開けて中の様子を伺うと、電話を切った夜霧が大きな溜息をついているのが見えた。その横顔は気のせいか本当に俺の心配をしてくれていたようだ。
「夜霧」
声をかけると、俺の存在に気付いた夜霧がハッとした表情でこちらを向いた。一瞬遅れて、いつもの意地悪な顔になる。
「何だ、もう立てるのか。全く……体力の無い奴はこれだからな。俺が見つけなければ手遅れだったかもしれない。感謝しろ」
「うん。……ありがとう」
素直に礼を言うと、溜息をついた夜霧がソファに腰を下ろして手招きをした。
隣に座り、怖々夜霧の顔を見る。
「……あまり心配をかけるな」
「えっ?」
「お前にもしものことがあったらどうする」
夜霧の言葉と真剣な顔には、まるで親が子を叱る時のような優しさが含まれている感じがした。夜霧に怒られることはあっても叱られるのは初めてだ。俺はその妙な空気に居た堪れなくなって俯き、呟いた。
「……ごめんなさい」
「謝るからには、今後二度と同じ失敗を繰り返さないように対処しろ。だいたいお前が世話役無しで外出するなど素っ裸で歩いているようなものだぞ。無防備にも程が――」
「夜霧、そんなに俺のこと心配してくれてるんだ」
「………」
つい口を挟むと、俄かに夜霧の表情が固まった。彼自身、言われて初めて気付いた――そんな様子だった。
嬉しくて顔が綻んでしまう。
「ありがとう、夜霧」
「……何を勘違いしているのかは知らないが……。俺は、……お前の飼い主という視点から言っているだけだ」
「だから俺のこと、犬みたいに抱いて運んでくれたんだ」
「……引きずってやっても良かったが……俺も、そこまで鬼じゃない」
所々言葉を詰まらせる夜霧が可笑しくて、何だか可愛らしいとさえ思った。夜霧のこんな姿は滅多に見られるものじゃない。同時に彼が本当に俺の心配をしてくれてたんだと思うと、胸の中が温かく、嬉しいような恥ずかしいような気持ちになってくる。
「………」
黙ったまま夜霧と並んで座っていると、妙にその存在が大きく思えてきた。次期頭首だからとかじゃなくて、一人の男として頼りたくなるような……。夕凪とは別の意味で傍にいると安心するような、そんな感情が湧き上がって来る。その証拠に俺の心臓は無視できないほど激しく鼓動し、エアコンの効いた室内でも握りしめた手に汗が滲んでいる。
恋愛感情とは程遠い高鳴りかもしれない。一時の気まぐれな緊張感かもしれない。だけど今の俺は確かに、隣にいる夜霧を意識していた。
「お前、このところ毎日参拝していたらしいな。重三郎に聞いたぞ」
突然言われて俺は一瞬呆けてしまった。慌てて頷き、答える。
「う、うん……そうだけど」
「斗箴のためか」
「………」
返事をしない俺の横で、夜霧が太い息を吐いた。
「他人のために自分を犠牲にしてどうする。仮にも矢代家の一員になりたいのなら、逆に他人から身を犠牲にしてまで守られる存在になれ」
「斗箴だって矢代家だろ。……俺には、困ってる弟を見捨てるなんてできない」
俺は膝の上で強く両手を組み合わせ、自分の中にある想いを途切れ途切れに吐き出した。
「だって、初めて出来た弟なんだ。生意気で高飛車で頑固なくせに……あの時、本気で俺に助けを求める目をしてたんだよ。だから俺、斗箴のこと絶対に守ってやりたい……」
「お前の言い分はよく分かった。だが、自己犠牲の精神が必ずしも良い結果に繋がるとは俺は思わない。実を結ばない時のことを考えれば、他の道だって用意することが――」
「自己犠牲なんかじゃないんだよっ……」
夜霧の言葉を遮って、吐き捨てるように言ってしまった。
「家族を助けたいって思うのは当然のことじゃないか。そこに理由なんて無いし、見返りだって求めてない。だから夜霧だって……さっき俺のこと助けてくれたんだろ?」
「………」
「目の前で俺が倒れたから、何も考えず咄嗟に助けてくれたんじゃないのかよ? 俺、それ聞いた時凄く嬉しかった。……なのにどうして、俺なんかよりずっと大変な思いをしてる斗箴のことは助けてやらないんだよ」
夜霧は何も言わず、じっと正面を見据えている。
「自分の弟すら守れないのに、この村の全員を守るなんて……」
「……何だと」
流石に頭にきたんだろう。吊り上がった目を俺に向けるが、事実それに言い返せない夜霧。俺も真っ直ぐ夜霧の目を見つめ返した。こんなことを言う自分が信じられなかったけど、間違ったことは言っていない自信があった。
「………」
しばらく睨み合いが続き、やがて夜霧から視線を逸らした。
「……お前はどうあっても斗箴を救う気か」
「一度や二度倒れたからって願掛けを止めるつもりはないし、夜霧が言ったように他の道があるなら、それも同時に考える」
「他の道、か……」
夜霧が何か考え込むようにして口元に手をかざしたその時、控えめなノックの音と共に休憩室のドアが開いた。
「夜霧様、夕凪さんがお見えになりました。朱月様の具合はいかがで――」
「朱月様っ!」
後ろから重三郎さんを押し退けるようにして、真っ青になった夕凪が駆け込んでくる。
「大丈夫ですか朱月様! 怪我はありませんか!」
「だ、大丈夫だよ。心配かけてごめん」
夕凪の勢いに驚きながらも笑ってみせると、彼の青褪めていた顔がたちまち正気に戻っていった。
「そうですか……安心しました」
夕凪が夜霧の足元に膝をつく。
「夜霧様、ご迷惑をおかけ致しました。朱月様を救って下さったこと、心より感謝致します」
今にも床に額を擦り付けそうになっている夕凪を見た夜霧が、ソファから身を乗り出して笑った。
「お前が慌てる貴重な姿を見れたから、許してやろう」
「あ、有難うございます……。さあ、帰りましょう朱月様」
部屋を出て行く夕凪の後に続こうとした時、後ろから夜霧に腕を掴まれた。
振り向いた俺の耳元で夜霧が囁く。
「さっきのお前の台詞――必ず撤回させてやる」
「え……」
何か言おうとした俺を、夜霧が手で追い払う仕草をした。仕方なく部屋を出て夕凪を追いかけ、それから重三郎さんにもお礼を言って、俺は石階段の下に路駐されていた車に乗り込んだ。
「本当に、あまり無茶をなさらないで下さい。水分はしっかりとってらっしゃいましたか? 朝食は? だいたい、この時期に徒歩で神社まで行くというのが始めから無理があったのです。今後は参拝に行く際、必ず俺が同行致しますので」
車内ではずっと夕凪のお小言が続いた。よほど怒っているらしい。
「たまたま夜霧様がいらっしゃったので良かったですが、二度はありませんよ」
俺は肩を竦めて俯き、呟いた。
「ごめん、夕凪……。怒ってるよな」
「いえ、俺は貴方を心配しているだけです。むしろ、朱月様をお守りできなかった自分自身に憤りを感じています」
ハンドルを握る手に、グッと力が込められる。
「今後はどこに行くにも俺が車を出しますから。それから、外を歩かれる際には俺が日傘を差します。……朱月様専用の日傘と保冷水筒、日除けの帽子も用意しなければ」
「過保護すぎるよ」
「いえ。……あとは糖分、塩分も必要ですから……」
心ここにあらずといった状態で真剣に今後のことを考えている夕凪を横目に見ながら、俺はシートに寄りかかって伸びをした。
「それにしても朱月様、何故最近になって毎日神社に通われているのです?」
「………」
斗箴のことをお願いするため。そう言ったら夕凪はきっと、あの時力を貸せなかった自分に更なる憤りを感じてしまう。だから俺は小さく笑って、夕凪の横顔にこう言った。
「俺も、夜霧を見習おうと思ってさ」
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