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第11話

 翌日いつも通りの朝食が終わった後、親父が出て行ったところで突然夜霧が切り出した。 「斗箴。今日は幼稚園まで俺と嵐雪が同行する」 「え? な、何故です兄様」  驚く斗箴を視界の隅に捕らえながら、俺も顔を上げて夜霧を見た。 「春雷がこの暑さの中、熱中症でやられたらしい。日頃から体力作りをしていない者はこうなるんだ」  ちらりと俺を見て夜霧が言う。その視線を受けた俺は申し訳ない気持ちで一杯になり、正座をしたまま縮こまった。 「春雷……今朝は姿を見せないと思ったら、そうだったのですか。……でも、兄様はお忙しいのに。そういうことなら、夕凪とあかつきに頼んだ方が……」 「朱月は今日、外出禁止だ。だから俺が行く」 「で、でも……」 「俺では不服か?」 「そっ……そんなことありません! 兄様、有難うございます! おれ用意してきます!」  立ち上がって玄関へ駆けて行く斗箴の姿が見えなくなったのを確認した後、俺は声を潜めて夜霧に言った。 「どういうこと? 春雷が倒れたなんて嘘なんだろ?」 「………」  何も言わずに立ち上がる夜霧。 「だ、だったら俺も一緒に行く」 「お前は休んでいろ。さっきも言ったが外出禁止だ。神社へ行くのも禁止だぞ」  どうにも腑に落ちない気持ちで夜霧達と一緒に玄関を出ると、既に用意してあった車の横で嵐雪が爽やかに笑っていた。 「弟様、おはようございます! 今日は俺がお送りしますからね、後部席にどうぞ」 「あ、ありがとう嵐雪」  斗箴も俺と同じく、夜霧の行動を不思議に思っているらしい。車に乗る直前、俺に顔を向けて小さく首を傾げていた。  車が屋敷から出て行くのを見送った後もその場で佇んでいると、背後で玄関の扉が開く音がした。振り返った先には、寝癖だらけの春雷が目を擦りながら茫然と立っている。 「ど、どうしたの春雷」 「おはようございます、朱月様……。今日は嵐雪が斗箴様をお送りすると言うので、それに甘えてうんと寝坊しちゃいました。俺もお見送りするつもりでしたのに……」 「たった今、出て行ったよ。夜霧も一緒に」 「えっ、よ、夜霧様も……? そんなの俺、一言も聞いてません。……どうしよう、寝坊したなんて夜霧様に知られたら……」 「夜霧が決めたことみたいだし、そんなに心配することないと思うよ」 「そ、そうでしょうか……しかしどうして急にそんなことになったんでしょう? 昨夜の嵐雪の話では、夜霧様の今日のスケジュールに笹上へ行く予定など無かったはずですが」 「………」  中庭から吹いてきた心地好い風が、熱を帯びた俺の頬を撫でて行く。  少しずつだけど、答えが見えてきた気がした。 「戻ろうか、春雷。朝食まだだろ?」 「は、はいっ!」  その答えが間違っていなければ良い。夜霧の気持ちが俺と同じだったら良い。  俺は弛みっぱなしの頬をそのままに、もう一度車が走り去った方を見てから玄関の扉を開いた。 「朱月様、黒胡麻大福の味見をお願いします」  お凛ちゃんに手渡された大福に齧り付くと、他の女中さんが来て言った。 「朱月様、明日の午後、田中のお婆様の家に行くのですがお土産は何が良いでしょう?」 「あそこの婆ちゃんは確か芋羊羹が好きだって言ってたかな」 「朱月様、六丁目のご主人から今朝収穫したばかりの果物を頂きましたよ!」 「ほんと? 今度お礼に行ってくるよ」 「朱月様、屋敷の池に大きな蛙がいるんです。ど、どうにかして頂けませんか」 「それはいさせてあげたら良いんじゃないかな……」  夜霧の仕事と比べたら大したことではないけれど、最近は俺も大忙しだ。昼食を終えて一息つきたい時でも、夕凪と丑が原村についての勉強をしている時でも、あちこちから同時に声をかけられて休む暇がない。 「朱月様、水分補給の時間です」  女中さん達から逃げるようにして厨房を出た俺は、夕凪と並んで縁側へ腰を下ろした。今日の庭も本当に美しい。縁側は屋敷の中で俺が一番気に入っている場所だ。 「夜霧達、遅いな……。もうすぐ三時になるけど」 「恐らく弟様のことで話し合いが長引いているのでしょう」 「やっぱ夕凪もそう思う? 少し不安だけど、これで間違いなく虐めが収まるといいな」 「全く、貴方は大したお方です」  水筒のストローを咥えたままで夕凪に顔を向ける。言われた意味がよく分からなかったのだ。 「何で俺が大した方なの?」 「何故って、あの夜霧様を動かしてしまわれたのですから」 「俺、夜霧に何も頼んでないけど……」  夕凪が無表情のまま口元に人差し指をあてた。それから「秘密です」と前置きをして、話し始める。 「昨日、神社から電話を頂いた時に……夜霧様が仰っていました」 「何て?」 「こんなことになるなら、初めから俺が動いていれば良かった」  夕凪の口調は棒読みだったけど、俺は顔が真っ赤になるのを止められなかった。 「随分慌ててらしたようですよ。それこそ、俺以上に」 「う、嘘だ……」 「嘘ではありません。その証拠が、今朝の夜霧様の行動なのです」  俺は夕凪に赤面した顔を見られないように俯いた。暑さによるものとは違う汗が、身体中から滲んでくる。胸の高鳴りが、止まらない――。 「……帰って来られたようです」  門の方から聞こえた車の音に俺はハッとして顔を上げた。今この状態で夜霧の姿を見たら俺の顔は爆発してしまう。慌てて傍にあった団扇で自分を扇ぎ、何度も深呼吸をした。 「お出迎えに行ってきますが、朱月様はどうなされますか」 「お、俺も行くよ……」  夜霧と顔を合わせるのは気まずいけど、斗箴のことを聞かない訳にはいかない。俺はゆっくりと立ち上がり、夕凪と一緒に玄関へ向かった。 「お帰りなさいませ、夜霧様」 「おかえり。……どうだった? 夜霧」 「ん。別に大したことはない」  よく分からない返事をしながら、夜霧が俺達の横を通り過ぎて階段を上って行く。 「な、なに? どういうこと……」  俺は後から玄関に入ってきた嵐雪に詰め寄った。 「嵐雪。夜霧、幼稚園で何かした?」  嵐雪の目が濡れている。その只ならない様子に、俺は思わず伸ばした両手で嵐雪のスーツの胸倉を引っ張った。 「な、何があったんだ?」 「……朱月様。俺は正直申し上げまして、夜霧様に惚れ直しました。あの方こそ、俺が生涯お仕えすべきお方です」  俺も夕凪もきょとんとしてしまった。 「あの、嵐雪……? 良かったら具体的に何があったか教えてくれないかな」 「あ、失礼しました。つい感極まってしまって……。結論から申しますと、夜霧様は幼稚園の先生方に話をして下さったのです。俺は傍で聞いているだけでしたが」 「そうなんだ……」 「突然、夜霧様が現れたことで先生方はかなり動揺してらっしゃいました。園長先生や弟様の担任の先生は勿論、職員の方全員が集められた応接間で、夜霧様は幼稚園の授業内容や園児達の遊びについて、長々とご質問してらっしゃいました。時折笑い声が湧き上がるような良い雰囲気で、すっかり先生方の緊張も解れた頃に――夜霧様は仰ったのです」  早く続きが知りたくて、俺は嵐雪のスーツをぎゅっと掴んだ。  一呼吸置いて、嵐雪が言う。 「『この度の申し立ては、弟が矢代家の人間であるからということは一切関係がありません。私は丑が原村と笹上町に住む全ての子供達が最善の環境で教育を受けられるよう、日々全力を注いでいるつもりです。どうか貴方がたもそれに力を貸して頂きたい』……と」 「……夜霧が、そう言ったの?」  頷いた嵐雪を見て、俺はその場にへたりこんだ。身体から力が抜けて行く。なのに震えが止まらない――。 「夜霧様が他人に頭を下げてお願いされたのですか。俺たちの知る限りでは初めてのことですね、嵐雪が感極まるのも頷けます」 「俺は初め、夜霧様が先生方を怒鳴り散らすのではと正直不安だったんです。それがあんなにも立派な態度を取られて……。聞かれたらクビが飛ぼうとも敢えて言わせて貰いますが、オヤジじゃあんなふうにできないですよ、絶対に!」 「朱月様の頑張りがあったからこそではないでしょうか」  嵐雪と夕凪の言葉が、心に優しく染み込んで行く。 「……お礼、言ってくる」  俺はよろよろと立ち上がり、手摺に捕まって二階に続く階段を上がった。どうして胸が高鳴っているのか。どうして頬が赤くなっているのか。この説明し難い妙な気持ちは、一体どこから来ているのか。  分からないまま、俺は夜霧の部屋の前に立った。 「夜霧」  襖を開けると、文机の前で何やら書類に目を通している夜霧がいた。ついさっき嵐雪を男泣きさせるほどのことをしてきたというのに。既に何事も無かったかのように振舞うその冷静さもきっと、夜霧なりに身に付けた「頭首として必要なもの」なんだろう。 「なんだ、朱月」 「その、ありがとう。嵐雪から聞いた」 「あの阿呆が……言うなと言ったのに」  俺は許可も貰わないまま部屋の中へ足を踏み入れた。文机の前で膝を下り、畳に両手をついて頭を下げる。 「本当に、ありがとうございました」  心からの感謝を込めて言うと、そんな俺を夜霧が鼻で笑った。 「別にお前のためにやった訳ではない。俺が出て行って終わることなら、さっさとケリを着けた方が時間も無駄にしなくて済むと思ったからだ。……それに、またどっかの誰かに倒れられても面倒だしな」  俺は嬉しさに唇を噛み締めながら、その言葉を聞いていた。 「その時はまた夜霧が助けてくれるだろ? 俺のことお姫様抱っこしてさ」 「は。調子に乗るな」  つまらなそうに目を細める夜霧に、言った俺の方が恥ずかしくなる。 「神社でのことも含めて、俺、夜霧に世話になりっ放しだ。負担かけないって決めたのに」  そう言って笑ってはみたけど、胸が苦しかった。 「嵐雪が夜霧に心底惚れてるのも納得できた。夜霧って本当に意地悪だけど、ここぞという時には一番頼りになる」 「やめろ、お前に言われると気持ちが悪い」 「俺なんて何するにも中途半端で生きてきたし、すぐ諦めてたし。誰かに頼られた経験なんて一度も無い……」  呆れたように笑う俺の前で、夜霧が書類に目を落としたまま言う。 「斗箴に頼られていたんだろうが。それに、諦めず毎日神社へ通っていた」 「そうだけど、でも結局は夜霧が解決してくれた訳だから」 「紫狼様を遣わせたのはお前だろう。お前の願いが聞き入れられたということだ」 「え? ……あっ」  あの時、重三郎さんが言っていた言葉が頭の中で大きく響いた。  ――必ず叶いますから。今日か、明日にでも……。  俺は思わず身を乗り出し、夜霧の顔をまじまじと見つめた。 「その顔は、重三郎に何か言われたな」 「い、言われた。なんで? どうして重三郎さんは、願いが叶うって知ってたの?」 「別に珍しいことじゃない。紫狼様に仕えてる重三郎がお告げを頂くのは当然のことだ。東京の神社は違うのか?」 「わ、分からないよそんなの。なんか俺、知らない間に凄い体験してたんだな……」 「そんなに凄いことか」 「だって、不思議すぎる」 「仏陀でもキリストでも、その信仰が今日まで続いていることを考えれば、神の奇跡は別に不思議なことじゃない。ただ人間の理解の範疇を越えているというだけだ」 「夜霧って宗教学も勉強したの?」 「今度ゆっくり、お前にも話してやろう」  信じられない思いだった。夜霧と俺が対等に世間話をしているなんて。互いに声を上げて笑ったり、軽口を叩き合ったりできるなんて。  初めて会った時に感じた堅苦しい空気は、今の夜霧からはもう微塵も感じられない。 「……朱月」  しばらく他愛の無い会話を続けた後、ふいに夜霧が俺を見た。 「なに?」 「………」  夜霧は何かを言い淀んでいる。そうしているうちに、せっかく上げた視線を俺から逸らしてそっぽを向いてしまった。 「夜霧?」 「……今回のことだが……正直言って、お前が斗箴の為にそこまでするとは思わなかった」 「っ……」  瞬時に頬が赤くなる。もしかして今、俺のことを褒めてくれたんだろうか……? 「どうやら俺は、お前を見くびっていたようだな」 「いや、俺は別にそんな……ただ必死だっただけで」 「弟のために必死になる、か。それに加えて紫狼様を遣い、俺の腰を上げさせた。……朱月、そんな自分をお前はどう思う」  何を問われているのか分からなくて、俺は首を捻って考えた。夜霧の目は再び俺に向けられている。 「……よく頑張った、とか?」 「自分で言うな」 「だって」  すると、夜霧が咳払いをしてから真っ直ぐに俺を見て言った。 「少しだが。今回のことで俺は、お前を矢代家の人間として認めても良いという気になった」 「えっ……」 「あくまでも少し、だ。言っておくが、お前が俺の犬であることに変わりは無い。ただほんの少し、だぞ」  ふて腐れたように唇を尖らせて念を押す夜霧の前で、俺はポカンと口を開けたまま何度も瞬きをした。  夜霧に認めてもらえた――。 「夜霧……ありがと」  笑ったつもりが、涙が零れた。 「いちいち泣くな。少しだけだと言っただろう」 「だって俺、本当に……嬉しくってさぁ」  困ったように笑いながら涙を拭うと、夜霧が伸ばした手を俺の頭に置いてくれた。大きな手の優しい温もり。嬉しかった。今まで俺はこの瞬間のために頑張ってきたのかもと思うほどに、胸の中が温かさで満たされていた。  神社で感じた「あの想い」が蘇ってくる。俺、夜霧の傍にいたい――。 「人のために懸命になれるのは生まれつきの才能だ。残念ながら、俺にはそれが無い」 「夜霧は村の人達のために頑張ってるだろ。俺はたまたま斗箴のことだったから必死になれただけで、この村の全員のためにそうできるかって言われたら自信が無いよ」 「俺は『人のため』という言葉を間違って身に付けていたのかもしれない。あの時お前を突き離したのは、それが斗箴のためだと本気で思ったからなんだ。俺の弟なら自分で何でも解決できる、するべきだと決め付けていた」  夜霧の手が、俺の頭から頬に滑り落ちてくる。 「その間違いに気付かせてくれたのが、神社でのお前だった」 「………」 「こっちに来い、朱月」

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